16、母と真昼との食卓
「ねえ、摩夜。御曹司に会った?」
夕食の時間に真昼に唐突に聞かれて、私は箸を落としそうになった。
いつもは本屋に寄ったり、用もないのに街を徘徊して帰ってくるのだが、今日は久しぶりに派玖斗さんを見たウキウキ感のまま、真っ直ぐ家に帰ってきてしまった。
母と真昼と三人で囲む食卓はなんだか気まずくて避けてきたのに、やっぱり相当浮かれてしまっているみたいだ。
父はもう何年も一緒に食べた事がない。
家に帰っているのかも疑わしい。
正月となにかの節目だとか、就職などの大きな決め事がある時だけ、急に現れて自分の要求だけを決定事項のように告げていく。
たまにヒステリックな母の怒声が聞こえることがあったが、最近はそれも無くなった。
世間体を保つためだけに一緒にいるような夫婦だった。
そして母は世間体を保つという意味では完璧な人だった。
家の中はいつも綺麗に整頓されているし、食事はほとんど食べない父の分まできっちり作っていた。料理もとても上手だった。
心が通わないように感じる母だが、私は冷たい母だとは思っていない。
なぜなら、あまり好きではないだろう私にも、真昼と変わらない美味しいご飯を作ってくれているから。
食卓に置かれた私の分の食事に、私は僅かな愛情を感じていた。
洗濯も掃除も母として完璧にしてくれる。
むしろ手伝われたくないようだった。
自分の決めたやり方じゃないとイライラするようなので、家では一切家事はしない。
私は祖父母の家で家事をしつけられた。
だから私は一通り出来るが、真昼はやったことがないのかもしれない。
「あ、うん。秘書室に来たのを遠目に見ただけだけど」
「え、そうなの? どんな人? みんなが素敵だって噂してたんだけど。
いいなあ。私も見てみたい」
真昼は三人の時は、私を気遣っていつも話を振ってくれる。
お母さんは、真昼と二人の時は笑い声を交えて楽しそうに話しているが、私がいる時はもっぱら聞き役に回って私達の会話を黙って聞いている。
私はいつも、何か粗を探されているような気がして緊張してしまう。
「あ、うん。素敵だと思う。秘書室の同期も騒いでたし」
「え、やっぱりそうなの? 摩夜が言うんだから相当ね。摩夜って男の人を素敵だなんて、滅多に言わないものね」
「そ、そうだっけ?」
「そうよ。あー、いいなあ摩夜は。もしかしてドラフト会議で個人秘書に指名されるかもしれないじゃない。あーあ、私も秘書室にしたら良かった」
真昼は残念そうに可愛く唇を尖らせた。
「私が指名される訳がないわ」
「そんな事ないわ。摩夜もきちんと化粧すれば可愛いのに。ねえ、ドラフト会議の日だけでも私がメイクしてあげようか? きっと指名が入るわよ」
屈託のない真昼の言葉に、お母さんが少し眉間を寄せたのが分かった。
「ううん。私はこのままでいいから」
小六のあの日以来、前にも増して真昼に似ないように気を付けてきた。
そのために黒縁の伊達メガネをかけるようになった。
お母さんは、いつか私が真昼に取って代わろうとしてるんじゃないかと疑っている。
私は、そんなつもりはないと慎重に態度で表すようにしていた。
「なんだあ。摩夜が御曹司の秘書になったら、紹介してもらおうと思ったのに」
真昼はペロッと舌を出してウインクした。
なにをやっても憎めない。
「え? でも大学の時から付き合ってた彼氏は?」
真昼には大学時代から付き合っている同い年の彼氏がいた。
有名大学卒で、一流企業に勤めるイケメンの彼氏だ。
近辺の女子大では誰でも知ってるほどのカッコいい人だった。
付き合ったと聞いた時は、みんな羨ましがった。
「それがね、浮気してたのが分かったの。ひどいでしょ。許してくれって謝ってきたけど、やっぱり別れようと思うの」
「そ、そうなの?」
とても仲が良くてこのまま結婚するのだと思っていた。
「あの人は家柄がちょっとね……。別れてちょうど良かったのよ」
今まで黙っていた母が、珍しく口を挟んだ。
「はあ~、どうして男の人って浮気するのかしら」
真昼は高校の時の彼も浮気で別れていた。
でもそれも仕方ないのかなという気がしないでもない。
なぜなら、真昼の彼氏はいつも皆が振り返るようなイケメンばかりだから。
他の女子が放っておかないのだと思う。
そして真昼も、別れてもすぐに次のイケメンとの出会いがある。
真昼の周りはいつも賑やかで、華やかな話で溢れている。
失恋話しかない私とは全然違った。
「御曹司もやっぱり浮気するのかしら」
そういえば似鳥くんが女遊びがひどかったと言っていた。
そして確か本人も不誠実な男だと認めていた。
「浮気は……するタイプかも……」
付き合うとか結婚とかは考えたこともなかったから気にしてなかったが、そういう可能性を考えると問題ありの人なのかもしれない。
でもまずはそんなことを心配する立場になれるだけでも摩夜には羨ましい話だった。
真昼なら派玖斗さんも女性として好きになるのかもしれない。
そして大変なことに気付いた。
もう二度と会わないと思っていたからついた嘘。
私のことなど忘れているだろうと思ってついた嘘。
普段の私を見ても分からないだろうと思ってついた嘘。
でも……。
もしかして真昼に会ったなら思い出すだろうか。
ハクと一緒にいた私は、黒縁メガネの私よりも化粧をした真昼に近い。
もし覚えていたらどうしよう……。
「やっぱり御曹司も浮気するんだろうな。浮気しない男の人っていないのかなあ」
「どうせ男は誰でも浮気するんだから、それなら家柄のいい人にしなさい。離婚しても慰謝料も払えないような男と結婚しても損するだけよ」
時々会話に口を挟むお母さんの言葉は、とてもシビアな話ばかりだった。
自分の実体験から出たリアルな忠告なのだろう。
お父さんには愛人がいる。
そして最近はほとんどそっちにばかり帰ってるのだ。
そんな結婚生活だからか、娘の結婚にも条件重視だった。
「もう、お母さんってばそんな事ばっかり言うんだから。私は平凡でも温かくって愛のある家庭がいいの」
意外にも真昼の描く理想の結婚は、私と同じだった。
冷え切った両親の姿を見てきたからかもしれない。
真昼なら、その条件を満たして、さらに家柄のいい人も見つかるだろう。
夢で終わる私とは違う。
「ねえ、摩夜もそう思うでしょ?」
夢に溢れる真昼は、時々眩しくて、眩し過ぎて、私の黒い心を刺激する。
(みんながあなたのように願ったものを何でも手に入れられると思わないで)
そんな風に言い返したい私を、じっと母の目が観察している。
今度はどんな醜い心で真昼を傷つけるつもりかと見張っている。
私は我に返って、自分の醜い心に驚愕する。
そして俯いたまま呟くのだ。
「そうね……」
次話タイトルは「望まない出会い」です