架空のイサナ
夏季休暇の後半には、武藤のアメリカンフットボール部の合宿があった。
夏合宿。全力をぶつけ合う。汗を流しきって、その先に生まれてくる全身の躍動。我を忘れていることの心地よさ。
しかし、それは下級生のときまでのことだった。上下関係の大学運動部、三年の自由は、むしろ物足りないようなものでしかなかった。
一、二年のときは練習が終われば、ほぼ歩行困難。さらに笑うだけでも痛いような筋肉痛だ。もっとも夜になれば仲間の腹筋を叩いて、さらに笑い苦しむようなじゃれ合いをしていたが。
三年は準幹部と呼ばれる。そうなると指導かたがた足を止めることも多い。
それでも彼は下級生と同じだけのランに徹した。
イサナの出現で微妙になった由美との関係を忘れたかったのもある。
なにより来季の主将を任されるという使命感があった。立場に相応しい練習を続けることを自分に課していた。
容赦のない真夏の日差し。乾きあがって真っ白いグラウンド。後輩のタックルを弾き飛ばして走る彼のラン。
二週間は瞬く間に過ぎた。
合宿が終われば開放感だった。
駅で解散になると、実家へと帰省する者もある。それ以外は、ビアガーデンが開くのを待つのが恒例。
彼は用具を部室へ運ぶ一年生に同行した。その後に、合宿の間は忘れたつもりの由美のアパートへと向かったのだった。
その通りに入ると、もう顔馴染みになってしまったような猫。今日は塀の上だ。
アパートの外階段を上がっていく。
由美に言わせると、彼の足音はすぐ分かるという。
「弾むように上がってくるから」
今の筋肉痛の足音は、どんなふうに聞こえているやら。合鍵をポケットから取り出す。
しかし到着して、彼は我が目を疑わざるを得なかったのである。
いつもの鍵、それとは別にもう一つの鍵が、まるで武藤を拒絶するかのように掛けられてあったのだ。
彼は合鍵を握り締めたまま、ただ立ち尽くすのみだった。
「イサナは、歩いたんだって」
車の中だった。結局、我が放浪以外の店にも入らなかった。
由美の視線は窓の外の闇にある。その横顔には、自分を嘲るかのよう表情が浮かんでいた。
「あの日に、行けなかった別の海までとか言っちゃって」
イサナのことが語られていく。
「あの子らしい屈折のしかたよ」
「屈折」
その言葉は、イサナには相応しくないように思えた。
「あの子の言うこと、みんな嘘。嘘ばっかり」
由美は喋り続ける。
イサナの言っていたことは、ほとんどが作り話だったというのだ。
にせ一年生というのも嘘だった。ちゃんと芸術学部に入学していた。
「なぜ、そんなことを」
「イサナっていう架空の名前があるだけ」
その家は代々の農家で、本名は勇。海の近くなどではない地方、もちろん銛打ちなどありはしない。
勇は、いじめられているような少年だった。
体が弱かった。しかし生まれたときは、実に健康優良児だった。赤ちゃんコンテストに出ることを役場から薦められたほどだった。
コンテスト出場のための子供服を作った。けれども直前になって、父親が忙しいからと言い出して取り止めになってしまったのだ。
父親は臆病な男だった。コンテストという人前に出ることに、日が迫るにつれて及び腰になったのだ。
外では臆病だが、家庭では全くの暴君であった。酒を飲むと深酔いをして、母親に手を上げるようなことも度々であった。
大人しい母親は怯え、ただ耐えるしかなかった。祖父や祖母も父親に意見するようなことは毛頭なかった。嫁は、そんな目に合うものだというような古い家だった。
恐ろしさから逃げるように、母親は息子を溺愛した。その家庭のゆがみが、勇に影響したのだ。
偏食からか勇は痩せて成長も遅かった。小学校に入学すると、いちばん小柄な少年であった。
成績は良かった。その家の血筋なのだと自慢の種になった。真面目さもあって初めは学級委員長に選ばれた。
それなのに、勇はいじめられ始めた。いじめるのは、学級の中でも余り目立たないような生徒たちだった。
