4、御曹司、帰国
「ねえ、聞いた?」
「うん、聞いた。聞いた。 本当なの?」
「本当らしいわよ。人事部の人が言ってたんだもの」
「じゃあ、今年の秘書室ドラフト会議に?」
「ええ。参加されるらしいわ」
「きゃあああ! なんてラッキーなの?」
朝から秘書室と言わず、会社全体が騒がしい。
特に女子社員の目の輝きが尋常ではない。
摩夜は自分のデスクで黒縁メガネをくいっと持ち上げ、首を傾げた。
「なんの騒ぎ? って顔だね」
一人蚊帳の外の摩夜に声をかける物好きは、似鳥しかいない。
「また来たんですか? 似鳥くん」
本当にこの人は働いてるんだろうかと怪しむ摩夜に、似鳥は告げた。
「御曹司だよ」
「御曹司?」
摩夜には唐突過ぎてピンと来ない。
「あー、もう。ここまで言って分からない女子なんて摩夜ちゃんぐらいだよ」
似鳥はゆるいパーマの髪を、イラついたようにくしゃりとつかんで続けた。
「だ、か、ら、この鷹城グループの御曹司!
鷹城グループ総裁の孫。副総裁の息子。
輝かしい未来を背負った長男様だよ」
「鷹城グループの長男? 生まれたんですか?」
「もう! 違うってば! 生まれたばっかの長男に、なんで女子社員が騒ぐんだよ!」
似鳥は呆れたように頭を振った。
「帰って来るんだよ。二年の海外出向を終えて、この本社に」
「へえ……。若いんですか?」
摩夜は騒ぎの割りに大して面白くもない話だったと、デスクワークに目を戻した。
「確か二十九才だよ。独身で、しかも仕事も出来るらしい」
「そうですか」
「……」
「? 話が終わったなら仕事の邪魔なので向こうに行ってもらえますか?」
迷惑そうにチラリと見る摩夜に、似鳥は信じられないという顔をした。
「いや、人の話聞いてた? 二十九才、独身、御曹司。しかも仕事も出来る」
「聞いてましたよ。何度も同じ事言わなくていいです」
「いや分かってないでしょ。女なら魔法の呪文のごとく、誰でも飛びつく話でしょ」
「誰に言ってるんですか? この私に、その出来すぎた御曹司となにか縁があるとでも?」
「……」
似鳥はしばし黙考した後、深く頷いた。
「そうだね。確かに。摩夜ちゃんには無縁の話だったかもしれない」
あっさり認められてしまうと、それはそれでむかつく。
少しむっとしてから、摩夜はハッと我に返った。
「も、もう、似鳥くん、早く仕事に戻って下さい。私は根が悪人なので、すぐに悪い心が出てきてしまうんです」
「え? 今のむっとした顔だったの? 一瞬への字の口になった気はしたけど……」
似鳥に指摘されて、摩夜はカッと真っ赤になった。
(しまった。顔に出てたんだ)
なるべく表情を顔に出さないようにしてたつもりなのに、似鳥にはいつも調子が狂う。
「え? 今ちょっと赤くなった?」
顔を覗きこまれて、あわてて目をそらす。
「うっそ。可愛いとこあるじゃん。ねえ、やっぱメガネ取りなよ。絶対可愛いって」
「か、からかわないで下さい。私は性格が悪いので、根に持って生霊になって似鳥くんに付き纏うかもしれませんよ」
「ははっ。生霊? 摩夜ちゃんってやっぱ面白いよね」
「ど、どこが……」
「それに性格悪くないと思うけどなあ。失礼な男にむっとするのなんて当たり前だろ? すごく自然な事だと思うけど?」
「自然な事?」
摩夜はハッと似鳥を見つめた。
似鳥はにこにことその視線を受け止めている。
(まさか似鳥くんは私の事を……)
……と淡い期待に胸を躍らせ
……などという事はない。
「もう無駄話はそれぐらいにして、仕事して下さい」
再び、いつもの無表情に戻って、メガネをくいっと持ち上げた。
この手の自分に親切な男が次に口にする言葉を知っている。
今までの人生で何度も経験してきた。
ちょっと恋なんてものに憧れた時期。
もしかして一人ぐらい自分を好きになってくれる物好きがいるかもしれない。
彼だけは他の人と違って本当の私を見てくれる。
闇に堕ちて行きそうな自分に救いの手を差し伸べてくれる王子様。
この人こそは……。
きっとこの人こそは……。
でもそんなささやかな期待を打ち砕くように、どの男も言うのだ。
「ところで真昼ちゃんって好きなヤツとかいるのかな? 摩夜ちゃん知ってる?」
ほらね。
うっかり期待なんかしなくて良かった。
勝手に胸躍らせて、勝手に撃沈するのだ。
もうそんな思いはしたくない。
だから誰にも期待しない。
淡々と静かな日常をどこまでも一人で生きていくのだ。
次話タイトルは「幼稚園時代」です