17、望まない出会い
「お先に失礼します」
「お疲れ様です」
摩夜は定時に仕事を終え、同期達と一緒のロッカールームから真っ先に出た。
化粧直しや、仕事終わりに出掛けるお店探しに忙しい同期と違って、摩夜は上着を着て鞄を取ったら終わりだ。いつも一番に退社出来る。
秘書室は役員室の下の階に役員用の会議室と共に配置されていた。
最上階の一つ下だ。そしてその下は人事部と経理部になっていた。
エレベーターには最初、摩夜一人が乗っていた。
しかし下の階で止まると、面倒なことに似鳥が乗ってきた。
「あれ? 摩夜ちゃん。もう帰るの? 早いね」
「似鳥くんこそ。こんな時間に珍しいですね」
三月決算のこの時期に定時に帰れるのは、ドラフト前の秘書室の新人ぐらいだ。
「いや、これからだから。夜食の買出しを命じられた。新人は使いっ走りばっかりだよ」
「大変そうですね」
「秘書室のドラフト会議の準備もあるけど、社員の配置換えもあるしね。もっとも、俺は雑用ばっかだけど」
似鳥と他愛もない話をしていると、エレベーターがピロンと鳴って止まった。
また誰か乗ってくるのかと、摩夜と似鳥は後ろに下がった。
そして開いたドアから現れた人物に二人共固まった。
(派玖斗さん……)
正確には派玖斗と藤堂が入ってきた。
「派玖斗さん、急いで下さいよ。会食に遅れたら大変ですから。エレベーターを下りたら前に車を止めてますので駆け足で……」
「ああ、もう分かってるって。走ればいいんだろ?」
「だいたい営業推進本部長の派玖斗さんが、なんで営業部の得意先に同行してるんですか。今日は総裁との大事な会食だとあれほど言いましたのに」
「じっちゃんと親父との家族の食事じゃないか」
「いいえ。グループ総裁と副総裁との、海外出向の成果を発表する重大な会食です」
「大袈裟なんだよ藤堂は」
半分喧嘩ごしに話している二人は、摩夜と似鳥が目に入ってないようだった。
似鳥はしばらく固まったまま、二人の会話を聞いていたが、はっと気付いたように軽く咳払いをして派玖斗に声をかけた。
「お疲れ様です。鷹柳本部長」
普段のにやけた似鳥ではなく、ピシリとキレ良く頭を下げる。
摩夜も慌てて似鳥に倣って頭を下げた。
「お? おお。ご苦労さん」
派玖斗は背後に気付いて挨拶を返し、藤堂も軽く頭を下げた。
派玖斗は海外から戻ると、営業推進本部の本部長のポストを用意されていた。
今は前本部長からの引継ぎをしながら秘書の藤堂と二人で、各営業部を視察して回っているらしいと似鳥から聞いていた。
未来、グループ総裁として全体を率いていく派玖斗は、鷹城物産に長く留まっているわけにもいかない。重要なポストをどんどん経験して、他のグループ傘下の他会社での役職も経験しなければならないらしい。
凡人には想像もつかないような出世街道を進んでいくのだ。
今は若く、肩書きの割りに身近な雰囲気だが、いずれは手の届かない人になっていく。
話しかける事もできないような存在になるのだ。
だから話すなら今がチャンスとばかり、似鳥はお得意の気安さで話しかけた。
「人事部の似鳥と言います。一つ質問してもいいでしょうか?」
「?」
気後れもせずに話しかける似鳥を、派玖斗と藤堂は二人して見つめる。
「なんだ? 言ってみろ、似鳥」
そして派玖斗が興味深い顔で応じた。
「今度の秘書室ドラフト会議で指名される秘書は、もうお決まりですか?」
唐突にとんでもない事を聞く似鳥に、隣に立つ摩夜の方が蒼白になった。
「ドラフト会議? ああ、くだらないキャバクラみたいな指名制度か」
派玖斗は今さら思い出したように聞き返した。
「どうせならプロ野球みたいとか言って下さいよ」
似鳥は苦笑した。
「ふん! 俺は藤堂がいるから秘書なんかいらないって言ってんのに」
「私に電話番やお茶くみまでさせるつもりですか?」
「お前は何でも上手だろうが。出来る出来る」
「出来る出来ないの話ではなく、これ以上雑用が増えたら過労死しますよ」
言い合ってる二人が面白い。こういう所は二年前と少しも変わらない。
「本社では本部長以上の役職には最低男女それぞれ一名以上の秘書をつける決まりですから」
言い合う二人に似鳥が説明した。
「男二名じゃダメなのか? どうせなら藤堂みたいなのが二人いる方が助かる」
「いえ、やはり藤堂さんがおっしゃったように電話番やお茶出しなどは女性の方が場が和むと言いますか、やはり古い体質の会社では常識ですので……」
「俺はもう女はこりごりなんだ。いろいろ面倒でうんざりだ」
