夕闇終末
頂いた3つのお題に挑戦しました。
・ハッカ飴
・灯台
・エンディングノート
荒れた吐息は白を残し宙に消え、ずっと走り続けた足は疲労で悲鳴を上げて、筋肉がこわばる。それでも水上 早苗は脚を止めることはない。着ていたセーラー服にはじっとりと汗が滲んでいるが、それはずっと走り続けたせいだけではなかった。
早苗が街中を全力で走りながら、辺りに神経を尖らせていた。
「ここも通れなさそうっ……」
早苗の前には道路を塞ぐように激しく燃えさかる車群。数台の車の中から、激しく助けを求める悲鳴が聞こえるが早苗は気にも止めずに踵を返す。
その燃えさかる車の近くで男に若い女性が襲われていたが、それを尻目に全速力で駆け抜ける。
「早くあそこに行かないと……」
早苗は息を整える暇もなく、目的地である”灯台”へ向けて走り出した。途中に何度も割れたガラスなどが降ってきたが、頭は手で守り、背は通学鞄で守りながら全速力で走り抜けた。
早苗の腕時計の針は、午後の3時17分を指そうとしていた。
*
早苗が居るのは海岸がすぐ近くに見える、日本の小さな街。普段なら、打ち付ける波音以外は静かなこの街であったが、この日、この時間だけは違っていた。
そこの人々は、ある人はシェルターに逃げようと人を押しのけ踏みつぶし、ある人は終末論を大声で叫び、ある人は犯罪に手を染める。
そして道路には至るところで車が事故を起こし、何人も血だらけで転がっているが救急車や警察が来る様子はない。
理由は簡単。あともう少しで、核攻撃によりこの街は滅びるのだ。
そんな時に働こうなどという奇特な人など居ないだろう。
ことの起こりは数日前にA国がB国に突然、宣戦布告をしたことに端を発する。
B国の同盟国である日本も参戦することになったのだが、戦地は外国である。そのことで人々の心の中ではどこかで、自分たちには無関係であると感じていたのかもしれない。
だが、12月14日、午後2時32分にその人々の認識は一瞬で変る。
テレビで、ラジオで、突然A国から核爆弾を積んだミサイルが何発も日本に向けて発射されたと放送されたのだ。その核ミサイルの着弾地点の予想地点の1つが、早苗が住んでいる街であったのだ。
その放送が人々の耳に入った瞬間、大混乱が発生し、街は無秩序となったのだ。
同時にそれまで普段通りに授業をしていた早苗たちのクラスも、大混乱が巻き起こる。ある者は泣き叫び、ある者はこれ幸いと今までの鬱憤を晴らすべく人を割れたガラスで突き刺す、そしてある者は最後の刻を家族の元で過ごそうと高校の校舎から抜け出したのであった。
その校舎から抜け出した1人である早苗だったが、彼女が行こうとする場所は家族が居る家では無く、海岸に立てられた灯台であった。
早苗は校門を抜け、混沌とした街を駆け抜け、海岸線にぽつんと立つ無人の灯台の元へと辿り着いたときには腕時計は午後4時17分を指していた。
辺りには人の気配などはなく、街からの喧騒以外には波音と潮風しか無かった。
一息ついた早苗は疲れから震える足を引きずって、灯台の展望台を目指して鉄製の階段を駆け上がる。
革製のローファーが鉄の階段を一段上る度に、カツンと音を立てる。鉄製の手すりも、潮風により刺すように冷たくなっていたが、早苗はそんなことを一切気にせずに、しっかりと手すりを握って階段を駆け上がる。
「なんとか……間に合った……」
額からは汗が滴り、心臓は早鐘のように打ち付ける。早苗は展望台の手すりに身を預けるようにして、うな垂れながら呼吸を整える。
「はぁっ……はぁっはぁっ……」
ようやく呼吸を整えた早苗は顔を上げて、眼前の光景に目を細める。
夕闇が迫る時分、太陽はその身を半分ほど水平線に隠し、空はオレンジと濃い蒼が入り交じる。
この昼とも夜とも言えない時間が、早苗はとても好きだったのだ。
早苗はその光景を見ながら、背負った鞄を床に置く。そして鞄からドロップ缶を取り出すと軽く数回振る。
