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58、高校時代①

 母は驚くほど心が繊細な人だった。

 あまりに正しく、完璧な人生を歩み過ぎたせいか『間違い』が許せない人だった。

 幼い頃から従順で、親や先生の言う通りに良い子と言われ続けていた人だ。

 女性に必要とされるすべてを身につけた人だ。


 料理をすれば料理本に載ってる通りのものが食卓に並ぶし、掃除をすれば家の中にほこりを見たことがないほどに完璧だし、洗濯は少しのシミも許さず、取れなければどんなブランド服でも躊躇なく捨ててしまう。


 家の中は一流ホテルの客室のように、常に整頓されていた。


 身だしなみに関しても、すっぴんの母を子供の摩夜でもほとんど見たことがない。

 朝は、一番に起きて自室で薄化粧をしてから出てくるし、風呂上りすらすぐに寝ない時は薄く下地をぬって色つきのリップをつけている。

 そして薄化粧で充分に美しい人だった。


 非がない人。

 完璧に正しく生きてきた人。


 羽奈子おばさんは、母のことをそんな風に言っていた。


 幼い頃から褒められ続け、非難されたことなど一度もなかったに違いない。

 母が育った女子校は、囲い込むようにその正しさを守り続けてくれた。


 そうして大人になった。


 しかし社会に出てみると、純粋培養されたような正しさが通用しなくなった。

 今まで正しいと信じていたことを、正しくないと声高に言う人たちが現れた。


 たとえば会社の総務で働いていた母は、備品の文房具を勝手に持ち出す人に注意した。

『すぐ返すんだから細かいこと言わないでよ、風見さん』

『いえ、規定では持ち出す場合はこのノートに記名することになってますから』

『ほんの十分ほど借りるだけじゃん。無くしたりしないからさ』

『いえ、規定ですから』

『ちぇっ。融通きかないなあ。いいよ、鈴木さんに頼むから』


 正しいのは確かに母の方だ。

 なあなあにしていたら、いつか無くす人が出てくる。

 女子校時代は、先生も生徒も全員母の味方で、ルールを守らない人が非難された。


 しかし外の世界は、ルールを守らない人で溢れていた。

 みんながルールを守る真面目なお嬢様ばかりではない。


 特に男性の中にはわざとルールを守らず、それをカッコいいと思っている人もいた。

 型にはまる事を嫌う破天荒を気取るタイプの人だ。

 そして、そういう人に限って仕事が出来て、社内の評価が高かった。

 そうなると、女性たちも『型にはまらない人の方が素敵よね』などと言い出して、モテるようになる。


 母が信じていたルールが通用しなくなった。

『風見さんって美人だけど、真面目過ぎて疲れるよな』

『自分は完璧ですって態度が鼻につくんだよ』


 完璧に正しいはずの母が評価されず『間違っている』人間が評価される。


 正しいことをすればするほどに煙たがられる。


 母はその現実に対応出来なかったのだと、羽奈子おばさんは教えてくれた。

 おばさんの家で暮らす事を断ったあと、祖父母の家で会った時だった。


 結局おばさんは別の国に転勤になったおじさんについて行くことになり、しばらく海外で暮らしていた。すでに月日は流れて私は高校二年生になっていた。

 祖母が病に臥せり、一時帰国して見舞いにきたおばさんと偶然会ったのだ。


「お姉ちゃんは小さい時から優等生で、私は姉だというのが自慢だったわ。下級生からも憧れの存在だった。とても努力家で真面目で、人から責められることなんて一つもない人だったのよ。今もそれは変わらないわ」


 羽奈子おばさんは、今でも母を大好きなようだった。

 私とおばさんの話を病床で聞いていた祖母も頷いた。


「真理子を許してあげてね、摩夜ちゃん。真理子があれほど繊細になってしまったのは、すべて私のせいなの。あまりに正しいものだけに囲まれて育て過ぎてしまった。大切に育てるあまりに、間違ったものを遠ざけ過ぎて、対応出来ない子にしてしまった」


 祖母と羽奈子おばさんには、母に殺されかけた事はさすがに言えなかった。

 母に必要だと言われたからおばさんの家に行くのを断ったのだとだけ伝えていた。


 祖母たちは、それでも私と母が何か危うい関係なのだと気付いているようだった。

 

