輸血
こんなつもりじゃなかった。
本当に、こんなつもりじゃなかった。
惨めだったから。誰も彼もみんな、私の邪魔だったの。
分からなかったの。どうやって、あなたのところへいったらいいか。
ああ。
あの瞬間、私はあなたを憎みさえ、した。
そうするしかなかったの。
私をこんなに惨めにさせるのは、他ならぬあなた。
こんなにこんなに好きなのに、あなたは私のことを、知ってさえいないのよね。
結局、私はひとりぼっち。
この死んだ空の下で、ひとりぼっち。
どこへ行ったらいいかもわからない。
ただ、あなたに優しくしてもらいたかっただけ。
あなたが、あの子にしてたみたいに。
それだけだったの。
* * *
信号が、黄色に変わった。そのまま、赤になる。危険を知らせる、鮮やかな赤だ。
隣に立つ愛が、話しかけてきた。
「ねえ大輔、今度の日曜、遊園地に行こうよ。安いチケット、友達にもらったんだ」
「今度の日曜は…ごめん。弟の試合があるんだ」
「そうなんだー…じゃあ愛も崇彦くんの応援に行っちゃおうかな!」
だめ?と、愛は大輔の顔を覗き込んできた。ふわっとゆれる、淡い茶髪の後れ毛。
崇彦は、今頃練習をがんばっているに違いない。
献血ルームの赤い看板と、中から出てくる女を眺めながら、大輔は、青のユニフォームでサッカーボールを追いかける崇彦を思った。
歩行者用の信号が青になったのを確認すると、大輔は歩きだした。
「あ、待って」
愛が追いついてくる。その拍子に、彼女の細い指先が、大輔の手のひらに触れた。
大輔は顔を赤らめ、空っぽの手を握り締めた。
* * *
その夜。バイトを上がって、家に帰った大輔を、弟が出迎えた。
「兄貴、おかえり」
大輔は怪訝そうに眉を寄せた。
「崇、今日は塾じゃないのか?」「えっと……」「さぼったのか」「父さんには内緒にして!頼む」
仕方ないな、と、兄は甘んじた。
「そうそう、バイトで賄い出たんだけど、パスタのお土産あるぞ」
「食うっ!」
「明太子だけど」
パスタと聞いて飛びつきかけた弟が、即、距離をとる。
「勘弁!おれ、それだけは食えないんだよね」
そう言って、弟は顔をしかめた。
それなりに大きな図体で、偏食する姿はなかなかかわいいものなのだ。
「ところで…愛ちゃんとはどうなの、兄貴」
ジャケットをハンガーに掛けようとした、大輔の動きがかたまる。
振り返るものか。大輔は思う。奴がニヤニヤ笑いを浮かべて、こっちを見ているだろうことは、明らかだからだ。
崇彦は言った。
「なに…まさか、まだなの?」
「まだって、何が」
「何がって…」
こーさい。
大輔は笑った。そんなわけないだろ。まだ会ってから2カ月足らずだぞ。そう言ったら、弟からの厳しいダメ出しに遭った。
「付き合っちゃえよ、あんなにかわいい子、めったにいないって」
愛とは、今までいい友達をやってきた。これでしっくりきている大輔としては、このままでもいいような気もする。だが、弟いわく、出会って3ヶ月付近というのは、いわば、勝負のタイミングなのだそうだ。
「行っちゃえよ、愛ちゃん、兄貴のこと絶対嫌いじゃないって、絶対」
「まあ、少なくともそうだろうな」
「何で兄貴そんなにモテるんだろうな……こんな超チキンのくせして!」
「モテてなんかないと思うぞ?」
「自慢かよ?」
「いや……」
大輔は会話をきろうとした。でも、崇彦のしゃべりは止まらない。
「マジで、何をためらってんの?引っかかることがあるなら、俺も手伝うし?」
「俺から行動する気はないよ」
崇彦は、面白いテレビを見逃した子供のように、頬を膨らませた。
「なんだよ、はっきりしろよ。じゃあ、兄貴のことを人知れず思い続けてる女の子がいたらどうすんだよ。そーゆー子に、失礼なんじゃないの?」
いない、いない。そんなの。大輔は、崇彦が何を言おうとも、聞こえないふりをした。
* * *
次の日曜。
2008年最初の5月の空は、美しく晴れていた。
「畜生、なんであそこで、あんなフリーキックきめられちまったんだ!」
泥まみれのユニフォームを着た崇彦は、大きな声で叫びながら空を仰いだ。
崇彦、愛、そして大輔は、アイスクリームショップでおやつを食べて、その帰り道だ。
