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59、高校時代②


 あれは高校三年の時だっただろうか。

 祖母の葬儀も済んで、しばらく精神的に不安定になっていた母がようやく落ち着きかけていた頃だった。

 日曜日で、真昼はその頃付き合っていた彼氏とデートに出かけて留守だった。


 私は自分の部屋で本を読んで過ごしていた。


 母は前日の土曜日に真昼のショッピングに付き合って疲れたのか、昼からは部屋にこもって休んでいるようだった。 

 それでも食卓には、摩夜の昼食としてサンドイッチがラップをして置いてあった。


 いや……。


 もう一人分……。


 真昼は昼食はいらないと言って出かけたので、それは父の分だ。

 父は家にいてもいなくても食事の頭数あたまかずに入っていた。


 でも実際には、ほとんど食べられることなく廃棄されていた。


 父はこの頃には、滅多に家に帰らなくなっていた。


 それでもたまに思い出したように帰ってきて、母としばらく話し込んだあとまた出て行く。

 私と真昼には、気まずそうに「何か困ったことがあったら電話しなさい」と言うだけでそれ以上関わろうとはしなかった。


 そして本当に困ったことがあった時だけ現れた。

 困ったことというのは、たいがい母の調子が悪くなることだった。


 しかしその日は比較的安定していた。

 だから父が帰っていたとは知らなかった私は、階下から叫ぶような声が聞こえてハッと読んでいた本から顔を上げた。


 そのヒステリックな甲高い声は、母が調子をくずした時の声だった。


 慌てて部屋を出て階段を下りようとしたが、玄関先に父の姿を見て立ち止まった。


「私を捨てるつもりなのね! どうしてっ! 私の何が悪いって言うのっ!!」

 

 背を向けて靴を履く父に、母が叫んでいた。


「真理子は何も悪くない。悪いのは俺だ。すまない。許して欲しい」

「なぜ悪くないのに捨てようとするのっ! 悪いのはあの女の方じゃないのっっ!」


 私はあわててその場にしゃがみ込んで隠れた。

 父に愛人がいる事は薄々感じていた。

 もう両親が修復不可能な夫婦だということも気付いていた。


「彼女も悪くない。悪いのは俺なんだ」

「どうしてよっ! 知ってるのよ。既婚者のあなたに言い寄って子供まで作って! あの女がすべて仕組んだのよ。あなたは騙されてるのよっ!!」


「たとえ仕組んだことだとしても、騙されたんだとしても、彼女と暮らしたいんだ」

「!!」


 なんてことを言うのだろうかと私は父を呪いたかった。

 繊細な母には到底耐えられない言葉だ。

 母があとでどれほど心を乱すか、その母をなだめるために私と真昼がどれほど苦しい思いをするか、そんなことも思いやれないほど父は冷たい男なのだと思った。


「なぜ……。私は知ってるのよ。あの女が学歴もなくて、家柄もなにもなくて、家事だって全部いいかげんで、化粧もしないで公園で子供と一緒に滑り台をすべったりする人だって!

 行方ゆきがたの家柄に全然合わない人じゃないのっ! 私よりもそんな人がいいって言うの?」


「君が探偵を雇って調べていたのは知ってるよ。確かに彼女は家柄も学歴もないけれど、俺はそんなものよりも温かい家庭が欲しかったんだ。君は完璧で、完璧過ぎて、息がつまるんだ」


「どうしてっ!! 完璧でどうしていけないのっ? 私はあなたのためにこんなに一生懸命努力してるのに! 行方の家に恥じないよう、いつだって綺麗にしてるのにっ!!」


「だから君のせいじゃないと言ってるんだ。俺が君の完璧さについていけなかっただけなんだ。君は何も悪くない。この家も財産も全部君に渡すよ。養育費もちゃんと払う。だから離婚届にサインして欲しいんだ」


