32、嘘の上塗り
「あれ? 摩夜、メガネは外さないの?」
朝ごはんを食べに食卓に行くと、真昼が不思議そうに尋ねた。
摩夜は会社ではメガネを外していたが、一歩社外に出るとメガネをかけていた。
もちろん家ではお風呂と寝る時以外はつけている。
母の前では特に絶対外さなかった。
「メガネ?」
母は食卓に真昼と摩夜の朝食を準備しながら怪訝に尋ねた。
「そうなのよ、お母さん。摩夜ったら昨日は会社でメガネを外してたのよ。それで社内じゅう摩夜の噂でもちきりだったの」
「そんなこと……」
摩夜はじわりと冷や汗が出るのが分かった。
できれば母には内緒にしておきたかった。
さすがにパンツスーツを着ているのは昨日からバレているが、メガネまで外しているのは知られたくなかった。
なにか良からぬ誤解をまねいて、精神が不安定になるんじゃないかと怖かったのだ。
「やっぱり双子なのねってみんなに言われたわ。パンツスーツが似合ってるねって、自分が褒められたみたいに嬉しかったわ」
真昼は摩夜の不安など何も気付かず、屈託なく褒めてくれる。
「どうして急にメガネを外そうと思ったの?」
母は、少し強張った表情になって、野菜のスムージーを二人の前に差し出した。
真昼の健康のために作るようになったが、母は摩夜にも毎朝作ってくれる。
摩夜に冷たい印象の母だが、朝晩の食事だけは分け隔てなく同じものを心を込めて作ってくれた。時には孤独で絶望しそうな摩夜は、この食事にどれほど救われたか分からない。
もしかして自分の事を嫌いなんじゃないかと思っても、この手の込んだ食事に母の愛情を手繰り寄せていた。
(真昼ほどではないが、私の事も愛してくれている)
食事を食べるたびに、そう自分に言い聞かせる事ができた。
この食事があるから、摩夜はグレる事もなく母に感謝できたのだ。
こんな自分だけれど、母を幸せにしたいと思っていた。
母を不安定な精神状態にしたくないと思っていた。
「ほ、本部長秘書は、身なりもそれなりにしてないとダメみたいだから……。私のせいで本部長や真昼のイメージまで悪くならないように……」
摩夜はうつむいて、お洒落に皿に乗ったフレンチトーストを頬張った。
「そうね。妹があまりに変わり者だと思われたら真昼の縁談にも影響があるかもしれないものね。会社では外した方がいいかもしれないわね」
母があっさり肯定してくれたので、摩夜はほっと胸を撫で下ろした。
「人の噂話って怖いものね。意地悪な人はなんでも歪めて受け止めるし。昨日だって摩夜がメガネを外したのは、私を出し抜いて派玖斗さんに取り入るつもりだなんて酷い事言う人もいたのよ。摩夜がそんな事する訳ないのにね」
何気なく言う真昼の言葉に摩夜は凍りついた。
はっと母の顔を見る。
母が恐怖を浮かべて摩夜を見ていた。
「ち、違うわ! そんなこと思ってないわ。派玖斗さんは真昼のこと大事にしてるし……」
「え? 摩夜って派玖斗さんって呼んでるの?」
うっかり真昼につられて心の中の呼び方をしてしまった。
「ち、違う。いつも本部長って言ってるわ。今のは真昼につられただけだから」
焦れば焦るほどボロが出るような気がする。
「摩夜は派玖斗さんのこと、好きだったりしないよね?」
真昼が小首を傾げて尋ねた。
「もし摩夜も好きなら、ちょっとお付き合いも考えちゃうな。摩夜のこと大好きだから、私が身を引くわ」
母の顔が恐怖にひきつっている。
摩夜は、立ち上がって叫んだ。
「好きじゃないから! 上司として尊敬してるだけだから! それに本部長は真昼のことを本当に大切にしてるから、そんなこと考えないで! 本部長のためにも! お願いよ、真昼!」
