76、マイフェアレディ
「摩夜、出れるか?」
派玖斗は受付ブースで慌ただしく書類を片付けている摩夜に尋ねた。
金曜日の夕方四時。
退社時間には少し早いが、これから鷹城不動産の創立記念パーティーに向かう。
早めに出てパーティー用の衣装に着替えるのだ。
派玖斗と籐堂だけなら、礼服に着替えるだけなので十分もあれば事足りるのだが、女性の摩夜はそうもいかない。
すでに籐堂が予約を入れたスタイリストとヘアメイクが、高級ブティックで手ぐすねを引いて待っていた。
派玖斗と籐堂も、その摩夜に付き添うことになっている。
「は、はい。今、行きます」
摩夜は慌てて書類の束を受付ブースにしまって、ロッカーから取ってきた鞄を肩にかけた。
「えらく忙しそうだったが、今日はそんなに仕事が立て込んでたのか?」
「あ、いえ。少し資料を整理しようと思いまして……」
「そんなのは来週にすればいい。行くぞ」
「……はい」
三人でバタバタとエレベーターを降りる。
受付を通ると、真昼がいた。
「お出かけですか? 鷹柳本部長」
人懐っこい笑顔で派玖斗に声をかけた。
その以前と変わらない様子に、派玖斗が戸惑っている。
最後のディナーの後も、当然受付で顔を合わすことがあったが、真昼は何もなかったかのように話しかけてくるらしい。
「あ、ああ。鷹城不動産の創立記念パーティーに行く。今日はこのまま直帰だからよろしく」
「そうなんですか? 摩夜も一緒に? わあ、いいなあ、摩夜」
羨ましそうに小首を傾げる真昼は、いつも通り可愛い。
周りから見ると、派玖斗の愛らしい恋人にしか見えない。
真昼の隣の受付嬢も、羨ましそうに真昼と派玖斗の会話を聞いている。
「行ってらっしゃいませ、鷹柳本部長」
丁寧に頭を下げる真昼に会釈して通り過ぎる。
前に停めていた車に乗り込むと、籐堂が不審な表情で口を開いた。
「本当に真昼さんにもう会わないと言ったんですか、派玖斗さん?」
誰が見ても怪しむだろう。
「今さら善人ぶって、ぼやかした言い方になってるんじゃありませんか?」
「バカ言うな。俺はもう二人では会わないと言ったんだ」
「それにしては、どう見ても恋人気分で話しかけてますよね」
「俺も真昼に話しかけられるたびに戸惑うんだが……。本来なら、無視されても仕方ないと思ってたのに」
「もう一度きちんと話した方がいいんじゃありませんか?」
「必要ならそうするが……」
派玖斗は困ったように隣に座る摩夜を見た。
「いえ。きっと話した所で同じです。だからこれ以上は……」
真昼を傷つけることを言わせたくなかった。どちらのためにも。
「そうだな。時間が解決するのを待とう」
「時間が……」
解決するだろうかと、摩夜はぼんやりと考えていた。
真昼の闇は思った以上に深かった。
自分を否定する言葉は、何一つ受け止められないほどに。
「何か真昼と話したのか?」
「い、いえ……」
摩夜はゆうべの事は派玖斗には話してなかった。
話した先から泣き出してしまいそうで、話せなかった。
そして、もう……話す必要もないと思っていた。
「ここです。このブティックの二階にVIPルームがあるんです」
車で十分ほどで籐堂が案内したのは、摩夜が入ったこともないような高級ブランドの店で、店員もみんなモデルのような長身美女ばかりだった。
「お待ちしておりました、鷹柳様。どうぞこちらへ」
案内されるままに二階に上がると、お洒落なデザイン調のソファセットに全面鏡、フィッティングルームに、メイクルームも完備された上得意様専用の部屋があった。
そしてすでに何着かのドレスが用意されていて、スタイリストとヘアメイクの女性がスタンバイしていた。
「摩夜、どれでも好きな服を選べ。あとはみんなに任せておけばパーティー仕様に仕上げてくれる」
派玖斗はそう言うと、籐堂と一緒にソファに座った。
すぐに高そうなカップに入れられたコーヒーが出される。
ここは紳士服もあって、二人は慣れてるようだった。
だが摩夜は落ち着かない。
「お嬢様、こちらのブルーのドレスなどどうでしょうか?」
オーガンジーに包まれた鮮やかなドレスを目の前に掲げられた。
華やか過ぎて気後れする。
ドレスの類は着たことがなかった。
卒業式や何かの式典は、和装がほとんどだった。
真昼は洋装と両方着たりしていたが、摩夜はいつも言い出せなかった。
どうせ真昼ほどは似合わないし。
きっとみんなに笑われるだけだし。
そう自分に言い聞かせて、手に取ろうともしなかった。
でも……。
本当は着てみたかった。
いつもいつも憧れていた。
真昼みたいな可愛い服。
真昼のクローゼットから勝手に着てしまったあの日以来。
決して着ることの出来なかったピンクの可愛いワンピース。
「ピンク……」
あの日以来、持ち物さえ避けてきたピンク色。
でも本当は大好きな色だった。