愛が、崇彦の顔を覗き込んだ。
「崇彦くん、かっこよかったよ?ホント、愛は見てたよ」
静かだった。
空はすっきりと晴れて、真っ青。そのところどころに、淡い白の雲が浮かんでいる。
並木の若い緑と、少しはなれたところを歩く女のワンピースの白が、夏色のコントラストを作っている。風は、ほのかに渋みのある若葉の香りを孕んで、さわやかに頬をなでた。
幸せの音がする。
肺のすみずみまで息を吸って、大輔は目を閉じた。
身体が透き通って、少しだけ熱を孕んだ夏の風が、すっと身体を通り抜けていく。
最愛の弟と、かわいい女友達とすごす午後。それは、のどかで、幸福で、完璧なものだった。
突然、黒板に爪を立てるような音がした。
大輔を現実世界へ引きずり戻したのは、女の悲鳴だった。
「愛?」
見ると、目の前で、白のワーゲンが、おかしな方向に鼻を向けてとまっていた。
いや、とまっているのではない。ガードレールにぶつかって、動きを止めているのだ。
その瞬間、大輔は心臓を鷲掴みにされたような気がした。
その脇に倒れているのは、ついさっきまで笑っていた崇彦だったのだ。
「崇彦!崇ッ!」
「きゅ、救急車…」
愛が震える腕で、鞄をさぐる。
大輔は辺りを見回した。なんてことだ。近くには誰もいない。
大輔はワーゲンを見やった。バンパーが派手にひしゃげ、運転席の男性も、頭から大量の血を流して、気を失っている。
思考がとまる。どういう状況だ、これは。
なすすべもないまま、大輔は茫然と立ち尽くしていた。
路上に広がる血の赤と、血色を失っていく崇彦の頬の白さばかりが、鮮やかに目に焼きついた。
* * *
2006年9月15日
ああ、つらい日々。
クラス替えがあってから、半年。ああ、このクラスにもなじむのは無理だわ。
私ってどうしてこうなんだろう。
渡り廊下を歩く。サッカー部のボールが飛んできて、とっさによけた私は、転んでしまった。
それだけじゃなく、クラス全員の国語のドリルを、泥水の中に落としてしまった。
私は絶望した。また嫌われる。また、私はクラスに一人ぼっち・・・。
涙があふれてきて、一人で泣いてたら。
王子様が現れたの。
大きな手で、私を助け起こしてくれた。私、どうしようって、彼に言ったの。
そして私と一緒に、クラスのみんなに謝ってくれた。
みんなは怒ったけど、北島先輩が言うんなら、許してやろうって。
センパイ・・・?ひとつ上の先輩なんだって。
別れ際に、お礼を言ったら、笑ってくれた。
うれしかった。すっごく。うれしかったよ。
先輩。
* * *
救急病院は、たとえ休日の夜であっても、せわしなく働くナースたちで落ち着かない。
取り乱して泣く愛をなだめて、さっき、家に帰した。自分にも責任があると主張する愛は、なかなか帰ろうとはせず、説得するのに苦労した。
大輔は、診察室に呼ばれて待機していた。体は、微動だにしない。息をするのも忘れるくらい、気がつくと緊張している。何を言われても大丈夫なように、覚悟をするかのように。
やがて白衣を着た男が現れ、目の前のスツールに腰をおろした。
「弟さんですが、まずは安心してください。命には別条ないですね」
担当医の言葉に、大輔は、ホッと胸をなでおろした。
父親には携帯が通じず、何とか事を伝えた母親も、いまだ到着する兆しがない。
今は大輔が、保護者役を買って出るしかなかった。
大輔は訊いた。
「どのくらい、回復までにかかりますか?手術とか、必要ですか?」
「手術は、要りません。症状は骨折と打撲なので。絶対安静と、ギブスで直ります。ただ出血が著しいので、輸血はしていただくことになりますが。でも、2か月くらいで退院できますよ。後遺症もなくね。もともと、体力もあるようですし、回復はもっと早いかもしれません」
大輔は、崇彦の病室に通された。
崇彦は顔色もなく、何かの機械や酸素マスクや、いろいろなものに繋がれて横たわっていた。壁も、ベッドも、何もかもが白い部屋で、輸血バッグだけが毒々しいくらい赤い。大輔は、チューブを目で追った。弟の身体に、確実に、赤い液体が入っていく。
