45、中学時代①
あれは中学の頃だっただろうか。
夜中に目が覚めたことがあった。
正月明けの冬休みだったと思う。
布団がずれていたせいか、背中がひどく肌寒くて寝返りを打った。
そして凍りついた。
部屋の隅に人影が見える。
ぼうっと立ちつくす黒い人影に、最初幽霊でも見たのかと思った。
しかし、それはもっと恐ろしいものだった。
「お母さん……」
暗い顔で立つ母の顔は、生気をなくし亡霊のようだった。
パジャマのまま、髪を振り乱し両手をだらりとおろしている。
そしてその手には、信じられないものが握りしめられていた。
正月に飾っていたしめ縄の縄の部分。
昨夜、玄関からはずしてぼんやり眺めていた姿を見ていた。
なんのためにそんなものを持っているのか。
私は瞬間的に分かった。
(私を殺しにきたの?)
その太い縄を首に巻きつけたなら、母の力でも私の息の根を止めるのは簡単だ。
ひどく混乱していた。
(どうしてお母さんが? 私を殺してどうするの?)
理由も目的も分からない。
でも自分を殺そうとしているのだけは間違いないと思った。
なぜなら……。
その年の正月から母の様子がおかしかった。
その年、久しぶりに疎遠になっていた叔母の羽奈子さんが年始の挨拶に来たからだ。
母の妹の国定羽奈子さんは、母より一つ年下で、鷹城不動産に勤める夫と一人息子の直樹さんがいた。
私と真昼より六才年上の直樹さんは、たしかその年成人式をするのだと言っていた。
二十歳の挨拶も兼ねて、母子でやってきた。
「すっかりご無沙汰になっちゃたわね、お姉ちゃん。近くに住んでるんだから、これからはもっと頻繁に会いましょうよ。直樹も成人することだし、私はいつでもOKよ」
羽奈子おばさんは、快活で元気がよくて刈り上げるほどのボブが似合う女性だった。
直樹さんはよくしゃべる人で、なんでもズケズケ言うことで爆笑をとることもあれば、ひんしゅくをかうこともある人だ。
「おお! 真昼ちゃんに、摩夜ちゃんじゃん。しばらく見ないうちに女らしくなったなあ」
しげしげと私と真昼を眺める直樹さんを、羽奈子さんが肘で突っついた。
「ちょっと、直樹。ここでは下ネタ禁止だからね」
「分かってるよ、母さん。こんな無垢な中学生に下ネタなんか言わないよ。
それで二人とも何カップ?」
「こらっ! 直樹!!」
私は、この二人と過ごす時間が好きだった。
母と真昼は久しぶりかもしれないが、私は祖父母の家でたまに会っていた。
冬休みや夏休みには、二人で祖父母の家に季節の挨拶にやってきた。
「摩夜坊、部屋見せてよ。女子中学生の部屋ってのを見てみたいんだ」
直樹さんは祖父母の家では私を摩夜坊と呼んでいた。
「ちょっと直樹、いやらしいおじさんみたいな言い方しないでよ」
「ははっ。真昼ちゃんも行こう」
真昼は戸惑ったような顔で仕方なくついてきた。
「はあ。相変わらず男みたいな部屋だな、摩夜坊は」
部屋に入るなり、本しかない部屋を見て直樹はため息をつく。
「それにその黒縁メガネは何? 目が悪くなった?」
祖父母の家では外しているのでメガネをかけているところを見られるのは初めてだった。
「う、ううん。これをかけてると落ち着くの」
小六のあの日の出来事は、直樹さんたちにも言ってなかった。
嫌われそうな気がして言えなかった。
「あの……私やっぱりお母さんたちのところに……」
真昼はなぜか直樹さんには懐かなかった。
誰にでも人当たりのいい真昼なのに、羽奈子さん親子にだけは打ち解けない。
それはたぶん、母が羽奈子おばさんを嫌っているからだろう。
ご無沙汰してたのは偶然じゃない。
母が意図して避けてきたからだ。
それでも両親が田舎に行くまでは、正月に集まったり、盆休みに食事会をしたりという交流はあったらしい。その頃は父もソツなく年中行事に参加していた。
でも祖父が退職して田舎住まいを始めてからは、たぶん一度も行ってない。
母は私を預けに行くときと迎えに行くときぐらいだ。
私が自分でバスを乗り継いで行けるようになってからは行ってない。
