15、二年前のあの日
派玖斗は結局、毎週日曜日になると大谷農園にやってきた。
しかし、五週続けてやって来たところで別れの日がきた。
まず農園のカラスはすっかりいなくなって、鷹を飛ばす必要がなくなった。
次に私の春休みが終わって、来週から大学が始まる。
そして派玖斗も仕事で海外に行くことになったと言っていた。
「うー、くそっ! もう少しでハクを腕に乗せられそうなのにな」
うそだ。
ハクは相変わらず派玖斗さんに悪態をついていて、気を許す気配はない。
でもリュウは乗るようになって、上手に飛ばせるようになっていた。
ただ、派玖斗さんは、ハクの低空からグンと空に舞い上がる飛翔に憧れていた。
どうしても自分でハクを飛ばしてみたいのだ。
「ハクは諦めて下さい。おじいちゃんにも懐かないんですから」
「なんでお前だけ乗るんだよ。そんな貧弱な腕より俺の方が安定いいのに」
「見くびらないで下さい。これでも小六から毎日訓練してたんですから。鷹は腕がぐらぐらすると、それだけで疲れてストレスを感じるんです。だから私は毎日腕に水の入ったカップを置いてこぼさずに歩く練習をしてたんです!」
「マジでか? すげえ執念だな」
「今ではなみなみ入ったコップでも腕に乗せて走る自信があります」
胸を張る私に、派玖斗は、半ば呆れたような顔をしている。
「ハクはね、若鳥として日本のブリーダーに買い取られた時もエサを食べるのを拒否したの。ホントに頑固でプライドが高くて、誰にも心を許さない孤高の鷹だったの」
「ふーん。面倒なヤツだな」
派玖斗は自分が似ているとは気付いていない。
「祖父はリュウを育ててからブリーダーさんの信頼が厚くてね。若鳥の鷹をしつける仕事も請け負ったりしてたの。ハクも、手を焼いたブリーダーが祖父にダメもとで依頼してきた鷹だったの」
そしてちょうどその時大学の夏休みだった摩夜がつきっきりで世話をしたのだ。
「祖父ですら全然エサを食べなくて、これはもうダメだって言われてたのよ。普通の動物って食べる事の欲望には負けるでしょ? でも鷹の中には自分のプライドのために最後まで食べる事を拒否するストイックな頑固者もいるのよ。ハクはまさにそんな鷹だったの」
「ふーん、ちょっとカッコいいな」
派玖斗はますますハクが気に入ったようだ。
当然だろう。似ているのだから。
たった五回会っただけの人だけど、派玖斗にも自分の信念のためなら断食して死を選ぶような意志の強さを感じていた。
「祖父も諦めて、もう死を待つばかりになったんだけど、私はどうしても諦められなくて、世話をさせてくれって頼んだの。部屋に止まり木を渡して、一日中そばにいたわ。やせ細った体で、もう体力なんて残ってないくせに、真っ直ぐ前を見据えて身じろぎもせずに木に止まる姿がまた素敵でね。なんてカッコいいのかしらって思ったの」
その時にはすっかり恋に堕ちていた。
その生き様に。
意志の強さに。
崇高なたたずまいに。
生物の種を越えて、私は恋したのだ。
こんな風に強く生きられたら。
何者にも左右されず。
自分の意志だけを貫いて……。
「俺もそんな風に生きたいな……」
羨ましそうに呟く派玖斗には、そうは生きられないジレンマのようなものを感じた。
(この何でも思い通りのような人でも私と同じようなジレンマがあるのね)
そう思うと、派玖斗がとても近く感じた。
そしてハクに恋するように、派玖斗にも淡い恋心を抱いた。
「でもそんなハクが、よくエサを食べてくれたな」
「うん。今でも奇跡だと思ってるわ」
ハクはついに力尽きて落鳥したのだ。
落鳥とは、鳥の死を意味するが、文字通り止まり木から落ちるのだ。
止まり木から落ちた鳥は、まず回復することはない。
落ちたと同時に死んでる場合もあるし、まだ息があっても、もう死は近い。
真夜中にバサッという音で目が覚めた。
慌てて明かりをつけると、止まり木の下に横たわるハクがいた。
「ハクッ!!」
私は夢中でハクを腕の中に抱き締めた。
体に触られる事を嫌がっていたハクは、されるがままに私の腕の中で浅い呼吸をしていた。