弟は、異常な早さで回復した。退院できるまでおよそ2か月、と言い渡されたのに、事故から10日も立つころにはもう、歩き回れるほど回復していた。
崇彦の退院を待って、大学のカフェで、再び愛と落ち合った。弟は元気だと伝えると、愛は自分のことのように、喜んだ。大輔の顔も、自然とゆるむ。弟のことを、おそらく誰よりも心配していた愛だったからだ。
愛は言った。
「こないだの遊園地だけど、崇彦くんを誘って、3人で行こう!退院祝いに」
「まだ湿布が取れないけどな?」
大輔は大事をとろうと渋ったが、家に帰って弟に意向を聞くと、もちろんいく、願ってもないことだという。
そんなわけで、3人で、遊園地へくりだすこととなった。
* * *
2007年5月14日
先輩が卒業して、学校にいなくなって2ヶ月。ずっと見つめてたから、ちょっとさびしいな。
先輩のこと、いっぱい調べたから、何もかも知ってる。
部活ばっかりで、女の人と一緒にいるところ、見たことないよ。彼女、いないんですね。
私、世界中の誰よりも、先輩のこと、分かります。
そういえば、まだどこの大学へ行ったのか知らないや。調べなくちゃ。
進路室に行けば、わかるかな。
* * *
愛は写真が好きだ。
大学に入って、ひとつ後輩の彼女に出会ってから、コンパや、何やら、いろいろなところで、数えきれないくらい写真を撮っている。
「大輔、写真とろうよ!」
半袖のふわふわした服に身を包んだ愛がはしゃぐ。空は快晴だった。ネズミのふざけたオブジェのまえで、3人で記念撮影をした。愛がデジカメのディスプレイを覗き込み、画像を確認する。さえない感じの男と、高校生と、はじけそうな笑みを浮かべた美少女が写っていた。大輔の眉が下がり、同時に口元が緩んだ。どうして写真なんか好きなんだろうな。ただの写真じゃないか。それ以上の何でもないってのに。
でも、愛はすごく幸せそうだ。愛がそんな表情をしているとき、自分もなんだか、優しい気持ちになるのだ。
ふと、大輔は後ろを振り向いた。
日曜の遊園地は、人でごった返している。知っている顔があろうはずもない。そうだ、きっと、自意識過剰だっただけだ。
「兄貴、どうしたん?」
崇彦が首をかしげている。大輔は、感じたおかしな気配をかき消すように、手を振った。
「なんでもない」
弟はさらに何か言いかけたが、口に出す前に愛が大輔の手をとった。
「ねぇね、愛、ジェットコースター乗りたい」
愛の手には、パンフレットが握られている。「世界一の速さを誇るコースター」。大きく円を描きながら、おそろしく速い速度ですべるコースターがウリの、人気アトラクションだ。
「うっ。俺はやめとくよ」
大輔は、絶叫系が苦手だった。
「崇彦、お前どうする?」
「俺もパス。さすがにドクターストップだわ」
「じゃあ愛だけで、いってきまーす」
愛は大輔と崇彦に手を振り、人ごみのなかへ消えていった。レースのスカートが風にひるがえるのを、大輔は目で追いかけた。
ふと、うなじが焼けるような感じを覚えた。焼けるようでもあり、ナメクジに這われるような感じでもある。
振り返ると、崇彦が少しはなれたところに立っていた。
「兄貴、どうしたの?顔色悪いよ」
弟は、怪訝そうに訊いてくる。
「いや、べつに……」
「何かあったんなら俺に――」
「大輔〜!」
崇彦の言葉は、愛の歓声でかき消された。
彼女の乗ったコースターが、てっぺんへあがっていく。大輔は彼女に手を振った。乗客は、彼女を含めて数人。ゴトゴトと音を立ててのぼるコースターは、不健康な空の青へ、どんどん近づいていく。やがて最も高いところへたどり着くと、数秒間、停止する。乗客の、わずかな油断を誘発したら、あとは一気に裏切りへ。
落下するコースターの轟音と、観客の悲鳴が空をつんざいた。
「おいっ・・・なんか、変だぞ?」
地上の誰かが叫んだ。コースターの速度が、すこしずつ速度を落としていく。
やがて、がたん、と大きな音を立てて停止した。
巨大な円形を描く線路の真上で突然、逆さづりになる乗客。
「愛……」
大輔は彼女を凝視した。瞬きさえ忘れていた。愛の身体を支えていた安全ベルトが、外れたのが見えたのだ。