母は何があったのか知らないが、祖父母のことも羽奈子おばさんのことも嫌っていた。
会ったあとはいつもおばさんの悪口を言っていたような気がする。
「羽奈子って本当にデリカシーがないわ。あんな失礼なこと人前でズケズケ言う? 直樹くんも羽奈子にどんどん似てくるわね。言うこともやることも下品だわ」
直樹さんは、とても普通のやんちゃな男の子だった。
イタズラもすれば、一言多い冗談も言う。
確かに言い過ぎて失敗することも、余計なことを言ってしまうこともあったが、私から見れば、どれも悪気はなくて、いるだけで家の中が明るくなるような二人だった。
「今ね、うちのおふくろと真理子おばさんは大事な話をしてると思うから、できればここにいて欲しいかな」
直樹さんは珍しく少し真剣な顔で真昼に言った。
真昼は少し考えてから、こわばった表情で首を振った。
「じゃあ、自分の部屋に行ってます」
部屋から出て行く真昼を見送って、直樹さんは苦笑した。
「俺は嫌われてるみたいだな」
「たぶん……真昼はお母さんに気を遣ってるんだと思います」
私は直樹さんに答えた。
お母さんの嫌いな人と真昼が仲良くすると、決まってうつ気味になった。
それが心配だったのだ。
「真昼は優しいんです」
私はたとえ母の病気がひどくなっても、直樹さんと話していたかった。
真昼ほど強い意志で我慢することなんて出来ない。
(それに、私が直樹さんたちと仲良くしてもきっと何とも思わないだろうし)
真昼とちがって……。
私はそんな風に思っていた。
「なあ、摩夜坊。今日突然来たのはさ、大事な話があったからなんだ」
「なにかあるんですか?」
「うん。実はさ、俺、この春から二年間留学するんだ」
「留学……」
直樹さんにしばらく会えないのかと思うと淋しかった。
数少ない自分に優しい人だった。
「でさ、親父も今海外赴任してんだよな」
おじさんは、とても仕事の出来る人でほとんど日本にいないような人だった。
「しかも今の赴任先はちょっと危険な地域でさ、おふくろは来るなって言われてる。つまりは、一人暮らしになるんだよな。そうするとだな、あの気の強いおふくろが一人じゃ夜トイレにも行けないって泣きべそをかくわけだよ」
「まさか……」
「ホント、ホント。かと言って俺の留学先について来られたらたまったもんじゃないだろ? 俺だってほら、金髪美人とエンジョイライフを楽しみたいしさ」
「ふふ……」
深刻な話も、直樹さんが話すと笑い話になる。
「でさ、ここからが本題なんだけど、摩夜ちゃんが俺が帰るまでうちのおふくろと暮らさないかなって思ったんだけど……」
「おばさんと……」
そう言われた瞬間の気持ちを今でもよく覚えている。
ぱあっと目の前が光輝いて、希望の筋が見えたような気がした。
身に纏わりつく重い粘土のような澱が、魔法のように取り払われて生まれ変われるような、そんな希望。
「どうかな? 嫌かな?」
心配そうに問いかける直樹さんに、首を振る。
「嫌なんかじゃない。ただ……」
ただ、悪役として生きるはずの自分にそんな幸せが許されるのだろうかと思った。
しばらく迷っている私に、直樹さんは続けた。
「ばあちゃんから聞いたよ。二年前のこと」
私は、はっと直樹さんを見上げた。
「そのメガネをかけるようになったのも、それが原因なんだろ? ばあちゃんは摩夜坊のこと心配してた。真理子おばさんと一緒に暮らさない方がいいんじゃないかって言ってた。だからさ……摩夜坊……?」
直樹さんは、私を見て驚いたように言葉を切った。
いつの間にか、ポロポロと涙が落ちていた。
何を源泉とした涙なのか、悲しいのか嬉しいのか、それすらも分からない。
分かるのは……。
私を心配してくれている人達がいた。
いろんな理由をつけて救い出そうとしてくれる人がいた。
その温かさに、ただただ胸を打たれた。
直樹さんは宥めるように、ポンポンと私の頭に手を置いた。
「今、おふくろがおばさんに話つけてるからさ。摩夜坊は何も心配しなくていい」
「うん……」
私はようやく悪い夢から覚めたような安心で満たされていた。
次話タイトルは「中学時代②」です




