30、動き出す運命
「今月の鷹柳本部長の仮払い金の内訳です。残額はこれです」
摩夜は銀行口座の残高を示し、ひと月分の領収書とその明細票を持って経理に提出しにきた。
役員には毎月それぞれ決まった額の仮払い金が入金され、その範囲内で接待費や交通費などを使い、毎月清算するというシステムになっていた。
摩夜が来るまで藤堂が管理していたが、その辺は大雑把なタイプらしく、束の領収書を証憑に貼り付け明細票を作るのに苦労した。
そしてやっぱりかなりの不足金が出た。
「じゃあこれで補填しておいてくれ」と派玖斗は慣れたように自分の財布からお金を出した。
どうやらいつもの事らしい。
派玖斗と藤堂は、どれぐらいのお給料をもらっているのか、どれぐらいの資産を持っているのか分からないが、お金にまったく執着していない。
結果、収支が合わない事を大したことだと思ってないようだった。
第二秘書着任の直後にそれに気付いた摩夜は、お金の管理は自分がしようと心に決めた。
毎日仮払い金の残額を確認し、藤堂に前日の領収書をうるさく催促した。
当たり前のことなのだが、役員になると結構ずさんらしく、派玖斗と逆にセコい役員などは、毎日新幹線で大移動をしているかのように交通費を上乗せして仮払いぎりぎりまで使い込む者もいる。誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せるが、派玖斗は自分で出した方が早いと、すぐに自腹で誤魔化すタイプだった。
(派玖斗さんらしいなあ……)
摩夜は可笑しくなるのだが、だから尚さら不足が出ないようにしたかった。
そして摩夜が着任してからは、きちんと収支は合っていた。
「ずいぶん余りましたね。では精査の上、決済しますのでこれは預かります」
役員の仮払い金の担当は、ベテラン男性社員が担当していた。
いかにも数字に強そうな銀縁メガネの税理士のような雰囲気の男だ。
同じ銀縁メガネでも藤堂とはタイプが少し違う。
本人も言っていたが、藤堂は案外イケメンで背が高い。
銀縁メガネも藤堂の方がお洒落で知的に見える。
「よろしくお願いします」
摩夜は頭を下げて経理部を出ようとした。
その摩夜の背中に女性社員のヒソヒソ話が聞こえてきた。
「え? あれが噂の?」
「うっそ。噂以上にダサい。なんなのあの黒縁メガネ」
「あの昭和みたいな髪型もね」
「スーツも、今どきあんなダサいの探しても見つからないわよ」
聞こえてないと思ってるのか、わざと聞こえるように言っているのか分からないが全部丸聞こえだった。
「鷹柳本部長って素敵だと思ってたけど、あの人を秘書に選んだってだけで失望したわ」
「趣味悪過ぎよね。受付の真昼さんの気を引きたくて選んだって言われてるけど」
「それも私情をはさんでるから嫌よね」
「今年のドラフトに選ばれなかった秘書室の子から聞いたけど、いろいろ根回しをして取り入ったみたいよ。人事の同期にも評価点を高くつけてもらったらしいし」
「えー、そうなの。もしかして枕営業でもしたの?」
「ぷっ。やだ。あんなダサい子じゃあ誰も相手にしないでしょ」
摩夜は聞こえないフリをして部屋から出た。
こういう噂は、派玖斗の秘書になってから幾度となく聞いてきた。
エレベーターでも食堂でもトイレでも、タイミングよく耳に入ってくる。
もう慣れていた。
慣れるというなら、子供の頃から慣れていた。
ただ、自分だけじゃなく派玖斗まで悪く言われるのがこたえた。
先日藤堂に言われた言葉が思い浮かぶ。
トイレに入って、誰も人がいないのを確認してから、そっと黒縁メガネを外した。
祖父の田舎以外でメガネを外すと緊張する。
派玖斗の言う通り、このメガネは仮面なのだ。
メガネさえかけていれば、摩夜は守られる。
真昼が愛されるためにあるような、この世界から守られる。
ダサい、地味、時代遅れ。
どんな否定の言葉も、真昼と間違われて失望を浮かべられる屈辱に比べれば他愛も無い。
摩夜にとっては些細な事だった。
(でもそのせいで派玖斗さんまで失望されるなら……)
天秤の両側に悪意の重しが均衡を保っていた。
メガネをかけてから初めて、外すべきだろうかと悩んだ。
しばらく悩んだ後、摩夜は静かにメガネをかけ直す。
やはり、まだ勇気が足りなかった。
だが、その日の午後、天秤が片一方に振り切れる出来事があった。
会議の資料をもらいに営業推進部に行って、パーテーションで区切られた椅子に待たされていると、外から男性社員の話し声が聞こえてきた。
「ったく面倒な事ばっか言うよな。今度の本部長」
「御曹司だかなんだか知らないけど、点数稼ぎたいんなら俺らみたいな下っ端を動かすんじゃなくて上の根回しでもしろってんだよな」
どうやら派玖斗のことを言ってるらしい。
「どうせ一、二年でもっとお偉い役職に異動になるんだからさ、腰掛け程度で俺達の仕事を引っ掻き回さないで欲しいんだよ」
「そうそう。今更、営業推進部はもっと積極的に営業にからむべきだとか言ってさ。営業のヤツらもそんなの望んでないっての」
「どうせ俺らが新たな戦略を提示した所で、鼻で笑われて終わりなんだよ」
「余計な事しなくていいから、資料だけ集めて来いってな」
日頃の派玖斗は、悩んでる風でもなかったからうまく仕事をこなしているのだと思っていたが、考えてみれば自分より年上も多いだろう部署で本部長職をやるなんて簡単な事ではなかった。
「だいたい俺達の担当の繊維部門は古くから続くお決まりの流れがあって、簡単に変えられるものじゃないんだよな」
「もっと時代の流れを先読みしろって言ってたけどな」
「はん! 自分はどうなんだよ」
「そうそう。超時代遅れの秘書を選んでんじゃねえか」
「あの秘書を選んだ男に時代の先読みとか言われてもなあ」
「一番時代遅れなのは自分じゃねえのかよって思うよな」
摩夜はパーテーションの中で衝撃を受けていた。
藤堂が大袈裟に言ってるのだと思っていたが、実際に自分のせいで派玖斗が軽んじられていた。自分が足を引っ張っているのだと実感した。
資料を受け取って、逃げるように本部長室に戻った摩夜は、その足で派玖斗の部屋に入った。
「頼まれた資料を頂いて参りました」
派玖斗はパソコンの画面から視線をはずして、にこりと微笑んだ。
「おう、ありがとう」
「あの……」
何かを言おうと思ったが、何を言っていいのか分からない。
「ん? どうした? 深刻な顔をして」
「あの……本部長はいつも……」
あんな事を言われてるのですか?
知ってたのですか?
いや、きっと目ざとい藤堂から噂ぐらいは聞いてるはずだ。
でも一度も摩夜を責めたりメガネを外せと強要したりはしなかった。
「なんだ?」
「いえ……なにも……」
口を開けば涙がこぼれそうだった。
「そうだ。来週のランチミーティングは牛々苑の焼肉弁当にしよう。予約しておいてくれるか? 当日、藤堂に取りに行かせよう」
元気のない摩夜を元気づけるように告げる派玖斗の言葉が温かかった。
そしてそれに甘えてばかりではいけないのだと強く思った。
(派玖斗さんの優しさに返せるものがあるなら……。私も勇気を出して答えるべきだ。たとえそれが、とても苦しい選択だったとしても)
摩夜はその日、退社したその足で新しいスーツを買いに行った。
次話タイトルは「変身」です