全力で否定する摩夜に、母の表情が少し和らいだ。
「嫌だ、摩夜ったら。そんなに必死で言わなくても、冗談よ。私だって派玖斗さんのこと、もう愛しているもの」
くすりと可愛く微笑む真昼に、なぜか摩夜はひやりとした。
初めて感じる妙な違和感だった。
◆
「ねえハク。嘘ってついちゃいけないものなのかな?」
土曜日に、摩夜はいつも通り祖父の家に来て、ハクと近所を散歩していた。
一応住宅のある場所では、ハクの右足にリードを付けているが、ハクは決して勝手に飛び立ったりしない。
凛と前を向いて、摩夜の左手にとまっている。
摩夜の話など聞いてないようなそ知らぬ顔に見えるが、ハクは周囲を警戒しながらもちゃんと聞いてくれていた。
「だってね、今さら派玖斗さんが好きだなんて言ったところでしょうがないでしょ?」
ハクはギロリと摩夜を睨んだ。
『俺様以外の男の話をしているのか』という顔をしている。
「あ、違うわよ。もちろんハクが一番好きよ。でもほら、派玖斗さんはハクの化身みたいな人でしょ。特別に思ってしまうのは仕方ないじゃない」
ハクは少し納得いかない顔で『フン!』と前を向いた。
「派玖斗さんは、俺に嘘をつくなって言ってたわ。出来れば私だって派玖斗さんに嘘なんかつきたくないのよ。でもね、言わなきゃ良かった真実ってあるよね」
自然体であれば、真昼と同じ物を選んでしまうだろう摩夜には、この世界は言わなきゃ良かった真実で溢れている。
ピンクのワンピースも、大きく巻いた可愛い髪型も。
愛らしい話し方も、憎めない仕草も。
そして派玖斗も……。
すべては真昼のためにある。
摩夜が選んではいけないものだ。
選んだところで惨めになるだけだった。
「私が本心で選んだものはあなただけよ、ハク」
摩夜は田んぼの広がる小道を、ハクと話しながら山に向かって進んでいく。
「だって派玖斗さんは、現に真昼と出会ってうまくいってるみたいだし。お母さんも喜んでる。これが二年前の鷹匠が私だって言ってたら……」
どうなっていただろうかと、摩夜は考えた。
きっと黒縁メガネの変な女に失望して、食事になんか誘わなかったはずだ。
決して恋愛になんて発展しなかった。
「真昼だから恋人にしようと思ったんだし、これで良かったと思ってるわ」
一生、派玖斗への気持ちはハク以外には言わないつもりだ。
昴の時のように、きっと少しずつ忘れていける。
諦めることには、もう充分過ぎるほど耐性ができている。
今回も同じだ。
ハクが少し心配そうな目で『それでいいのか?』と聞いている。
摩夜は「ふふふ」と笑った。
「大丈夫よ。私にはハクがいるもの」
摩夜は甘えるようにハクに頬ずりをした。
ハクは摩夜の過剰なスキンシップを『仕方がないな』という顔でうけとめた。
「ハクさえいてくれたら他には何もいらないわ。あなたさえいてくれたら、私は強く、優しく、前向きに生きていけるのよ」
「なにラブラブカップルみたいなこと言ってんだよ」
不意に後ろから声をかけられて、摩夜とハクは振り返った。
「昴!」
珍しくアリスも連れずに、こんな小道を歩いている。
「こんな時間にどこ行くの?」
「集会所。村の集まりがあるんだ。親父が先に車で行ってるから、俺は歩きだよ」
「ふーん。お祭りでもあるの?」
集会所で集まると言えば、お祭りの話し合いが多い。
「違うよ。去年の台風で結構被害を受けた農園が多くてさ。大谷農園なんかもビニールハウスが壊れて、高級フルーツが壊滅状態だったらしいんだ」
この辺りは今まであまり台風の通り道になることがなかったのだが、近年の異常気象で最近は毎年のように被害を受けていた。
