36、勘違い
自宅の最寄り駅で降りた摩夜は、まだドキドキしていた。
別れ際に言われた似鳥の言葉は、摩夜にとって衝撃だった。
『僕は真昼ちゃんより摩夜ちゃんが好きだから』
その言葉は、これまでの過去に切望しながらも、決して得られなかったものだ。
どれほど今度こそはと願っても、摩夜が選ばれることはなかった。
だから、単純に嬉しい。
胸が熱くなるほどに嬉しい。
トキメキを感じるほどに嬉しい。
(似鳥くんの言葉が本当なら、前向きに考えてみようか……)
電車の数駅でそんな風にポジティヴになれるほどに衝撃だった。
この世界に真昼より自分を選んでくれる人がいるなら、それはもう二度と現れない王子様のように思えた。
初めて味わう幸せにひたって夜道を歩いていると「摩夜」と呼び止められた。
「え?」
キョロキョロと周りを見回すと、道路脇に停まる車の窓がグインと下がった。
「やっぱり似鳥のヤツ、送らなかったんだな」
「本部長!」
車の窓から派玖斗が顔をのぞかせていた。
「な、なぜ、こんなところに……」
「真昼を送った後、気になったからここで待ってたんだ。痴漢注意の看板があちこちにあったぞ。閑静な住宅街ってのは危ないんだよ」
「だ、大丈夫です。毎日帰ってるんですから。それに、私にはメガネという武器があります」
似鳥の言葉に浮かれて、かけるのを忘れていたが。
「メガネで痴漢が撃退できるのか?」
「撃退は出来ませんが、襲う気になりません」
「お前の黒縁メガネは痴漢防止用だったのか」
「そ、そういうわけではありませんが……」
「まあいいから乗れ! せっかく待ってたんだから送っていく」
「……」
後部座席をあけられて、さすがにもう断れなかった。
素直に派玖斗の隣に座った。
運転手付きの黒のベンツ。
何度か見ていたが、中に乗るのは初めてだった。
革張りの座席に、ゆったりとしたクッション。
エンジン音も静かで、後部席にテレビがついていた。
ドリンクホルダーには、シャンパンのグラスが入っていて、さっきまで真昼が飲んでいたものだと分かった。
「あの、似鳥くんは送ってくれるって言ったんですけど、私が断ったんです」
真っ先にそれを言わなければと思った。
「……」
派玖斗は無言で自分のシャンパンを一口飲んだ。
「似鳥と付き合うつもりか?」
「え?」
「あいつと今日、なんの話をした?」
「なんのって……あの、実は営業推進部の面々についていろいろ教えてもらったんです。明日にはレポートにして本部長に報告します」
「やっぱりな」
「え?」
派玖斗は少し苦い表情でグラスをホルダーに戻した。
「摩夜。先に言っておけば良かったが、俺の秘書になったお前は大勢から注目されている。中にはお前に取り入って俺の情報を聞きだそうとしたり、俺と接点を持つためにお前に近付いたりするヤツもいるだろう」
「じ、じゃあまさか似鳥くんは……」
「それは分からない。本当に摩夜を好きなのかもしれない。ただ、常にそういう疑いを持って人と接するようにしてくれ。彼は新人の中でも突出した人材だ。上を狙ってるのは間違いない。摩夜を出世に必要な駒のように思ってないとも限らない」
「駒……」
さっきまでの高揚した気持ちが一気に萎えていくのが分かった。
(やっぱり私なんかが真昼より選ばれるはずがなかった)
何度も失望してきたのに、また期待してしまっていた。
「私ってホントに懲りないバカね……」
思わず呟いた。
さっきまでウキウキになっていた自分が愚かしい。
「いや、可能性の話をしただけだ。似鳥がどうかは分からない。真剣にお前のことを好きなら悪いとは思ったんだが、つい心配になって余計なことを言ってしまった。だから付き合うなら慎重に見極めて欲しいと言いたかっただけで……」
派玖斗は思った以上に落ち込む摩夜に、焦って弁解した。
「いえ、私もおかしいと思ったんです。真昼よりも私がいいなんて……。そんな人、今まで一人もいなかったのに」
「一人も?」