中からはカラカラと軽い音が響き、缶の中身がまだあることを主張していた。
缶の蓋に爪を立てて開け、優しく中の飴を手の平に受ける。手の平に転がる飴は白色の半透明。舐めるまでも無く、それは”ハッカ飴”。
早苗はハッカ飴は好きでは無かったので、再度ドロップ缶を振り、別の味の飴を探す。だが次もハッカ味、その次も、そのまた次も。ドロップ缶から音がしなくなるまで振り続けるが、出てきたのはハッカ飴だけであった。
「ハァ……」
早苗は大きなため息をつくと、ハッカ飴の1つを口に含む。鼻を抜ける爽やかなミントの香りが、口いっぱいに広がった。
「ホント、私って運が無いなぁ」
早苗は沈みゆく太陽を見ながら、これまで生きてきたこと、家族のことをぼんやりと考えていた。
早苗の家族は、お世辞にも仲が良いとは言えなかった。外に女を作り、家庭を顧みない父。そのことを詰り、ヒステリーを起こす母。
母からヒステリーと暴力を受ける早苗。早苗にとっては、希望などが見いだせない家庭環境であったのだ。
『父はあの女と最後の刻を過ごすのであろうか? 母はそれでまたヒステリーを起こし、最後まで呪詛を吐き続けるのであろうか? あるいは家に帰ってこなかった自分を罵倒し続けているのであろうか?』
だからこそ早苗は、最後の刻を灯台の上で、1人で過ごすことに決めたのだ。1番己にとって大切な場所とは、何度も母からの暴力から逃れて訪れていたこの場所であったのだ。
少し前までは、ずっと家族のことで悩み続けていた。だが、あともう少しでそんなことを考える必要も無くなるのだ。
ふと思い立ち、鞄の中身から教科書を一冊取り出すと、手裏剣のように海へと投げ捨てる。教科書は風に乗り、ゆっくりと旋回しながら海へと落ち、波間に消える。
この行為に意味など無い。ただ、なんともなしに自由になったことに対する己への祝福だったかもしれない。
そうやって何冊も海へ教科書やノートを投げ捨てて、残る一冊も投げ捨てようとした時に早苗の手が止まる。
そのノートは可愛いらしいピンク色の表紙に雪の装丁がなされており、表紙の中央には大きく『エンディングノート』と印刷されていた。
このノートは数日前に友人と買い物をしたときに、たまたま立ち寄った本屋で買ったものであった。友人はエンディングノートを見つけると、早苗に一緒に買おうと提案したのだ。
『戦争が起きたら、好きなことも出来なくなるだろうし、もし自分に何かあったら”家族”にも私が何をしたかったのか残せるからね!』
そんな何気ない友人の言葉が、今更になって脳裏に思い浮かぶ。大切な『家族』、そんなものは早苗には無かった。
早苗はパラパラとページを捲る。そのノートには自分史や自己紹介、今の自分の思いなど書く欄があったのだが、ほとんど白紙であった。
「残す相手も居ないのに、書く必要なんてないよね」
そう独り言をつぶやくと早苗はエンディングノートが残った鞄ごと、海に向かって思いっきり海へと投げ捨てた。
鞄は少しだけ波間を漂っていたが、ゆっくりと海底へと沈んでいった。
『これで本当にお終い』
満足げな表情を見せる早苗。そして早苗は手すりに身を預けながら、沈みゆく太陽を見つめ続ける。太陽はその頂をほんの少し残すばかりで、空の大半は深い蒼に覆われていた。
早苗はその光景をまぶたに焼き付けようと、まばたきをしないように目を大きく開ける。
ちょうど、太陽が完全に水平線に隠れた瞬間、1発のミサイルが早苗の頭の上を飛び越した。
そしてミサイルは街の中心に落ちたかと思うと、辺りには再度太陽が昇ったかのように感じられる閃光と熱が、早苗の家を、学校を、街を、灯台を、早苗を飲み込んだ。
早苗は閃光に包まれる瞬間、ふと願う。
『神様、もし生まれ変わるなら、次は素敵な家族が欲しいです』
そうしてこの日、地図から街の名前が消えたのであった。