きゃしゃな身体が空を舞い、真下を走る線路の上に叩きつけられた。干された布団のように、肢体が垂れ下がる。
「愛!」
恐ろしいことがおきた。愛を吐き出したコースターが、ゆっくり、動きはじめたのだ。
重力で地上にひっぱられたコースターは、確実に加速度を増して滑ってくる。その軌道上には、愛が横たわっている。のがれようともがいている。
「いや……」
絶望の悲鳴を飲み込んで、そのまま勢いよく下ってきたコースターが、愛の腹を轢いた。
誰もが、息を呑んで、その光景を見つめていた。
誰もが、予測していた結末だったのかもしれない。
彼女の上半身が、地面へ落ちてきた。
ひゅるひゅると新体操のリボンのように、尾を引いて、腸が落ちてくる。アスファルトにたたきつけられる。鮮やかなピンクが散る。
その光景に釘付けにされた視界に、胴体と切り離された、細い二本の脚が映る。
ざっくりと切り落とされたそれらは、いまだ、小刻みに痙攣している。
大輔は、何かを思い出した。
小さな頃に、似たようなものを見た。
ああ、そうそう。
切られたばかりのトカゲのしっぽだ。
匂ってくる強烈な血と消化液のにおいにやられ、大輔は吐き戻しそうになった。
かわいらしかった愛が、いまや、おぞましい爬虫類と同列だとは。
彼女の死体を取り囲んで、メリーゴーランドが回っている。青が回る、緑が回る、黄色が回る、ピンクが、白が……。
どこからか、メルヘンチックな音楽が流れてくる。
豪奢な観覧車がそびえている。鮮やかなコーヒーカップがくるくる回る。
ここは、何処だ?
大輔を追い越して、救護係の男たちが愛に駆け寄っていく。担架を担いでいくものもいる。
本当に衝撃を受けたとき、人は身体を動かすことなんか、できない。
「ああ」
ふいに、後ろから、間延びした声がきこえた。
「死んじゃった」
大輔は、反射的に崇彦につかみかかっていた。
「たか」
身体の奥底で、血液が沸騰している。
「ふざけるな」
自分の声帯から出た、声の低さに驚いた。でも、脳みそはショートして頭蓋骨に焦げ付きそうだ。
自分がどんな顔をしていたかは知らないが、崇彦の目が震え始めた。
「よく考えて、ものを言え」
大輔の目に、涙があふれてくる。言葉にすると、やはり、こたえる。
「彼女は、もういない」
言葉にすると、それが幻なんかではないと思い知らされる。
「いないんだ」
俺に、逃げ場はない。
これが現実だ。
取り乱したのは、崇彦だった。崇彦は、大輔の腕にしがみついた。
「ごめんっ・・・兄貴、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!」
信じられない力の強さだった。壊れた人形のように大輔を揺さぶりながら繰り返される、
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんな…」
大輔は、恐ろしくなって振り払った。
そのときの悲しげな表情を、大輔は忘れることができない。
* * *
2008年3月22日
大学、合格した。
先輩と同じ大学に行くよ。私は絶対忘れないよ。
先輩、私を覚えててくれてるかな?実家から通っているよね。電車とかで、会えるかな?
大学は広いよね。いっぱい先輩のこと、みていたいな。
沙耶子は、日記を書くペンを置いた。静かな夜だ。沙耶子は、カーテンを開け、外を眺めた。星がきれいな夜だ。ひとつひとつが、沙耶子にとって、自分の人生を彩る希望に見えた。
「先輩」
沙耶子は、自分を助け起こしてくれた大きな手を思い出した。
「生まれてはじめて、やさしくしてくれた男の人」
沙耶子は、これから自分を待っているであろう幸せな日々を胸に描き、目を閉じた。
* * *
事故だったんだと、崇彦は言う。しかし大輔は、どうしてもそうは思えなかった。
崇彦の言うことに同意はできなかった。まるで、愛の死は避けられなかったとでもいいたげな、口調ではないか。
大輔は言った。
「あんな事故はないぞ。あんな、誰かが計画したみたいな」
「じゃあ何で愛ちゃんは死んだんだ?何が殺したってんだ?ジェットコースターの上で殺人事件なんかあるか?ないだろ。普通」
崇彦は、早口でまくし立てた。
事故……?
