39、陰謀
「あの、明日の会議のこの資料、間違ってると思うのですが……」
摩夜は、営業本部長室に出向いて、秘書の沢木聖羅に今朝渡された資料を見せた。
今週の本部長会議の資料係は営業部の聖羅の番だった。
本部長会議の資料は、本部長秘書が順番に作ることになっていた。
次の会議で各本部長が配って欲しい資料を秘書経由で先に渡している。
それなのに摩夜が渡しておいた営業推進部の資料だけが先週のものになっていた。
「あら、おかしいわね。私が持ってる資料はちゃんとなってるわよ」
聖羅は営業部用の資料を出して確認すると「ほら」と言って摩夜に見せた。
「で、でも私が渡されたものは……」
「やっぱり噂通りの人ね、あなたって」
「え?」
摩夜は唐突に言われてなんのことか分からなかった。
「わざと差し替えて、私のミスだと言いがかりをつけるつもりなのね」
「ま、まさか、そんなこと……」
「だってそんな間違い方するわけないでしょ? なぜあなたの資料だけ先週のものが入ってるのよ。鷹柳本部長に私が間違えたって言って恥をかかせたいのね」
「ほ、本部長には何も言ってません。先にチェックして見つけたから、気付いて良かったと……」
聖羅はいまだに摩夜が派玖斗の秘書になったことが気に入らないらしかった。
でもだからといって大事な資料を差し替えるなんて信じられない。
ただ、摩夜はこれまでも平気で残酷なイタズラをする人々を見てきていた。
自分の言い分が正しいと思い込んだ時、人は大胆な嘘を平気でついたりする。
自分が悪を正す正義だと思い込んだ人ほど、自分の悪に気付かない。
摩夜に近付いてくるのは、そんな自分よがりな正義を抱えた人が多かった。
真昼に集まってくる人と違って……。
きっと自分が嫌な人間だから、そんな人ばかりが寄ってくるのだと思っている。
慣れているので対処の仕方は心得ていた。
嘘を問い詰め、相手の悪を暴いたところで何も解決しない。
淡々と嘘から波及する問題を取り除いていくしかない。
「正しい資料をもう一度渡しておきますから、他の本部長に配った資料も念のためチェックして下さい」
摩夜はそう言って正しい資料を聖羅の机に置いた。
「は? なんでよ! 私は間違えてないわ! あなたの言いがかりでしょ!」
「ですが万が一ということもありますから……だったら私が確認してきましょうか」
「あなた……御曹司の秘書になったからって調子に乗らないでね」
今の問題となんの関係もないが、やっぱりそのことを言わなければ気が済まないらしい。
「御曹司に色目を使って真昼さんから奪おうとしてるんですってね?」
「誰がそんなこと……」
「しかも人事部の似鳥くんまで取り込もうとしてるとか。あなたって思った以上に恐ろしい人ね。純情なフリして、ずいぶん男遊びもしてきたらしいじゃない」
「男遊び?」
噂には尾ひれがつくものだが、もはや尾ひれでもない。
「悪い男に騙され続けてきたんですって?」
「それって……」
摩夜が問いただそうとしたところで、後ろからゴホンと咳払いが聞こえた。
「さっきからノックしてたんだが、返事がないものだから……取り込み中だったみたいだね」
困ったように部屋に入ってきたのは……。
「井手口部門長! 失礼致しました。本部長がお待ちです」
聖羅が慌てて立ち上がって、本部長室に案内した。
「井手口部門長……」
今、派玖斗と藤堂の間で一番話題になってる人物だ。
先客の摩夜に、ぺこりと頭を下げて本部長室に入っていく井手口部門長は、オールバックの髪に少し白髪が混じっているが、年の割りにどこか爽やかで、聡明な雰囲気が滲み出ていた。
イケメンでも派手でもないけれど、どこか憧れたくなるような清廉さがある人だった。
(なぜ井手口部門長が海老沢本部長のところに……)
似鳥の話では井手口部門長を陥れた張本人のはずだった。
摩夜は、派玖斗に知らせなければと、聖羅との会話が中途半端なまま部屋に戻った。
◆
おかしな動きがあるようだ。
あれほど井手口部門長をのけ者にしようとしていた海老沢本部長たちが、今頃になって和解しようと躍起になっているらしい。
派玖斗と藤堂は、摩夜の報告を聞いて、そう答えた。
おそらく第一エネルギー部のプロジェクトを横取りしたのはいいが、井手口部門長なしでは解決できない問題がいくつか浮上したのだろうというのが二人の見解だった。
なぜか嫌な予感が拭えない摩夜は、翌日、本部長会議の準備を手伝ってから電話番に戻ってきて考え込んでいた。
