56、キス
「は、離して下さい。嘘をついてすみませんでした」
摩夜は派玖斗に腕を掴まれ、出て行く体勢のまま答えた。
「嘘……? じゃあやっぱりお前は二年前に会った……」
摩夜はいよいよ観念して派玖斗に向き直った。
「嘘をついてくれと頼んだのは私なんです。真昼は正直に言った方がいいって。
真昼は何も悪くないんです。だから真昼のことは信じてあげて下さい」
「じゃあ全部お前が仕組んだ嘘なのか? なぜそんな事をしたんだ!」
「それは……」
なぜなのだろうか。
嫌われ者で嫌な人間だと知られたくなかった?
誰にも愛されない惨めな自分に失望されたくなかった?
派玖斗にだけは否定されたくなかった?
派玖斗にだけは……。
好きだから……。
「摩夜?」
呼びかけられてハッと顔を上げた。
派玖斗の翳りのない真っ直ぐな黒い瞳が目の前にあった。
何があっても自分を諦めない強い意志を持つ目。
自分を諦めきっていた摩夜には、最初からあまりに眩しくて憧れた。
ハクのようにブレない姿勢が、ただただ美しいと思った。
そばにいるだけで幸せだった。
毎日怒鳴られてばかりでも、共に過ごせる日々が宝物だった。
でも……。
自分はいつの間にか多くを望んでしまっていた。
望んではいけないものを望み、手に入れてはいけないものを欲しいと思ってしまった。
だから……。
罰を受ける前に立ち去らねばならない。
こんな所に神様は最悪の罠をしかけていた。
慎重に慎重に生きていても、からめとられるように罠に落ちる。
今度こそは間違ってはいけない。
これは今までで一番残酷な罠だから。
決してはまってはいけない。
罠にはまってしまう前に、派玖斗から離れなければならない。
そう気付いた。
皮肉なことに、たった今、迷いがなくなった。
自分の進むべき道がはっきり分かった。
「プロジェクトが落ち着いたら、会社をやめます」
「な!」
派玖斗の腕を掴む手が強くなった。
「昴と結婚して、ここでハクと暮らすことに決めました」
「!」
「だから……腕を離して下さい。もう本部長を嫌な気分にさせることもありません」
真昼のためにも、派玖斗のためにも、それがきっと最善だと思った。
だが……。
「なにを言っている……」
「え?」
「人生で今ほど嫌な気分になったことはない」
「!」
驚いて見上げた先には、今までになく怒りを込めた派玖斗の顔があった。
誤魔化すことを決して許さない、絶対者の目が摩夜を射抜く。
「まだ俺の質問に答えてないだろう。なぜ嘘をついたのかと聞いている」
「それは……」
「俺が嫌いだったからか? 俺に二度と会いたくなかったからか?」
「ち、違います!」
「ではなぜ俺から逃げる。いつもいつも俺から逃げるんだ!」
「それは……」
目の前の派玖斗には、もうすべて見抜かれているような気がする。
持ってはいけない恋心も。
見つめられて縋りつきたい弱さも。
自ら最悪の罠にはまってしまいたい欲望も。
「私が悪い人間だから……」
「は?」
搾り出すように呟いた摩夜の言葉に派玖斗が首を傾げる。
「本部長のそばにいたら……神様の罠に落ちてしまうんです。
きっと今度こそ……私はひどい悪人になってみんなを不幸にしてしまうから……」
「なにを訳の分からないことを言ってるんだ。お前が悪人だと?
お前に悪役など出来ると思ってるのか? 役不足もいいとこだ」
「で、でも私は生まれる前から嫌な人間で、生まれた後はもっと嫌な人間で……」
「は? 誰がそんなことを言うんだっ! 言ってみろ!」
なぜだろう。
大声で怒鳴られているというのに、派玖斗の言葉が温かい。
涙が溢れそうになる。
いつもいつも、この人の言葉だけが、摩夜の冷え切った心に光を差し込んでくれる。
「派玖斗さんは知らないんです。私は……生まれる前から悪人だと決まってるんです。私は……生まれる前から人殺しなんです」
ポロリと涙がこぼれた。
誰にも言えなかった言葉。
ずっとずっと心の奥底でくすぶり続けた呪いの言葉。
誰かに……否定して欲しくて……でも絶対言えなかった言葉。
なぜ言ってしまったんだろう。
その通りだと肯定されたら、きっともう立ち直れないのに。
「何を言ってるんだ、お前は」
派玖斗には摩夜の言葉の意味がさっぱり分からなかった。
誰に植え付けられた言葉なのか。
そんな言葉を信じ続けてるなんてバカげていると思うのに。
摩夜の頬をつたう涙があまりにいじらしく。
自分を悪だと信じてしまっている愚かさが、逆に呆れるほど無垢で。
なんとかしてやらなければと焦るほどに思う。
守ってやりたいと、焦がれるほどに強く強く感じる。
他の誰でもなくこの自分が……。
「お前が悪人だと言うなら、俺などはどうしようもない極悪人だ」
「そんなこと……」
「どうしても欲しいと思ったものは、どんな汚い手を使っても奪ってやる。たとえ誰かが不幸になったとしても、相手が嫌がってようが関係ない。俺が欲しいんだから譲らない」
「え?」
「お前を昴には渡さない」
宣言と同時に、掴んでいた腕を引き寄せ摩夜の後頭部を抱え込む。
そして……。
「!!」
あっと思うヒマもなく、乱暴に唇が重ねられていた。
次話タイトルは「消えた摩夜」です