そしてゆっくりと脱力して……。
間違いなく、あの時ハクは死んだのだ。
でも私は諦められなかった。
だから涙でぐしゃぐしゃになりながら懇願した。
「お願い行かないで。私を置いて行かないで。
ハクが必要なの。もう何も望まないから。
あなたが生きて私のそばにいてくれるなら、もう何も望まないから。
あなたさえいれば、どんなに苦しくてもちゃんと前を向いて生きるから」
だから私を置いていかないで……。
神様、お願いします。
他のすべての願いを諦めますから、ハクを返して下さい。
――そして奇跡が起こった――
今もあれはとても不思議な力によっておこされた奇跡だと思っている。
抱き締めたまま泣きじゃくる私に声が聞こえた。
『もう泣くな』
驚いて腕の中を見ると、息絶えていたはずのハクが私を見ていた。
『カッコよく死んでやるつもりだったが、気が変わった。女にここまで頼まれたら見捨てるわけにもいくまい。仕方がないからお前のそばにいてやる』
もちろんハクの嘴から聞こえる声ではない。
ただ、私をじっと見つめている目が、そう言っている。
不思議なほどハッキリと分かった。
「ハク……」
『とりあえず、いい加減腕を放してくれるか? そんなに強く抱き締めたら苦しいだろうが』
「あ、ご、ごめんなさい」
私は慌てて腕をほどいてハクを止まり木に降ろした。
ハクはやれやれという顔で、ブルッと体を震わせてからチラリと私を見た。
『おい、腹が減った。生きろというなら、早く食い物を持って来い』
「あ、ご、ごめんなさい。すぐに用意するから」
はたから見ると私が一人でしゃべってるようにしか見えないが、確かにハクと会話していた。
その証拠に、ハクは私が差し出すエサを素直に食べてくれた。
そうしてみるみる回復したハクは、私の差し出すエサしか食べず、私の手にしか乗らなかった。周りから見ると、まるで私がしつけて言いなりにしているように見えるかもしれないが、実際はまったく逆だった。
私がハクの命じるままに動いていたのだ。
『おい、手に乗ってやるから出してみろ。まっすぐ水平にしてろよ。ぐらぐらしたら二度と乗ってやらんぞ』
といった感じだ。
結局、回復はしたけれど、ハクは私にしか懐かなかったし、私はもうハクを手放すなんて考えられなかった。だから祖父に頼んで私専用の鷹としてブリーダーさんに譲ってもらう事にしたのだ。
自分専用の鷹はシロオオタカがいいと言ってたけれど、ハクは普通のオオタカだった。
でも、もうそんなことはどうでも良かった。
私はハクがいいのだ。ハク以外考えられないのだ。
誰にもこの話をしたことはなかった。
祖父にも気が変になったのかと思われるかもしれないと詳しく話してはない。
ただ、ハクの気持ちが手に取るように分かるとだけ言っている。
でもハクにそっくりな派玖斗さんには話してもいいような気がした。
だから話してみた。
そして。
派玖斗さんはバカにするでもなく私の話を黙って聞いてから、こう言ったのだ。
「分かる気がする。俺もこいつの気持ちが分かるんだ。初めて会った時から、不思議な感じがしてたんだ」
私はなにか深い所でハクと派玖斗さんが繋がっていて、私もハクを通じてつながっているような気がしていた。
でもそれはこの先の人生で縁があるとかではない。
派玖斗さんの心にはハクだけが残って、私はいずれ忘れ去られるだろう。
それでいい。
多くを望まないと決めている。
ただ。
五回会っただけの、この日々を私は生涯忘れないだろうと思った。
きっとハクの化身のようなこの人に出会えたのは、神様のご褒美なのだ。
人との絆が築けない私に、僅かな幸せを分けてくれた。
それだけで充分だった。
もう会うことはない。
だから別れ際に彼が尋ねた言葉に嘘を言った。
「そういえば、名前を聞いてなかった。お前、なんて名前だ?」
「行方……真昼です」
もう会うこともない彼に、暗く惨めな過去を背負う私ではなく、幸せの象徴のような清らかで輝かしい名前で覚えていて欲しかったのだ。
次話タイトルは「母と真昼との食卓」です