夏季休暇
もう夏季休暇に入っている。
本気の洗車をするからと頼み込んで、父親のスカイラインを借りた。
湘南方面は由美の気に入らないだろうから、関東と東北の境辺りまで走って、最後は気分次第とした。
国道六号線を北上した。
梅雨はまだ明けていないはずだった。しかし天気予報は外れて、完璧の天気になった。
「最高の夏ね」
助手席の由美が言った。
「うん。最高だな」
しかし、後ろの席にはイサナがいた。
車窓は街が過ぎれば藪や空き地や水田、その繰り返し。
「曲がった松の木が多くなると、海が近いよ」
黙っていたイサナが後ろから言った。
車を止めた。
由美が運転席の後ろに移った。
言葉の通りに、やがて海が見え始めた。
「うわ〜」
道は真っ直ぐに続いて、時折思い出したかのように青い海が視界に広がる。
いちばん機嫌のいいときの由美の声。
「ランボーの言う太陽とセックスした海って、きっとこんな感じよね」
ルームミラーで後ろの二人を見てしまう。
「スペインの闘牛場では、太陽の光と影が、ちょうど半分になったときに闘牛が始まるんだ」
由美は車窓の海の代わりにイサナを見つめる。
「しかも身に纏うのは光の衣裳だよ」
「あなた、ほんとうに光の衣裳を着なさいね」
道と海岸はさらに接近した。
波打ち際も砂浜もよく見渡せた。外海らしい波が打ち寄せている。
やがて道は下って折れ曲がった。
カーブを抜けると、別の風景が訪れた。
「うわ〜」
由美の声。
波打ち際に、二つ小島のように大きな岩が二つ並んでいた。
「止まる」
由美は考えている。
「どうする」
イサナに尋ねていた。いつもの由美なら、尋ねたりはしない。
「まだ先があると思うよ」
「一寸先は光ってことね」
「それは『ときめきに死す』の中に、あったね」
「あなたも、『ときめきに死す』読んだのね」
ひとしきりその小説を話題にする。
アクセルを踏み込むしかなかった。いつの間にか海は遠ざかる。当たり前の風景が戻っていた。
「やっぱり、あの海がよかったかな」
「戻る」
由美が、また答えを返さない。
道は二車線になっている。追い越し車線を走る軽トラックを、車線を変更して追い越した。
「うわ〜」
由美の声。
軽トラックの助手席には犬が乗って、開いた窓からこちらを見ていた。
由美が手を振る。イサナが笑っていた。
車を止めた。
その辺りは高台になっていて、海が見下ろせた。崖に囲まれるようになった海岸が、由美の気に入ったのだ。
傾斜を下りて行く。
イサナが走った。それを由美が追いかけて行く。
平日の梅雨明け宣言の前ということもあり、人影はほとんどない。白い砂浜に青い海が打ち寄せているばかりだ。
浜辺を歩くと、小さいながらも海の家がちゃんと開いていた。
「完璧ね」
快晴の空、太陽が君臨している。
海の家でビールと焼きソバを注文した。
「今年の初めてのお客さんだからね」
殻つきのままの海胆が、焼きソバと並んで調理場から差し出される。
「そこの海で獲ったばかりだからさ、もちろんサービス。特に、可愛いお嬢さんにサービスだかね」
それぞれに礼を言って受け取った。
「やっばり完璧ね」
由美がまた言う。
海胆と焼きソバ、ビールを飲んだ後に砂浜に出た。
イサナは海に入らなかった。
「なんか、波が違うんだよね」
そんなことを言った。
二人は誰もいない海に向かう。波に逆らって泳いで、それから漂った。イサナの姿は見えなくなる。
波の中で体は離れ、また寄り添う。由美に手を伸ばした。しかし波のうねりが、その体を攫っていく。追いつこうとすると彼が先へと流された。
向きを変えれば今度は浜辺へと押し戻される。いつの間にか浜辺に座ったままのイサナが見える。
由美の腕を捉まえた。しかし由美は、拒むように浜辺へと泳ぐ。残されて武藤は、その場に漂うしかなかった。
もう紛れもない夏の太陽。浜辺に戻って寝転ぶ。飲んでも汗にしかならないビール。
泳がないイサナ。一緒に歩く由美。
眠っていた。
目が覚めても、太陽は上にある。
「ここの海だけじゃ、もったいないわね」
彼は起き上がらなかった。
由美の隣には、イサナがいる。
「ここで、いいよ」
彼は目を瞑った。武藤が由美に対して、こんな口調になるのは今までならあり得ない。
「そうね」
由美が、またイサナと行ってしまうのが分かる。
そのまま寝転んでいるしかなかった。
いつの間にか、また眠っていた。
「帰りましょう」
由美はもう水着ではなかった。
「この車で一泊したら」
寝袋はいつものように用意してある。もっとも二人分だが。
「明日、別の海にも行こうよ」
「帰りましょう」
由美はきっぱりと言った。
普段なら、すぐに恭順のはずが、イサナがいるからそれが出来ない。
帰り道、三人はほとんど喋ることはなかった。