「はい。だから分かってたつもりだったのに。多くを望まないでおこうと決めてたのに」
「多くを望まない?」
派玖斗は摩夜の言葉を繰り返していた。
「私は図々しいから、また欲張りになってしまってました」
摩夜は、大事なことを思い出したように、吹っ切れた表情になっていた。
そして家の前で車が停まると、ドアをあけて外に出て窓越しに告げる。
「もう大丈夫です。目が覚めましたから。似鳥くんと付き合ったりしませんから心配しないで下さい」
「え? いや、付き合うなと言ったつもりはないぞ」
「はい。分かってます。本部長を心配させてすみませんでした」
摩夜は深々と頭を下げて、派玖斗の車を見送った。
その摩夜の姿を……。
家の窓から鋭い視線で見つめる者がいることには、摩夜も派玖斗も気付いていなかった。
◆
「なに朝っぱらから落ち込んでるんですか」
土曜の朝、休日出勤して本部長室で頭を抱える派玖斗に藤堂が声をかけた。
「お前の淹れたコーヒーがまず過ぎる……」
「な! 文句があるなら自分で淹れて下さいよ!」
藤堂はむっと言い返した。
「やっぱり摩夜の淹れたコーヒーの方が百倍うまい。なにが違うんだ」
「知りませんよ! 今日は摩夜さんは土曜日で休みなんだからそれで我慢して下さい」
「いなくなると気付く存在感ってあるんだな」
「は?」
「摩夜だよ。普段はあたりまえに思っていても、いないと不便だ。摩夜が俺以外のヤツに心を許していると、なんかむかつく。邪魔したくなる」
「なんの話ですか? 誰のことを言ってるんですか?」
「人事部の似鳥だよ。昨日、摩夜がデートしてた」
「人事部の似鳥? 先日調べろと言ってた人物ですか?」
「ああ。摩夜に片思いだと本人が宣言しやがった」
「摩夜さんに? 変わった趣味ですね」
「だろ? だから摩夜に似鳥を信用するなと言ってやった。摩夜はショックを受けた様子で、似鳥とは付き合わないと答えたんだ」
「賢明ですね。派玖斗さんの秘書を務めるなら、それぐらいの慎重さは必要です」
「だが似鳥が本当に摩夜を好きで、摩夜も似鳥に揺らいでたなら、俺がぶち壊したことになる」
「その程度で壊れるなら、そこまでの縁なんでしょう。派玖斗さんが罪悪感を感じる必要はありませんよ。むしろ利用される前に気付いて良かったかもしれません」
「だが……本当は、俺が似鳥に嫉妬しただけかもしれない」
「嫉妬?」
「摩夜が似鳥と一緒にいるのを見た時、ひどくショックを受けた。あいつが似鳥を庇うと、なんだか無性に腹が立つんだ。だから邪魔したくなった。いろいろこじつけてみたが、やっぱり俺は自分が嫌だから、大人げなく邪魔したんだ」
「……」
藤堂はしばらく無言で派玖斗を見つめた。
そして、納得したように口を開いた。
「それは、あれですね」
「あれ?」
「自分の家族や親友みたいな身近な存在が取られるような気持ちなんでしょう。摩夜さんが秘書になってそろそろ一ヶ月です。その程度の情が湧いてきても不思議はありません」
「情か……」
「そうです。私だって派玖斗さんが結婚するとなったら、嬉しい反面、多少は寂しさを感じますよ。手のかかる息子が巣立ったような寂しさです」
「お前の情は暑苦しいけどな」
「それに人事部の似鳥は、派玖斗さんがおっしゃる通り要注意ですよ。去年の新人の中では断トツのエースです。すでに小金井人事本部長の懐にも深く入っています。彼の人心掌握術は別格ですよ。女性にもよくモテる。よりどりみどりのはずなのに、摩夜さんにいくのは、どう考えても不自然です」
「やっぱり摩夜が俺の秘書だから利用するつもりなんだろうか」
「充分考えられますね。しかも恋愛においても百戦練磨だと聞いています。彼の手にかかれば、恋愛経験の少なそうな摩夜さんなどイチコロでしょう」
「……」
派玖斗は、あごに手をやって考え込んだ。
「ならば、むしろ俺が邪魔をするべきだな」
「そうとも言えます」
派玖斗は満足げに頷いた。
次話タイトルは「営業推進部再編」です