 私は心臓が締め付けられるような思いで、先日の祖母とおばさんとの会話を思い出していた。


『無念が人を狂わせる』


 完璧な結婚生活をしようと、行方の家に認められようと、父を満足させようと、母は一生懸命頑張ったんだ。

 誰よりも、誰よりも、完璧な主婦をしていたつもりなんだ。

 それなのに報われない無念。

 一見、少しも頑張ってないように見える人に負ける無念。

 不倫などという『正しくない』人達が自分より幸せになろうとする無念。


 母の心に無念が降り積もっている。


「知ってるんだよ、真理子。彼女の近所のポストに誹謗中傷を書いた手紙を入れたんだろう? 君しか知らない内容だった。筆跡鑑定すればすぐに分かるんだよ。頼むから彼女を傷つけるようなマネはやめてくれ。復讐するなら俺にすればいいだろう」


『無念が人を狂わせる』


「許さない。許さないわ! あなたたちだけ幸せになるなんて絶対許さない。私は離婚なんてしないから。私は何一つ悪くないんだもの。こんな勝手なことが許されていいはずがない」


「俺達が悪者でいいよ。その通りだよ。そんな男の籍に入ってても仕方がないだろう。君もこんな結婚はリセットして新たな道を探した方が幸せなはずだ。俺に出来ることなら精一杯に援助をさせてもらうから……」


「……」


 母は一瞬黙り込んだあと、思いつめたように口を開いた。


「やっぱり男の子が生まれなかったからなのね」

「え?」


「私が跡継ぎの男子を生めなかったから嫌になったのね。お義母さまも息子が出来なかったことだけが残念だっていつもおっしゃってたわ。あの女が男の子を生んだから選んだのね」


「違うよ。もちろん男の子が生まれたのは嬉しかったけれど、一番こだわってたおふくろももう死んだし、跡継ぎがどうこう言う時代でもないだろ?」


「いいえ。それ以外考えられない。私があの時男の子を流してしまったから……。ううん。摩夜があの子を食べたから……摩夜があの子を殺したから……」


 私は階段の影に隠れながら、突然自分の名前が出て来たことに驚いていた。



(え? わたし? 食べる? 私が殺したって?)



「何をバカなことを言ってるんだ。あの時も何度も言ったが、俺は男の子が流れたことを責める気持ちなんてなかったんだ。君が一人でどんどん自分を追い詰めて、俺が何を言っても聞いてくれなかったんじゃないか」


「嘘よ! 本当は心の中で男の子を流した私を憎んでいたんでしょう!」


 父はふうっと大きなため息を一つついた。


「君の思ってるような感情は俺にはなかったけれど、そうだな。確かにその頃から君と意志の疎通がまったく出来なくなったと感じていた。どんどん勝手に思い込んで、独りよがりな考えに傷ついて、どうすることも出来なくなった。確かにきっかけになったのは、そのことだったのかもしれない」


「やっぱり……」


 母はひどく納得したように呟いた。


「とにかく、もう俺達はどれほど話し合ったところで修復できないんだ。渡しておいた離婚届にサインしてくれたらこの家の権利書と慰謝料を渡す準備は出来てる。次に来るときまでにサインしておいてくれ」


「サインはしません」


「!!」


 きっぱり言い切る母に、父はちっと舌打ちをして出て行ってしまった。


 その後どんな話し合いがあったのかは知らないが、たぶんいまだに離婚届は出されてない。

 真昼の話では、私達の就職に響くから離婚を先延ばしにしていたらしい。

 そして今は二人の結婚に響くからと先延ばしになっているらしい。


 ただ、あの日、私はいくつかの辛い現実を知った。


 両親が思っていた通り、修復不可能な夫婦であること。

 そして、父は新しい家族のために私達と縁を切りたがっていること。

 たとえ母の精神が不安定になっても、残された私と真昼に対する気遣いもないということ。


 そして……。

 そうなった原因の一つに、どうやら私が絡んでいたらしいこと……。


 男の子を流産した原因を、母は私のせいだと思っているらしい。


 私は……。


 母にとって最後の希望であった男の子の命を奪ったらしい。


 生まれる前に、すでに私は『人殺し』という最悪の罪を背負っていたのだ。


 私が母にとって憎むべき諸悪の根源だと知ったのだった。


 その日を境に、母の私を見る目が今まで以上に冷ややかになったような気がした。



次話タイトルは「神様の罠」です

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