わが放浪
テールライトの光が連なっていた。
武藤は舌打ちしてシートに身を沈める。左折して抜けようとした。
しかし結果は同じだった。上り傾斜を車はのろのろと進む。
濁った緑の街路樹。その向こう側にくすんだ色の塀。
視線がぼんやりとそちらへと向かう。大学があるのだ。
いまだに造反有理なんていうわけか、塀の一角の立てかけられたベニヤの看板。今の時代にも、学生運動にしがみついてる奴がいる。
車は停止していた。その時である。
立て看の前を通り過ぎて門に入っていく後ろ姿に、視線が弾かれたようになった。
車列が動く。急き立てられるクラクションに武藤はようやく気がついた。
まさか、そんなはずはないと後ろ姿を打ち消した。
しかし、翌日も武藤は同じ道に左折した。パーキングのある裏通りに車を停めた。その大学の前を何度も歩いていた。
日暮れが目に見えて遅くなっていく頃だった。
夕日になろうとする日差し。
「由美」
呼びかけていた。振り返って眩しげに見つめてくる。
それから俯いた。
やがて顔を上げると、
「わたし、また学生になってるから」
きっぱりと言った。
彼は横を歩いた。
そのまま校舎へと入っていく。二部のある大学なのは彼も分かっている。由美は、この大学に入り直したのだ。
「変わらないわね」
「俺はもう、ネクタイ」
外してポケットに突っ込んだネクタイを取り出す。
教室の灯に、由美の横顔がくすんで見えていた。
「会社の車が自由に使える、それで選んだぐらいの仕事」
彼は会社の帰り道だったことを喋った。そうしていないといけない気がした。
やがて授業が始まった。
彼は苦もなく眠った。
目が覚めると授業は終わっていた。
「どっか、行こうか」
「変わらないわね」
由美がようやく笑った。
「わが放浪へ行こう」
彼は言った。
「声、大きい」
わが放浪は、あの頃に通った店だ。
芸術学部だった。大学は学部がそれぞれ独立したようで、学生は学部というより芸術大学のつもりでいる。映画、演劇、音楽、放送、文芸、美術の学科があった。
二人とも文芸学科だったが、彼は放送学科に落ちての第二志望だった。
「自分史の出版をやってるとこ」
車の中でも、会社の話をしている。
「あなたが出版社なんて、大丈夫なの」
「まあ、俺は、原稿の受け取りぐらいだからね」
紳士録という体裁にして、分厚い本を作る。もちろん顧客も、紳士録という言葉に憧れをもった世代の人たちだ。何故か、巻末には地域の名城の図録まで載っている。
彼は申し込んできた人たちの原稿を受け取って、思い出話を聞いて帰ってくる。その短い原稿をリライトで膨らませるのだが、それは彼の仕事ではない。
街が近づくと、うきうきした気分になってくる。
やがて車は懐かしい街にたどり着いた。
『わが放浪』は、アルチュール・ランボー
の詩の題名にほかならない。が、特別なところは何もない、平凡な店。
マスターの駄洒落も「アル中のランボーだからね」程度。
けれど、それはそれでよかったのだ。
「やっぱり、やめにしましょう」
「え…」
言葉を呑み込んだ。
あの頃の由美は、大学のヒロインと言ってよかった。
道の真ん中に猫。電柱の陰へと走って行く。車はもうセカンドギアで走っていた。
「イサナ、どうしてる」
とうとう口にした。
しばらく沈黙がある。
「死んじゃったみたいよ」
「そんな…」
あまりにも意外だった。
「なぜ」
「ほんとうは、ざまあみろって思ってるでしょ」
今度は彼が黙り込む番だった。