2、現在
「行方さん。明日の会議の書類頼めるかしら。チェックして役員分コピーしておいて」
「はい。分かりました」
行方摩夜は、室長の澤部に頼まれ、黒縁のメガネをくいっと上げて無表情のままに応じた。
長い黒髪は仕事の邪魔にならないよう、バレエ生徒がよくやるように綺麗にひっつめてある。
そして前髪は先端でぴっちり両脇にピン留めしていた。
服装は、摩夜の配属先の秘書室では『華美になり過ぎないスーツ』という規定だけだったが、摩夜だけが生真面目に規定通り、面白みのないグレーのスーツを着ていた。
みんなは手を替え品を替え、さりげなく色っぽいスーツを着込んでいる。
真剣な表情で書類のチェックをすませ、そそくさとコピー機に向かう摩夜を見送りながら、副室長の浅井は澤部に耳打ちした。
「また行方さんに頼んでるんですか? 他にも手の空いてる子はいっぱいいるのに」
会議のない火曜日は午後になると結構ヒマになる。
特に新人研修がそろそろ終わる春先は人手が余るのだ。
ドリンクサーバーの前の喫茶コーナーで、華やかな女子社員が五・六人楽しげにたむろしている。そこにいるのは全員、今年度秘書室に配属になった新人社員だ。
一年かけてみっちりと研修を行い、年間スケジュールを一通り覚えた後、本当の配属先に行く事になる。
秘書室以外は半年の研修で配属が決まる部署もあるし、三ヶ月の所もある。
秘書室だけ、一年という長い研修期間が設けられている。
なぜなら……。
秘書室だけはドラフト制だからだ。
「あの子は使いやすいのよね。無表情で愛想はないけど、仕事は完璧だし、なにを頼んでも文句も言わず淡々とこなすし。面倒な仕事は特に頼みやすいのよ」
澤部室長は浅井にあっさり本音を言った。
「まあね。協調性はないけど安心して仕事を頼めるのは助かりますよね」
「だからと言って、彼女を欲しいという声がかかるかどうかは分からないけどね」
澤部は苦笑した。
そう。
一年の研修を経た後、役員達がそれぞれの経歴と実績を見て、欲しい人材を指名する制度。
野球のドラフト会議と違うのは、指名の優先順位がはっきりしている事だ。
まず、会長、社長、そして、専務、常務、本部長、その他役員……。
その他にも全国各地の支店長などに指名されたら地方配属の場合もある。
競合するのは、同じ地位の役員指名が重なった時だけだ。
欠員がなければ指名無しの役員もいるし、初めて役員になった者は二名指名する場合もある。
「時代が変わったと言っても、結局顔で選ばれるのよね。仕事が出来る出来ないより美人から先に指名がかかるのよ」
浅井はため息をついた。
「女性秘書しかいなければ、彼女を欲しいという役員もいるだろうけどね」
秘書室には男性秘書もいた。
こちらはきゃぴきゃぴした女性秘書と違って、生え抜きのエリート社員だった。
有名大学を出て、役員の片腕となるべくハードな研修をしている。
今も、ほとんど外回りの研修で部屋にはいない。
たいがいの役員は、有能な男性秘書一人と美人で華やかな女性秘書一人を選ぶのだ。
有能だが地味で華やかさのない摩夜は指名されそうになかった。
指名されなかった秘書はどうなるのかと言うと……。
まあ、個人秘書ではないけれど、役員全体の世話をする秘書室の仕事がある。
その秘書室に残って新人教育をしながら、来年の指名を待つ。
結局いつまでたっても指名されず、お局のようになっている者もいた。
摩夜はその線が濃厚だろうと、澤部と浅井は読んでいた。
中には、澤部や浅井のように役員の秘書を長年経験して、新人教育の責任者として出世して戻ってくる者もいる。
この秘書室は、そういう雑多な人種にあふれる部署だった。
「どうして秘書室に来ちゃったのかしらね。他の部署ならもっと使い途もあったのに……」
澤部と浅井は気の毒そうに、コピーをとる摩夜の後ろ姿を見つめていた。
そんな摩夜に男が一人話しかけてきた。
「摩夜ちゃんいつも頑張ってるねえ。一人で仕事してない? 少しは手を抜いてさぼったりしちゃったら?」
いかにも軽そうなノリの男だった。
「似鳥くんこそこんなところでさぼってないで少しは仕事したらどうですか?」
摩夜は黒縁メガネをすいっと上げながら、ちゃらい同期を牽制した。
「やだなあ摩夜ちゃん。これが僕の仕事だよ。人事部たるもの、人との繋がりがすべて。こうやっていろんな部署の人と仲良くなって、人を通して会社を見てるのさ」
似鳥は半年前に研修を終えて、人事部に配属になっていた。
「それにしては秘書室の出現率が高くないですか?」
このところ毎日のようにやって来て誰彼なく話しかけている。
「まあ秘書室は美人が多いからね。目の保養だね」
摩夜はため息をついた。
「だったら、私ではなく美女のところに行ったらどうですか?」
「そうそう、その美女の話でちょっと摩夜ちゃんに聞きたいことがあってさ」
似鳥は、コピーした書類を黙々とクリップで留め続ける摩夜の前に回り込んで尋ねた。
「今年の同期で一番美人って言われてるのが受付の行方真昼ちゃんでしょ?」
摩夜の手が一瞬だけ止まった。
だが、すぐに作業に戻る。
「摩夜ちゃんも行方だよね。双子だって噂が流れてるんだけどホントかなって思ってさ」
「……」
なにも答えない摩夜に似鳥は目を見開いた。
「え? もしかしてホント? いや、てっきりそんなバカなとか言われるかと思ったんだけどさ。いやあ、聞いてみるもんだよね」
「そんな事聞いてどうするんですか?」
摩夜は、さらに高速でクリップを留めながら尋ねた。
「いや……似てないというか……まさか一卵性じゃないよね。こうまで似てない双子を見るのって初めてだなと思ってさ」
「……。性格は正反対です」
「ふーん。ねえ、ちょっとそのいかついメガネを取ってみてよ。よく見たら似てない? もうちょっと真昼ちゃんみたくお洒落にしたらいいのに」
「余計なお世話です。私はこの方が落ち着くので放っておいて下さい」
「ほらほら、その口調も可愛くないよね。真昼ちゃんみたいに、小鳥がさえずるように可愛い声にならないの? いい素材があるのに勿体無いよ。いつから間違っちゃったかなあ」
「……」
摩夜は、出来上がった書類をトントンと揃えて、似鳥に冷めた目を向けた。
「いつ間違えたのかと言うなら……」
「え?」
「私はお腹の中にいる時から……すでに間違いだらけの嫌なヤツだったみたいです」
次話タイトルは「記憶の始まり」です