「お姉ちゃんの心を壊してしまった一番の原因は私なのよ」

 羽奈子おばさんは祖母の言葉を否定するように言った。


「一番の原因?」


「うん。私はお姉ちゃんと違って子供の頃からやんちゃで問題児でね。いっつも姉はあんなに出来がいいのに妹はなんでこんなにダメなんだって言われ続けていたの」


 それはまるで今の私のことのようだった。


「でも何でか要領だけは良くてね、結局お姉ちゃんと同じ女子大を出て、同じ会社に父のコネで入社してしまった。そして人付き合いだけは得意だったから、すんなりみんなの中に溶け込んでいけたの」


「羽奈子は大学時代もいろんなバイトをして、外の世界を知ってたからね」

 祖母は悔やむように続けた。

「真理子には私も一人目の子で過保護にし過ぎてしまったのよ。バイトの職種すら口を出して、知り合いの娘さんの家庭教師ぐらいしかさせなかった。そして真面目な真理子は親に逆らったりする子ではなかったのよ」


「私はそもそも問題児だったから、高校の時から親の目を盗んでバイトしてたし、お母さんたちも言っても聞かないって諦めてたしね」


「その羽奈子の分の期待まで真理子に背負わせたのかもしれないわね」


 母の生真面目な性格を考えると容易に想像できる気がした。


「でもそれだけが原因で心が壊れたわけじゃなかったの」


「じゃあ何が……」


 羽奈子おばさんは、ためらいがちに祖母と目を合わせた。


「本当はこういう事を勝手に話すべきではないと思うのだけど、摩夜ちゃんには言っておいた方がいいような気がするの」

 おばさんはそう前置きをして再び話し始めた。


「お父さんが部下の男性を家に連れてきたことがあったの」


「部下の男性?」


「とても仕事が出来る上に謙虚で気さくな人でね、社内でも憧れの存在だったの。たまたま家にいた私は舞い上がって、普段はお茶一つ淹れないくせに、あれこれ世話を焼いて話しかけたわ。明日みんなに自慢しちゃおうって」


「真理子は花嫁修業としてお茶とお華を習いに行っていて留守だったの」


「私は最初からそんなもの習いたくないって言って拒否してたから、ブラブラと家にいたの。でもお蔭で仲良くなれて、気がつけば付き合うようになってた」


「じゃあ……その憧れの彼っていうのは……」

「うん。今の夫よ。半年後に海外赴任が決まって、プロポーズされたの」


 おじさんにはあまり会ったことはないけど、確かに穏やかな雰囲気のダンディな人だった。

 もっと細かな馴れ初めを聞きたいと思ったが、おばさんは一転暗い表情に変わった。


「お姉ちゃんの気持ちを知ったのは結婚してからだったの」


 私はハッと目を見開いた。


「お姉ちゃんは私が入社するよりも先に彼を知っていて、そしてずっと恋心を抱いていたみたいなの。だからもし、あの日、家にいたのがお姉ちゃんの方だったら……、ううん、二人とも家にいたとしたら、彼はお姉ちゃんを選んだんじゃないかって今でも思うわ」


「バカね。まだそんな事を思ってたの? 彼は二人並んでいたとしても羽奈子を選んだわよ。繋がる相手とは、どんなすれ違いがあっても繋がるようになってるのよ。自信を持ちなさい」

 祖母はなだめるように羽奈子おばさんに言ってから私を見た。


「真理子には真理子の繋がる相手がいて、幸せになれるはずだった。でも、真理子は正しく完璧に生きてきた自分が自由奔放に生きてきた羽奈子に負けたことが納得できなかった。一度も負けたことのない羽奈子に、こんな重大な局面で負けるなんて許せなかったの」


 羽奈子おばさんは頷いて、さらに続けた。


「それでもお見合いで彼に負けない条件をそろえた人と結婚したけれど、今度は子供が出来なかった。私と夫は二十代は海外赴任先で仕事に遊びに人生を謳歌して、三十を過ぎてからそろそろ子供を作ろうってなって、すぐに男の子が生まれたの」