やっぱり、どこか引っかかる。
「兄貴さぁ、こんなことばっかじゃん。愛ちゃんのコト好きじゃないとか言いながら、結局そうやっていつまでも引きずりやがって。ひねくれてんのは兄貴のほうだよ」
理路整然の弟。不可解な「事故」。
何もかもが不気味で、受け入れがたい。
崇彦は肩をすくめて言った。
「事故だよ事故。それ以外のなんでもなく」
「崇彦、ひとつ訊いていいか?」
大輔は弟を見た。
「お前、誰かかばってないか?」
崇彦の顔から、笑みが消えた。
「なぁ、崇」
「……女の子」
「え?」
「女の子が、愛ちゃんの首を引っ張って、レールの上にたたきつけてた」
話す弟の顔には、なんの表情がうかがえない。大輔は絶句した。
「安全ベルトがはずれたのだって、あの子の仕業」
「それじゃあ……誰かが、愛に恨みか何か、持ってたって言いたいのか」
「さぁ」
それが、会話の最後だった。
* * *
夢を見た。
崇彦が、暗闇に立っている。うつむいている。表情は読めない。
おびただしい量の血が流れ出した。どろりと粘った血が、頭の上から、額、鼻梁、頬、顎、のどから鎖骨へ。全身を、赤い血が滴り落ちていく。
大輔が振り返ると、長い髪の女が立っている。
* * *
「……うう」
せりあがる吐き気とともに、夢から覚めた。
くしゃりと、前髪をつかむ。ここのところ、気持ち悪い夢ばかり見ている。
下の階へ降りると、制服姿の弟が、朝ごはんを食べていた。
「兄貴、おはよ」
「おは……」
弟の口元を見て、思わず顔が引きつった。
食べている。赤いものを口に運んでいる。真っ赤で、グロテスクで、膜に包まれていて。
かつて、崇彦がキライだといって憚らなかったもの。
「なんだ、それ」大輔の声が震えた。
「これ?明太子」
「お前、好きだったっけか……そんなもん」
弟は、何も答えなかった。
いつもの大輔なら、それで流してしまうのだが、今回はいやにそれが引っ掛かった。愛の事故があってから、どうも何かが、おかしいのだ。身の回りの、何かが。
大輔は、遊園地で感じたおかしな気配のことを思い出した。
「行ってきます」
弟が学校へ出かけるようだ。
崇彦をおくりだすと、大輔は無言で時計をみやった。7時45分。しばらく時計と、大学の時間割とを見比べていたが、やがて意を決したように、ジャケットをつかんだ。
空は重たい雲に覆われ、そのまま落ちてきそうなくらい、どんよりと濁っている。その並木道は、やはり、今日も静かだった。
崇彦が事故にあった場所には、菊の花が手向けられていた。ワーゲンの運転手へのものだ。
事実、その人は亡くなった。そして、愛も……。
生ぬるい風が、ほおをなでていく。大輔は下を向いた。油断すると、悲しみに心を支配されそうになる。だめだ。気をしっかり持て。ここへ来たのは、弟の変化の手掛かりをさがすためだろうが。
大輔は、前を向いた。
すると、少し離れたところに、白い服の人を見た。
黒い髪が、腰のあたりまで長い。顔は見えないが、きゃしゃな感じが、女のように見える。じっと、こっちを向いていた。
(霊のように)
大輔は、背筋がぞっとするのを感じた。見覚えのある、女だった。確かにどこかで会っている。
どこで出会ったのか、大輔にはしかしどうしても思い出せなかった。
* * *
2008年4月25日
信じられない。信じられない。
どうして?あの女は誰?先輩になれなれしくして。
私の先輩と、一緒にご飯食べたり、歩いたりしてた・・・。
信じない。絶対信じない。死ねばいい。あんな女。あんな女、死ねばいい。
気持ち悪い。気持ち悪い。死ねばいい。
献血に行かなきゃ。
そうすれば、この嫌な気持ちが、血と一緒に抜けるもの。
* * *
梅雨に入りはじめたのか、5月28日は、雨だった。異常なくらい、蒸し暑い。何もしていなくても、汗が滴り落ちてきそうだ。ぼんやり、窓から外を見ていた。