真昼の色だと、手にすることも出来なかった憧れの色。
「なんだ。ピンクが好きなのか? ピンクの持ち物なんてなにもないから嫌いなのかと思ってた。すまないがピンクのドレスを幾つか持ってきてくれ」
派玖斗が注文すると「かしこまりました」と、ブティックの店員が慌てて階下に下りていって、ピンクのドレスを数着手に持って戻ってきた。
「全部、着てみられますか? どうぞこちらへ」
スタイリストが摩夜をフィッティングルームに連れていった。
「お羨ましいですね、お嬢様」
「え?」
スタイリストはフィッティングルームで二人になると、こっそり耳打ちした。
「お金のことは気にしなくていいから、二十代前半の女性が好みそうな物を揃えてくれって頼まれたんですよ。だから二十代の女性が最も憧れるこのブティックにしたんです」
「お金のことは気にしなくてって……」
摩夜はもちろん自分で払うつもりで、とりあえず銀行から十万おろしてきていた。
でも、到底十万で払えそうな店に思えなかった。
「鷹柳様がそんな事を言って連れて来た女性なんて初めてですよ。とても大事にしてらっしゃるのが見ていて分かりますわ。これから懇意にして下さいませね、お嬢様」
どうやらスタイリストは、今後、摩夜が派玖斗の恋人として、妻として、取引きを持つ相手だと目星をつけたらしい。
摩夜は困ったように苦笑した。
「これが……最初で最後だと思います……」
摩夜の呟きに、スタイリストは首を傾げた。
「いえ……、これを……着てもいいですか?」
摩夜はたくさんのピンクのドレスの中から、膝丈のシックな雰囲気のあるドレスというよりは、少し華やかなワンピースを選んだ。
「ああ、さすがお目が高いですわ。これは柔らかいフォルムのわりにウエストの切り替えが斬新で、可愛くなり過ぎず上品でございましょう? 会社のパーティーでしたら、華美になり過ぎない方がよろしいですものね」
「はい」
おとなしめのドレスらしいが、摩夜にとってはかなりの冒険だった。
恐る恐る袖に腕をとおしてみる。
一度でいいから着てみたいと思っていたピンクのワンピース。
(夢みたい……)
魔法をかけられたシンデレラのような気分だった。
鏡の前に立ってスカートをくるりと回してみる。
摩夜らしくないほど浮かれていた。
「ああ。よくお似合いですわ。これが気に入られましたか?」
「はい。これがいいです」
いろいろ着替えて派玖斗たちをあまり待たせるわけにもいかない。
それに、もう身に余るほど幸せだった。
「ではこれに合うバッグと靴と装飾品を探してまいりましょう。お嬢様は、こちらでヘアメイクをお願いします」
そのままメイクルームに連れていかれた。
「綺麗な黒髪ですね。いつも束ねてるんですか? もったいない」
今度はヘアメイクの女性が、壊れ物に触るように丁寧に髪を整えてくれる。
今さらながら、鷹城グループの御曹司の恋人というのがどういう立場なのか分かった。
みんな、摩夜を貴賓のように扱ってくれる。
派玖斗の恋人というだけで、誰もが特別扱いをしてくれる。
自分には相応しくないと感じたが、今日だけは甘んじて受け入れようと思った。
なぜなら……。
「ゆるく巻いて華やかな感じに致しますね」
「はい。お願いします」
いつもなら気後れして断るところだが、今日だけは全部受け入れる。
(とことん魔法をかけてもらおう)
そう決意していた。
「さあ、出来ましたよ。よくお似合いですわ、お嬢様」
「アクセサリーを。それから靴とバッグはこれを……」
メイクが出来たころには、小物もすっかり用意できていた。
そして……。
「出来たのか?」
ソファで籐堂と話し込んでいた派玖斗が立ち上がった。
そして摩夜を見て、そのまま五秒ほど固まっている。
先に感想を述べたのは、籐堂だった。
「へえ、いいじゃないですか。正直、ここまで変身するとは思いませんでしたよ」
そして派玖斗は……。
摩夜と目が合うと、ふいっと横を向いてしまった。
「あ、あの……派手過ぎましたか?」
「いや……そんなことはない……」
小さく否定する。
あまり気に入らなかったのかと、しょんぼりと俯く。
「もう、派玖斗さん! 男子校育ちのウブな中学生ですか! こういう時はきちんと女性を褒めて下さいよ。私でもそのぐらいの気遣いは出来ますよ!」
籐堂に説教されて、派玖斗はバツが悪そうにもう一度摩夜を見た。
「似合ってるよ。人生で一番トキめいた」
それだけ言うと少し顔を赤くして、また横を向いてしまった。
「それは言い過ぎじゃないですか?」
籐堂は笑いを噛み殺して、派玖斗をからかう。
「うるさい! 俺は本当のことしか言ってない!」
いつも通りの二人の言い合いを聞きながら、摩夜は泣きたいほどの幸せを感じていた。
次話タイトルは「創立記念パーティー①」です