「でも真理子は結婚当初から跡継ぎ息子を期待されながら全然出来なくて、長い長い不妊治療の末にやっと出来たと思ったら男の子だけ流れてしまって、ずいぶんショックを受けたみたいだったわ」


「その頃からマタニティーブルーになって、産後うつになって、心が保てなくなった」


 母の心の闇が初めて見えた気がした。

 私は小さい頃から嫌われ者で双子の残念な方で、どっちかと言うと羽奈子おばさんのタイプだけれど、母の気持ちは分かるような気がした。


 神様は時々、本当に意地悪だ。

 正しい方に、努力した方に、必ず成功を与えてくれればいいのに、時々気まぐれに落とし穴に落としたりする。正しい者にも罠をしかけ、むごい仕打ちをする。


無念むねんが人を狂わせるのよ」

 祖母は呟くように言った。


「無念……?」


「そう。頑張りもしないでいい加減に生きている人は狂わない。一生懸命努力して、誰よりも頑張ったからこそ、むくわれなかった時に狂うほどの無念にさいなまれるの」


「一生懸命頑張ったからこそ……」


「でも自己弁護させてもらうけれどね」

 羽奈子おばさんは苦笑しながら口をはさんだ。

「傍目には確かに要領よく生きてきたように見えるだろうけど、私だって挫折があったり無念だったことなんていくらでもあるのよ」


 幸せだけで作られているような、このおばさんにも無念な事なんてあるのだろうかと私は首を傾げた。


「小さい頃はいつだって出来のいい姉と比べられて惨めだったし、そのせいでちょっとばかりやんちゃというか、真面目な女子校では不良の扱いだったわ。夫に出会うまでは結構残念な恋愛ばっかりだったし、結婚してからだって、海外赴任先の夫に金髪美女の影が見えたことだってあったわ。すぐに男の子には恵まれたけれど、私は女の子が欲しかったのよ。その後二人目不妊になって、結局もう子供は出来なかった」


 祖母は困ったように頷いた。


「母親の私の目から見ると、どちらも同じぐらいの幸せと不幸を受けていると思うのだけどね。ただ、羽奈子の方がバランスよく与えられたのかもしれないわね」


 母は前半に多くの幸せを受け取り、後半に不幸が続き過ぎたのだ。


「いいえ、違うわね。私が真理子を大切に育てるあまり、前半に受け取るべき不幸を先回りして排除し過ぎたのだと思うわ。だからあの子は『理不尽な事』や『間違った人』に耐性がなかった。軽く受け流して、グレーな部分に寛容になることが出来なかった」

 祖母は悔やむようにやせ細った顔で、下唇を噛んだ。


 でも子を持つ親なら誰だって見えている不幸を排除したくなるだろうと思った。

 愛情を持って育てた祖母に非があるとも思えなかった。


「今さらこんな事を話すのはね、摩夜ちゃん」

 祖母は病床からやせて骨ばった腕を伸ばし、私の手をとった。

「あなたは何も悪くないと言いたかったのよ。真理子はきっと、双子の妹であるあなたに、羽奈子を重ねているのだと思うの」


「私に羽奈子おばさんを?」


 羽奈子おばさんも頷いた。


「お姉ちゃんはきっと私を憎んでるのだと思うわ」

「まさか……」

「きっとね、自分が受け取るべき幸せを全部横取りしたんだと思ってるのよ」


「横取り……」


「そう。そして真昼ちゃんに自分を重ねているの。だから、いつか摩夜ちゃんが真昼ちゃんの幸せを横取りするんじゃないかと怯えているの。自分のように……」


「私が真昼の幸せを? そんな、まさか」


 祖母は驚く私の手を、最後の力を振り絞るように握りしめた。


「摩夜ちゃん、これだけは覚えておいて。あなたが真理子の無念を背負うことなんてないのよ。辛くなったら逃げなさい。羽奈子がいつでも手を差し出しているから」


 私は隣で黙って頷くおばさんを見つめた。


「真理子の無念は、真理子自身が克復しなければならないの。誰かが肩代わりなんて出来ないのよ。それがたとえ親であっても、子供であっても」


 必死にそれだけを伝えると、祖母は疲れたように眠ってしまった。


 それが最後の遺言のように、それから一週間後に祖母は帰らぬ人となった。

 



次話タイトルは「高校時代②」です

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