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60、神様の罠

 摩夜は大谷農園の裏山のてっぺんに立って空を眺めていた。

 

 てっぺんと言っても大した高さではない。

 私有地の小さな山だ。

 くだもの狩りの来客者用に、簡単な展望スペースを作ってあるが、二人掛けのベンチが一つあるだけの半径二メートルほどの場所だった。


 山の向こう側は斜面が急勾配になっているため、見晴らしが良かった。


 今まで何度か地元の学校のくだもの狩り遠足に混ぜてもらって来たことがあった。

 ここからハクを飛ばしたら、喜ぶだろうなと果樹園の広がる山並みを見ながら考えていた。


「ハク……」


 どうせなら連れてくれば良かったと後悔した。

 だが、さっきはそんな余裕なんてなかった。


 突然の派玖斗のキスに、頭の中が真っ白になって、とにかく一人になって落ち着いて考えなければと山道を歩いてきてしまった。


 山道を登るつもりなんかなかった摩夜の少しヒールの高い靴は、泥と傷ですっかりボロボロになってしまっていた。

 おまけに斜面を登る通常と違う動きに、靴擦れがあちこちに出来ていた。


 だがそんな痛みすら忘れるほどに、心の中が騒がしい。

 とても騒がしいのに、何に騒いでいるのか自分でも分からなかった。


 どうして派玖斗さんはキスなんて……。

 真昼が知ったらどれほどショックを受けるだろう。

 母が知ったら私がいよいよ真昼の幸せを奪おうとしているのだと恐怖に震えるだろう。

 きっと私の派玖斗さんへの気持ちが洩れてしまってたんだ。

 だから派玖斗さんはつい答えてしまったんだ。

 派玖斗さんも今頃、自分のしたことに後悔しているに違いない。


 でも……。


 真昼に申し訳ないと思うのに、トキめいてしまっている自分がいた。

 駄々っ子のように「昴には渡さない」と言った派玖斗が、ハクのように愛おしい。


 ――神様の罠に落ちている――


 そう実感しているのに、このまま罠に落ちていきたい気持ちが抑えられない。


 神様はいつまでも悪役を演じきろうとしない摩夜に、こんな最悪なシナリオを用意したのだ。

 いつものように回避して逃げなければならないのに、気持ちが勝手に派玖斗に向かっていってしまう。


「さっきのキスは気まぐれだ。ちょっとからかうだけのつもりだったのに、何を本気になってるんだ」

 そんな風に派玖斗が言ってくれれば……。


 摩夜は罠に落ちて、共に闇に引きずり込むことも出来たかもしれない。

 でも……。


 パキリと木の枝を踏む音がした先には……。

 傷ついたように落ち込む派玖斗の姿があった。


「摩夜……」


 山を登ってきた派玖斗は、いつもの俺様ではなく、イタズラをして怒られたハクのようにしょんぼりと近付いてきた。


「さ、さっきは出来心で……乱暴なことをして……悪かった」

 素直に謝る派玖斗が新鮮だった。


「その……あれだ。悪かったとは思ってるが、いいかげんな気持ちじゃないからな。俺は二年前の鷹匠を忘れられなかったし、真昼と入れ替わっていても、やっぱりお前の方に惹かれたんだ。お前がどんな風に姿を変えようが、やっぱりお前がいいんだ」