「大ちゃん、雨?」
「…ああ」
「大変、洗濯もの入れなくちゃ」母が階段を上がっていく音がした。
「あ、大ちゃん」
大輔は無言で振り返った。
「あんまり、落ち込むんじゃないわよ」
「……」
母はゆるく笑い、
「愛ちゃんは、大ちゃんのお嫁さんにほしかったのよ、私も」
「……そうだったんだ」大輔は、窓の外に目を向けたまま、答えた。
母は、「愛ちゃんはお母さんも大好きだったのよ。あの子以外に、大ちゃんを渡してもいい女の子なんて、お母さん思い当たらないわ」
と言い置いて、階段の上へ消えていった。
そう、愛のいない世界は、彼にとってモノクロだった。何もかもが色を失って、このままフェードアウトしてしまいそうだ。彼女の声、笑顔、偶然に触れ合った指先の感触を思い出す。崇彦の軽口の意味も、今ならわかるような気がした。いったい自分は、何を支えに、この世界を泳いでいけばいいんだろう。外はこんなに、暗い雨が降っているのに。
感傷にひたりながら、大輔は愛との写真を取り出した。
やれやれ、と半ばあきれた気持ちで撮った写真たち。それらが、彼女を失った今は、こんなにもいとしいなんて。
大輔は、愛との思い出をなぞるように、写真を指でなでた。
「・・・?!」
大輔は、声を上げそうになった。
気づいてしまったのだ。
白い、長い髪の女に。
大輔は、狂ったようにアルバムのページを繰った。女、女、女・・・。
大輔と愛の、すべての写真に、写りこんでいる。
そして、すべての写真の女の眼は、まっすぐ、大輔に、向けられていた。
ぴたりと、大輔は息をとめた。
何かが、いる。俺の後ろに。緊張で心臓が圧迫されている。血が逆流しそうだ。大輔は耳を澄ました。
大輔は、息を殺した。
血のにおいが、雨のにおいにまざり、温められて、立ち込める。大輔は、目を伏せた。首筋の感覚が鋭敏になる。生ぬるい息が吹きかかりそうな、気配がする。大輔は、ちりりと、焼けるような感じを覚えた。毛穴が引き締まる。後ろにいるものが、執拗に、こっちを見ている。粘っこい視線は、ナメクジに這われるようだ。
ふいに、遊園地で感じたあの視線が、大輔にフラッシュバックした。
「あいつ」だ。そう思った。
大輔は目を閉じて、それを見ないように、振り返って、玄関へ走った。靴をつかむ。指が、思うように動かない。靴を履く。その間にも、それは自分に近づいている気がする。
大輔は玄関の外に、飛び出した。
「うわぁ!」
どさっという音とともに、突然、何かがふってきた。大輔は目を疑った。
母だ。
ベランダで、洗濯物を取り込んでいたはずの母が、目の前にいる。いや、倒れている。落ちたのだ。二階から。どういうわけか。首が、ありえない方向に曲がっている。パーマのかかった髪の間からは、ピンク色の肉の塊が覗いていた。割れたのだ。頭が。
濁った母の目が、空ろな気配を湛えている。大輔はそれを凝視した。目をそらせない。涙があふれるのもかまわなかった。
母の口元は半開きで、その口内は暗い。両手が小刻みに震えている。その口元から、ごぼっ、と血があふれた。血は唇の間から滴り落ち、雨と混ざって、襟元に染みをつくった。
大輔は後ずさり、しりもちをついた。
背後で、ぎし、と、階段がきしむ音がした。反射的に振り返る。何かが降りてくると直感的に思った。フローリングの床を、ひた、ひた、濡れたタオルをひきずるような、音がする。何かがいる。近づいている。濡れた足で、俺のほうへ。
くる。
大輔は息をのんだ。心臓が早鐘を打っている。恐ろしいもの。何かがくる。本能は、ここにいてはだめだと言っている。なのに、体は、動かない。金縛りにあったように。目は瞬きを忘れている。涙で瞳をなだめながら、ただ階段を凝視している。
あらわれたのは崇彦だった。彼は、にこりと笑った。
「崇」