「おまけに去年は大きな地震があっただろ? あれでもいろいろ被害が出てんだよ」
「地震で? でも死者は出なかったよね?」
摩夜はこっちにいない時だったが、かなり揺れたらしい。
「後から出てくる被害もあるんだよ。たとえば、地盤がゆるくなって大雨で土砂崩れが起きやすくなったり、俺んちなんか池の鯉が全滅した」
「鯉が? なんで地震で鯉が全滅するの?」
昴の農園の所有地には、鯉を養殖する池があって、高値の鯉も何匹かいたはずだ。
「ある日見に行ったら、突然全部死んでたんだ。誰かが農薬でも池に流したのかと思ったんだけどさ、調べたら驚きの原因だった」
「驚きの原因? どういうこと?」
「温泉が湧き出てたんだよ。地震の影響で池の底に源泉が吹き出したらしい」
「お、温泉? じゃあ昴んちの池はお湯になってるの?」
「そう思うだろ? どうせ吹き出すなら、いい湯加減になるぐらい吹き出せばいいのにさ、チビチビ吹き出すもんだからほとんど水と変わらない温度なんだよ。そのくせ魚が生息できない成分だけはきっちり噴出しやがってさ、踏んだり蹴ったりだよ」
そんなこともあるのかと摩夜は昴が少し気の毒になった。
「だからうちもそうだけどさ、大谷農園も経営がヤバいらしい。若い世代も見切りをつけて都会に出て行くしさ、なんとか村おこしが出来ないものかって冬じゅう話し合ってたんだよ」
「そうなんだ……」
大谷農園といえば、この辺では一番大きな農園で、働いている人も多い。
「俺んちも弟は大学行ってそのまま向こうで就職するらしい。親父には農園は俺に任せるから早く結婚しろって言われてんだ」
昴の家の農園は大谷農園と隣接していて、規模は三分の一ぐらいだが、それでもこの村では二番目に大きな農園だった。
「結婚? そっか、奥さんにも手伝ってもらったら助かるしね」
「い、いや、別に手伝わせるためにってわけじゃないけどさ……」
昴はなぜだかごにょごにょとハッキリしない。
そして摩夜は、はっと気付いた。
「真昼はダメよ! 派玖斗さんと順調にいってるみたいだから」
聞かれる前に先手をうった。
「は? だからなんでそこで真昼の話になるんだよ!」
「え? それを聞きたかったんじゃないの?」
「ちげーよっ! で、でもそっか。真昼はあのオッサンとうまくいってるのか」
昴がホッとした顔になった。
「そうよ。だからお嫁さん探しなら他をあたってね」
「わ、分かってるよ。だいたい真昼がこんな田舎の農園で暮らすなんて無理だろ」
「そうね。体力もないし、虫も苦手だしね。農園の手伝いは無理かな」
昴もここにきて真昼のことは諦めがついたのだと摩夜は思った。
「てか、最初っから真昼のことなんて考えてないし!」
「え? そうなの?」
驚く摩夜の横でハクが昴を睨みつけていた。
「そ、そうだよ! 今日こそハッキリ言うけどな! ……ハク、そんなに睨むなよ!」
昴はハクを牽制して、大きく息を吸い込んだ。
「俺はずっと……」
しかし、言いかけた昴を邪魔するように、ハクがバサバサと羽を広げた。
「あ、ハク、飛びたいの? もう少し待ってね。ここはまだ住宅地だから」
「……」
勢いをそがれて不機嫌に睨む昴に、ハクはツンとすましてそっぽを向いた。
「お前、絶対わざとだよな」
文句を言う昴と目を合わさないように、ハクはさらに顔をそらした。
「え? なにが?」
摩夜だけが何も気付かず首を傾げる。
「くそっ! もういいよっ! 今度ハクのいないところで話すから!」
昴は怒ったまま、三叉路で別れて行ってしまった。
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