「派玖斗さん……」


 心が揺さぶられる。

 奇跡のような言葉。

 想像することすらおこがましいと思っていた言葉。


 でも……。


 そんなあなただから……。

 誰よりも愛おしいあなただから……。


 神様の罠に落ちて、これから大きなしっぺ返しが待ち受けている自分に巻き込んではいけない。


 摩夜が派玖斗の想いに答えたなら……。


 真昼はショックで立ち直れないかもしれない。

 母はいよいよ私が真昼を食べたのだと大騒ぎをするだろう。

 会社のみんなは御曹司が血迷って双子の残念な方を選んだと、騒ぎ立てるだろう。


 きっと多くの人が言葉のナイフで私と派玖斗さんを切り刻む。


 神様、分かってるんです。

 自分の欲望に負けて選んだ方には、必ず手痛い落とし穴が用意されてるんです。

 私一人が落ちるならいいけれど、派玖斗さんを落とすわけにはいかない。


 諦めることには慣れてるんです。

 私が間違えなければ、派玖斗さんは元の安定した世界に帰っていける。


「私は昴と結婚して、この村で暮らします。そう……言いましたよね」


「……」


 目をそらして山の頂上から景色を見下ろしながら告げる摩夜に、派玖斗は一歩近付いてきた。


「俺は……ずいぶん自惚れた男らしい。お前のその言葉がどうしても信じられない。もう一度、俺の目を見て答えてくれ。お前は俺よりも昴が好きなのか?」


「……」


 振り返ると、すぐ目の前に派玖斗の真っ直ぐな黒い瞳があった。

 決して嘘を許さない、絶対者の目。

 出会った最初から憧れ続けた、自分を諦めない輝き。


「わたしは……昴のことが……派玖斗さんよりも……」


 言えない。

 こんなに愛しているのに。

 この人にだけは嘘をつきたくないと思っているのに。


「聞こえない。もっと大きな声ではっきり言え! そうじゃないと俺の諦めがつかない」

 派玖斗はずいっと一歩詰め寄った。


 摩夜は思わず一歩ずり下がった。


「このストーカー男に付き纏われたくなければ、目を見てはっきり言え!

 俺のことなど全然好きじゃないと」

 さらに一歩詰め寄る派玖斗に、摩夜は縋りつきたくなった。


『あなたが好きです。ハクに似たあなたを好きにならないわけがないじゃない』

 細胞の一つ一つが叫んでいる言葉をぐっと飲み込み、摩夜はさらに下がった。


「私は派玖斗さんのことなど……」


 しかし最後まで言い切る前に、体がぐらりと傾いだ。


「え?」


 足元の地盤が弛んでいたのか、片足の地面が斜面に崩れる。

 あわてて足場を求めて踏み出そうとすると、ヒールがひっかかって思わぬ方向に体が反動を受けた。あっと思う間もなく、急勾配の斜面に向かって仰向けに落ちていく。


「摩夜っっ!!」

 派玖斗が右手を掴んだが、大きくかたむいた体を引き戻すことが出来なかった。


「くそっっ!!!」


 摩夜には焦る派玖斗がスローモーションのように映っていた。



 

 私のことなど放っておいて手を離してしまえばいいのに。

 あなたは鷹城グループを率いていく大事な人なのに。

 こんな誰からも必要とされなかった私と違って。

 悪役人生しか用意されていない私と違って。


 落ちることを止められないと気付いたあなたは、人生で一番バカな選択をしてしまった。

 私を両腕に抱え込み、自分の体を楯にするように抱き締めて……。


 ガッ ズザザザッ ズガッ ズズズ

 

 斜面を転がり落ちていく。

 短く生えた雑草をなぎ倒し、散らばった大きな岩にあちこち打ちつけながら。


「いつっ!! くそっ!! うっ!」


 きっととても痛みを感じているはずなのに、私を抱える腕を決して離さない。


 なんてバカなの?

 もっと賢い人だと思ってた。

 私なんかのためになんて愚かなことを。


 両手で私の頭を胸に抱え込んで、自分の体を守ることを忘れている。

 私なんかより自分の体を守るべきなのに。

 ううん、そもそも一緒に落ちる必要なんてなかったのに。


 なんてバカなことを……。




「派玖斗さんっっ!!」


 ようやく転がり落ちて止まった斜面で、摩夜は叫んだ。


 まだ頭を包み込んだままの派玖斗の手を振りほどくように起き上がると、その手はだらりと地面に落ちた。


「派玖斗さんっっ?」


 返事のない派玖斗の顔は血の気を失ったように青白く無言だった。

 そして……。


 派玖斗の頭の下の地面がじわじわと赤く色付いていく。


「ま、まさか……」


 あわてて派玖斗の心臓に耳を当てる。


「いやだ……。まさか、そんな……」


 そして……。


「いやあああああっっっ!!!」




 神様は罠に落ちた摩夜を最悪のシナリオで断罪した。



次話タイトルは「愛の告白」です

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