大輔は、ほっと胸をなでおろした。安心すると同時に、現実感も戻ってきた。救急車を呼ばなくては、それから、父さんにも電話を入れなくちゃ。
大輔は玄関にあがり、崇彦の横を通り過ぎて、電話機を探してリビングへ足を向けた。
「崇、大変なんだ。母さんが……」
大輔の言葉が、首を絞められたように詰まった。身体が、言い知れない絶望で凍りついている。
ゆっくりと、弟を振り返る。崇彦は、濡れたまつげと唇で、にこりと笑った。
雨の音が、いやに大きく聞こえている。
「崇彦……」
脚を前後に動かしながら、崇彦は、大輔のほうへ歩いてきた。
「お前、まさか……」
崇彦は、大輔の身体を抱きしめた。頬に手のひらを這わせ、いとおしそうに撫でる。
「た……崇彦ッ」
「だって、嫌だったんだ。俺以外の女と、兄貴が一緒にいることを、あの女はだめだと言わなかった」
「はぁ……?!」
「だから、そこから突き落としたんだ」
大輔は必死に身体をひねった。崇彦の身体との間に、隙間ができた一瞬を突いて、大輔はその身横へ押しやる。大輔はどっとしりもちをついた。崇彦も、突き放されて反対側へ倒れた。
「崇、お前いったい何を……」
大輔は立ち上がって崇彦を見やった。
崇彦は、右腕の中心部から血を流しながら、床に倒れていた。そんなところに傷はなかったはずだ。けれど大輔の目には、そこから流れ出す鮮血が見えている。血は少しずつ、部屋の中に広がっていく。
崇彦は微動だにしない。大輔も動かない。
血の赤が、その空間で生きている唯一のもののようであった。
やがて、崇彦の身体の脇に、真っ赤な血の池ができた。
大輔は逃げなかった。逃げられなかったのだ。
血の池に釘付けにされた目を、動かせなかったためだ。
真っ黒い球が、池の底からゆっくりと現れ始めた。
歯が震えて、がちがちと嫌な音を立てている。
逃げるんだ。逃げなきゃ。今すぐに。
黒い球は、黒い髪をした、人間の頭のようだ。脂っこい髪は血で濡れているが、ところどころから白い肌が覗いている。
額が現れ、眉が現れ、ふたつの目が現れた。大きく見開かれた眼球は、まっすぐに射抜いていた。大輔を。誰でもない、大輔を。
大輔の背筋がぞっと凍りついた。逃げなくては。大輔は手足をばたつかせた。
無駄だった。
大輔はその場に倒れこんだ。起き上がろうとして、足元を見た。
血だらけの手が、大輔のズボンの裾を掴んでいた。
大輔は、狂ったようにもがき、叫び声を上げた。
大輔を捕らえたまま、それは血の池から全身を現した。血に染まった白い服を着て、黒く長い髪を振り乱している。
床にへたり込んだ大輔の身体を這い上がり、低い声でうめきながら、血に塗れた顔で、じっと大輔を見つめていた。
大輔は、震えて噛み合わない口を精一杯動かして叫んだ。
「……何だ、お前は」
それは、動きを止めたようだった。
「俺の大事な人は、みんな……死んだ。何が望みなんだ。これ以上俺を追い詰めて、あんたはどうしようって言うんだ……?」
言いながら、大輔は頬を涙が伝うのを感じた。
今までの悲劇が、脳裏によみがえる。そのどれもが幻ではない。まぎれもない事実にして、乗り越えなければならない現実なのだ。
俺は孤独だ。何に呪われたにしろ。好きだと気づいたときには、もう愛は居ない。母さんも死んだ。崇も遅かれ早かれ、死ぬんだろう。そして……俺も?
彼女は、見開いた目で大輔を見下ろした。そして突然、大輔の首に手をかけた。
大輔は振り払おうとした。けれど、憔悴しきった彼には、腕の筋肉を動かすことさえできなかった。
視界に、靄がかかる。
雨の音が、遠くなってゆく。
最後の瞬間、幽霊が流した透明な涙が見えた。
こんなつもりじゃなかった。
本当に、こんなつもりじゃなかった。
惨めだったから。誰も彼もみんな、私の邪魔だったの。
分からなかったの。どうやって、あなたのところへいったらいいか……――
終