しかし、すぐに電話が鳴って会議室に呼び出された。
推進部の資料が間違っていると言われて、昨日、井手口部門長のことに意識が奪われて、他の本部長の資料を確認しなかったことを後悔した。
とりあえず正しい資料を人数分コピーして会議室に向かいながら、聖羅はあれほど言ったのに、どう言い訳するつもりなのだろうと思った。
嫌な予感ばかりがする。
会議室にノックして入ると、ずらりと円卓に並ぶ本部長の面々が一斉に摩夜を見た。
みんなそれなりの経歴を持つ重鎮たちばかりだ。
一斉に視線を浴びると、それだけで威圧感がむんと押し寄せる。
そして二十代の派玖斗が、この重圧の中に平然と並んでいることに改めて尊敬を抱いた。
それぞれの斜め後ろには第一秘書や補佐を置いていたが、彼らもみんな切れ者ばかりだ。
そして小金井人事本部長の後ろには、今日は似鳥はいなかった。
その代わりに海老沢営業本部長の後ろに、聖羅が震えながら立っていた。
震えるほど緊張するくせに、なぜこんな大胆なことをするのか分からない。
「あの……正しい資料の方を持って参りましたので、お配りします」
摩夜は端から順に推進部の資料を置いて回った。
シンと静まる会議室で、摩夜が資料を配る音だけが響いている。
「お前が間違えたのか?」
派玖斗がみんなの視線を代弁するように尋ねた。
「だが、それにしては俺の資料だけは正しいものが入っていた。これはどういう事だ」
摩夜はチラリと聖羅を見た。
わざわざ聖羅を追い込むつもりはなかったが、こうなっては本当のことを言うしかない。
「昨日、資料が間違っているのに気付いて、沢木さんに言いに行きました。その時、鷹柳本部長の資料は私が正しいものに差し替えたので……」
しかし、確かあの時、聖羅が見せた営業本部長の資料は正しいものだった。
だったら、あの後わざとまた差し替えたのか。
ずっと女子校育ちだった摩夜は、時々こういう執拗な意地悪をする女子に遭遇してきたが、仕事という対価をもらうプロフェッショナルな場面でもするのだと少し驚いた。
こういう人は、長年のくせのようなもので罪悪感はさほどないのかもしれない。
だが学生時代のように泣いて許される問題ではないのだと聖羅はまだ気付いていないらしい。
本当にどうするつもりなのだろうと、摩夜は半ば同情的に聖羅を見つめた。
しかし、聖羅は震えながらショックを受けたように信じられないことを言った。
「知りません! そんなこと聞いてません! 私は行方さんに渡された資料をセッティングしただけです!」
「な!」
どうしてそんな嘘を! と思うのに、その傷ついたような表情は、あまりに真に迫っていて、自分の方が嘘をついているような錯覚がおこる。
「行方さんは秘書室にいた時から、時々そういう意地悪をする人でした」
聖羅は悪びれもせずに続けた。
「い、いえ。私はそんなことは……」
全員の目が摩夜を疑っている。
「そういえば、君は受付の行方くんと双子だとか」
「いろいろ話題が絶えない人のようだね」
「いろんな男を手玉にとってるとか……」
「人事部のホープ似鳥もその一人のようですね」
「おや、今日は補佐役は似鳥じゃないんですか、小金井本部長」
「はは。どれほど有能でも、さすがに身辺の騒がしい男は連れて来られませんか」
むっとする小金井本部長に、他の本部長が軽口を叩く。
(まさか似鳥くんが私との噂のせいで……)
この疑心暗鬼の中では、摩夜が何を言っても信じてもらえない気がする。
「摩夜。どうなんだ。本当のことを言え!」
派玖斗が強い口調で摩夜に尋ねた。
(派玖斗さんも私を疑ってるの?)
そう思うと涙が溢れそうになった。
他の全員に疑われても、派玖斗にだけは信じてもらいたかった。
「いえ……。私は……そんなことしてません……」
消え入りそうな声で否定する。
嘘などついてないのに、聖羅より摩夜の方が嘘に聞こえる。
「ひどいわ、行方さん! そんな嘘までついて私に意地悪したいの?」
わっと聖羅が泣き出した。
どう見ても、誰が見ても、嘘をついてるのは摩夜に見えた。
全員の非難の目を受けながら、摩夜は再び世界に失望していた。
この世界はいつも摩夜を悪者にする。
生まれた時からそう決まっているのだ。
真実も正義も、摩夜の味方にはなってくれない。
こうやって……。
摩夜は二十三年間生きてきたのだ。
次話タイトルは「真実」です