「はは。海外でも散々痛い目に合わされましたからね」
藤堂がちょっと嬉しそうに応じた。
(そうなんだ)
女性問題で海外に飛ばされたはずなのに、結局向こうでも問題を起こしてきたらしい。
結婚に夢のある女性には不誠実で嫌な男に映るかもしれないが、はなからそんな夢を持ち合わせていない摩夜には、憎めない可愛げのように思えた。
だから思わずくすっと笑ってしまった。
その微かな笑いに、男三人が一斉に摩夜を見た。
派玖斗と藤堂は、そういえばもう一人乗ってたな、と今思い出したような顔をしている。
(しまった。まさか二年前の鷹匠の女だと気付いてないわよね)
摩夜は派玖斗と目が合って、慌てて俯いた。
「お前は……」
しかし派玖斗が何かを言いかけたところでエレベーターが一階に到着して開いた。
「派玖斗さん、着きました。走って下さい」
「お、おお。分かった」
藤堂に追い立てられるように出て行ったので、摩夜はほっと息をついた。
「惜しかったね、摩夜ちゃん。ここで自己紹介でもしたらドラフトで選ばれたかもしれなかったのに。聖羅ちゃんなんか、用もないのに営業推進部をうろうろして派玖斗さんに話しかけてるみたいだよ。摩夜ちゃんもチャンスは自分で作らないと」
一緒にエレベーターから降りながら似鳥が摩夜に耳打ちした。
「いえ、そういうのは……」
答えながら受付前を通り過ぎようとした摩夜は、最悪のシーンを目にして立ち止まった。
「おい、お前!」
走り去ろうとしていた派玖斗が、受付嬢の一人を見て瞠目している。
それは……言うまでもなく……真昼だった。
「え? あっ!」
真昼は派玖斗が噂の御曹司だと気付いて、両手で口を覆って驚いている。
隣の受付嬢も気付いて慌てて頭を下げた。
「お疲れ様でございます、鷹柳本部長」
真昼も同じく綺麗な姿勢で頭を下げた。
しかし、その二人に発した派玖斗の言葉は信じられないものだった。
「真昼か?」
「えっ?!」
まるで知り合いのように名前を呼ばれて、真昼が目を丸くしている。
「は、はい……そうですけど……」
「まさかこんなところで会えるとは……。来週にでもハクに会いに行こうと思ってたんだ」
「ハク……?」
「去年一時帰国した時にも行ったんだぞ。俺の名刺を渡しておいたのに連絡一つ寄越さないし、何かあったのかと思ってたら……。まさかこの会社に……」
去年?
一時帰国?
名刺?
摩夜はそんな名刺などもらった覚えもないし、聞いてもない。
しかし、その摩夜以上に真昼のほうが驚いている。
当然だ。
初対面のはずだろうから……。
まさか、派玖斗が自分を覚えているとは思ってなかった摩夜は、この現状をどうしようかと頭の中が真っ白になっていた。
(ど、どうしよう……)
「それは私です」と言おうかと思って、すぐに考え直した。
さっきエレベーターで間近に接してもまったく気付かれなかった。
なぜなら、髪をぴっちり後ろでまとめ、前髪をピンでひっつめ、おまけに可愛げのない黒縁メガネだ。
最低限の化粧はしているものの、肌の色を整えるぐらいで、服装も地味なスーツだった。
やはり派玖斗のイメージで残っているのは、今の華やかな真昼なのだ。
だから名前も覚えていたし、去年会いにも行ったのだろう。
あの時、真昼と名乗った女が、この今の自分だと知ったらどれほど失望するか。
それは、目の前で真昼を見つめる派玖斗の目の輝きを見れば一目瞭然だった。
「お前、しばらく見ない間に垢抜けた感じになったな。うん。記憶に残ってるイメージより数段可愛いぞ」
そうだろう。
二年前の私は、真昼のイメージで化粧したりしていたけれど、やはり本物には程遠い。
更に二年でますます女らしく綺麗になった真昼と比べるべくもない。
(やっぱり派玖斗さんも真昼を選ぶのね……)
その現実は、分かってはいてもショックだった。
だが、今はとりあえずこの場をどうしようかと青ざめる。
しかし摩夜の心配は藤堂がおさめてくれた。
「派玖斗さん! 何やってんですか! 急いで下さい!」
一人で出口に向かっていた藤堂が、戻ってきて派玖斗をせかす。
「あ、ああ。じゃあ、真昼、明日の夜、空けとけよ。夕飯をご馳走してやるよ。分かったな?」
派玖斗は一方的に言って、嵐のように藤堂と共に立ち去った。
「え? 御曹司からの食事の誘い? さすが今年の新入社員で一番美人と言われてるだけあるわね。すごいじゃない、真昼」
隣の受付嬢に言われても、真昼は訳が分からず立ち尽くしていた。
次話タイトルは「成り代わる真昼」です