第十六話 呪術の記憶、羽化するセミ
石像を維持するために、週に三日は島中を歩き回っている。
表面をきれいにするだけではない。動物の接触や植物の成長によって移動したものがあれば、正しい位置に戻す。
呪術の効果を最大限にするには、しかるべく場所への配置が必要だ。定位置から大きく外れた石像は、効果が弱まってしまう。
方々を巡る合間に薬草を採り、かごに収める。
入植者たちは、海沿いの場所しか島を把握していない。しかし先住民は、この島の全ての場所に精通している。厳密に配置された石像の位置を通して、詳細な地図を頭に入れている。
歩いているうちに頭上の樹冠の層が厚くなり、周囲が暗くなった。テオートルは、七歳のときに初めて父に見せてもらった呪術を思い出す。
七日の儀式を経たあとの、月明かりが強い日だった。森の中にある開けた場所には、月による濃い影が落ちていた。
呪術の存在は、両親や集落の老人たちから聞いていた。しかし、実践するところは見たことがなかった。
果たしてそれは現実のものなのか。周囲の大人を疑うつもりはないが、確信を持てずにいた。
「テオートル、見ていなさい」
父は枝を持ち『◎◎◎◎○○○』と複数の円を描く。そのあいだに複数の線を引いた。
◎|◎|◎◎○|○|○
最後に、図の中心に芥子粒ほどの石の欠片を撒き、羽化しようとしているセミの幼虫を置く。
なにが起きるのかとテオートルは考える。子供らしい想像力で、花火のように派手な魔法を期待した。
しかし、大きな変化はなかった。セミがゆっくりと羽化していく。薄い色をした弱々しい幼虫は、通常の半分ほどの時間で成虫になった。
父は満足そうな顔をした。テオートルは失意の表情を浮かべる。
目の前の現象に、どれほどの価値があるのだろうか。入植者の持つ銃や車の方が、余程価値がある。より優れた文明が、非力な文明を駆逐した。そのことの証明でしかないように思えた。
父は手を伸ばして、セミに触れる。セミは全身を震わせて鳴き声を出そうとする。
しかし、音はわずかしか出なかった。父の指先がセミの胴体の一部と融合している。父はセミを持ち上げ、自身の手の甲に貼りつけた。まるで宝飾品で飾ったように、融合した部分は美しい光沢を見せた。
テオートルは目を見張る。異なる生物との融合は、先ほどの時間操作よりも少年を興奮させた。テオートルは、父に感想を述べる。父は息子の言葉に失望の色を見せた。
「虫との融合など些末なものにすぎない。島の呪術の最も偉大なところは、羽化を早めた部分にある。おまえは、そのことを理解しなければならない。入植者を滅ぼす呪術も、本質的には同じなのだから」
まだ幼いテオートルには、父の言葉は響かなかった。父が話したことを血肉にするには、十年以上の月日が必要だった――。
頭上を覆う緑がわずかに晴れた。テオートルの意識は、現在に戻って来る。
いや、意識がどの時間に存在しようが関係ない。時間とは本来、今に縛られるものではないのだから。
森の奥に、淡い光が見えた。石像が発する呪力の光。巨大な呪術装置に流れている力が漏れ出し、時間の揺らぎが発生している。呪術の源から供給される力で、時間が様々な形に変形していた。
人はそこに映る影に、ときに霊と呼ばれる存在を見る。それが物理的な現象として大きな効果を発揮するには、長い儀式が必要になる。
いよいよ虐殺のときが近づいている。四十九年前に父は、先住民の呪術を応用して、入植者を滅ぼす仕掛けを考案した。
本来は、人を殺すための呪術ではない。先住民の文化を彩る、装飾的なものだった。それを父は、島民を滅ぼす連鎖作用に組み直した。
父は既に死んだ。母ももう生きていない。父の呪術の成就は、息子のテオートルに託された。
入植者たちを皆殺しにする呪術。島の全ての人間を滅ぼす仕掛け。
先住民たちも例外ではない。屈辱に耐えるぐらいなら、敵とともに自らも滅ぶ。人は誇りのために死ねるのだ。自分の世界を守るために命を絶つことができるのだ。
呪術は確かに効果を発揮するだろう。テオートルは、蔑みの目を向ける町の人々を思い出して、笑みを浮かべた。