いじめられる勇を周りは黙って見ていた。教師も、真面目な勇が友達とふざけあうことがあるんだなと勘違いして見ていた。
さすがに高学年になると、成績が良いだけでは学級委員長には選ばれなくなった。勇はむしろ安心した。だからといって、いじめが止んだわけではなかった。来る日も来る日も、いじめられた。
いじめられる姿は教室の中に溶け込んでしまい、誰もなんとも思わなくなった。むしろ、そうされていることが楽しいのだろうと感じる者が多かったのだ。
勇の家の近くには海などはなかった。
ただ農業用水に使われるのだという池はあったのだ。
日曜日になると鮒を釣りに人が集まった。小学生たちも多かった。その中には勇をいじめる者たちもいたのだ。
勇は急いで父親に報告する。
「もし来るようなことがあればな、俺んとこさ連れてこい。怒ってやっからよ」
と酒に酔って言ったからである。
しかし実際に怒るはずのときになって返ってきたのは、
「今は仕事で忙しいからな、次に来たときにしよう」
という言葉だった。
勇は、父親の言葉を信じていた。
何度か日曜が来て、同じやり取りが繰り返された。
父親はいつものように自信がなかったのだろう。子供相手なのに言うことを色々と考えたようだ。
その結果で、ようやく言った。
「ならば、連れてこい」
目の前で釣りをしているのだから、
「おまえらが、勇をいじめるのか」
と怒鳴りつければいい。
ところが勇に、わざわざ呼んでくるように言ったのである。
その結果はといえば、
「もしも勇のことをいじめないでくれればよお、鯉の大きいのをあげるんだけどなあ」
であったのだ。しかも外面で見せる表情であった。
勇の幻滅は大きかった。しかも父親は、いっこうに大きな鯉を捕まえようとはしてくれない。結局のところ、いじめても構わないと言ったようなものだ。
中学になって担任になったのは理科の教師だったが、どういうわけか運動部であれば誉める男であった。
体格のいい生徒を見ると、
「おまえは何部に入っている」
と質問する。
期待通りに、運動部に入っているという答えが返ってくると、
「よしっ」
と満足げである。
恐らく成績が重視される学校において、それだけではないのだとする熱血漢だったのだろう。
通知表などは、生徒全員の前で発表してしまった。
勇の通知表を取り上げて、
「体育以外は5と4ばっかり、それで体育はいつも2。これでは人間として駄目なんだぞ」
教室は、5と4ばっかりなのかとざわついたが、いや、人間としては駄目なんじゃないかと笑ったのだった。
勇は日記をつけていた。
書き始めて休んだことはなかった。しかし、この日は書けなかった。
数日が過ぎてから、ようやく書いた。
ただ書いた内容とは、5と4が多くて、先生に誉められた。そんな嘘の内容だった。
この日からというもの、嫌な出来事があると、勇は日記には嘘を書くようになってしまった。
高校に入学すると、いじめてくる人間はいなくなった。しかしそのぶん、話す相手もいなくなったということだった。
日記には、こんなことを書いた。
校舎の吹き抜けを歩いていると話しかけられた。話しかけてくれたのは合気道部の人だった。
「球技と違って合気道部は未経験から始める生徒が多いんだ。それに合気道という武道を考えたのは、わが県出身の人なんだよ。だから、君もためしに体験入部をしてみてはどうかな」
もちろん嘘である。
ところが、それから勇は嘘の日記を来る日も来る日も書き続けたのだ。
日記の中で、高校三年間を合気道部で過ごした。初めは全く弱かった。しかし、歯を食いしばって稽古を続けるうちに誰にも負けないようになっていた。
そして、三年になる頃には、体育の通知表もAになったと書いたのである。
「それはもう日記というより、小説ってことよね」
由美が言った。
「読んだのか」
「持ち歩いてたのよ。鞄を開けたら、分厚いノートが入ってたわ」