また、一つ
瑞樹の発言の後しばらく、俺は何も言いたくない気分になってしまった。他のみんなも同じらしく、リビングは言いようもないような気まずい沈黙が支配した。
そんな折
「すまなかったよ」
唐突に、それを言いたくなった。
「真人くん、悪かった」
「え? いや、別に……」
「俺はさ、友人の誰も、文彦を殺したようには思えないんだ。みんなそんな奴じゃないってね? だから君がやったんだって言ったわけだけど、別に君だってそんなことする風には見えないんだよな。だからさ、ごめんよ」
それだけは、言わなければならないと思った。
「あんな状況なら、誰だって僕を疑いますよ。あんなに僕を庇う姉さんだって、僕が無実だって確信できる根拠があるわけじゃあないんです。僕は自分の事を無実だって言いますけど、それを知っているのは僕だけなんですよ」
真人くんはそう言って肩をすくめる。
「僕が犯人だとしたら不自然な事は沢山ありますけど、それも説明がつかないってほどじゃあ無い。例えば鍵がかかっていた事だって、秋元さんが何かの気まぐれで閉めていたのを僕が気がつかなかったってだけかもしれない。殺した後で気がついたけれども、開ける方法が分からなかったって言うんなら、自分の頭を打って被害者の振りをしようとしたとしてもおかしくない。絶対にないような事じゃあない」
自分で自分の不利な発言をする真人くんはどこまでも客観的だ。最初の話では真人くんは文彦よりも後に寝たと言っていたのに、その前提を無視するような論調で話が進んでいる。それは、その話が彼の主観であり、事実を確かめる手段が俺たちにないためだろうと考えられる。
「姉さんならこう言いますよ「そうで無い、は悪魔の証明だよ。根拠を出す事なんて出来ないね」」
何となく、やはりお姉さんと似ているなと感じた。
「なるほど。確かに言いそうだ」
ほんの僅かな付き合いだけれど、その感覚は理解できた。
◆
浩介は昔から早とちりが多く、思い込みが激しい性格ではあるが、頑固でも融通がきかないわけでもない。ほんの少し真人くんと話すと、先ほどまでの険悪な空気は瞬く間に溶けていってしまった。
「良かったよ。正直、怒鳴り合いも嫌味の言い合いも気分が良いものじゃない」
「悪いな大輝。それはそうと、少し落ち着いたついでにホットミルクが飲みたくなった」
それは、まだ文彦が死んでいるなんて知らなかった時にした約束だ。
「淹れてくるよ。待ってな」
できるだけ明るく聞こえるように心掛けたが、口から出た声は震えていて、もしかしたら強がっている風に聞こえてしまったかもしれない。
さてホットミルクとは、ただ温めただけの牛乳のことではない。甘い味をつけるために工夫をするのが普通だが、俺の場合使うのはマシュマロだ。
マシュマロの原材料には砂糖が含まれているため甘さは充分。メレンゲとして使われている卵白は低カロリーだし、味にまろやかさを出せる。女性なら美肌効果も見逃せない。
俺はレンジを使わない。あまり熱心に料理をする方ではないが、これだけは鍋で温めた方が美味しい。
「待たせた」
色違いのマグカップに三つ。トレーに乗せてミルクを運ぶ。
「みんな飲むと良いよ。温かいうちに」
「……悪いな」
「ありがとうございます」
瑞樹は返事をしなかった。
自分の分のミルクは用意しなかった。特に理由があるわけではないが、強いて言えば飲むと眠くなってしまうから。
「なあ大輝」
早々にカップ一杯を空にした浩介が話しかけてくる。
「なんだよ?」
「いやな、真人くんと話してたんだけどさ、結局どういうことだと思う?」
「……それは、文彦の事だよな?」
もっと言えば、殺害について。
「ああ、文彦はなんで殺されたんだと思う?」
「ああ……そうだな」
それは、金岸さんとの口論でも出ていた話題だ。動機というのは、警察の捜査の上で最も基本的な捜査方針だと聞いたことがある。つまりは、多くの事件は動機という根拠から犯人を探すのだ。
「なんでも何も、そんな事は考えても無駄だと思うね。例えば逆恨みとか、勘違いとか、そんなんだったら無関係な俺たちに分かるはずないだろ?」
「まあ、それもそうだけどさ、分からないかもしれないけど、分かるかもしれないだろ? 誰か何かないのか? 歯痒くって仕方ないよ」
「……あの」
控えめな声で、弟くんが目を泳がせている。
「あの……決して、故人を辱めるためじゃあないんですけど……もしかしたらって思うんです。いま、思い出しました。何で忘れてたのかな……」
「どうした? 何かあるのか?」
弟くんは昨日、文彦と同室だった。なら、何か聞いていたとしても、なるほど不思議じゃあないのかもしれない。
「あの、昨日部屋に入った後も、僕と秋元さんは部屋で少し飲んでたんです。僕はお酒があまり好きじゃないので、ほとんど秋元さんが飲んでただけなんですけど……それで、秋元さん酔っぱらっちゃって……」
「文彦が酔った! 意外だな。今まで見た事ない」
「はい、松前さんにもそう言われたんですけど。で、その時、秋元さん……「人を殺した」って言ってたんです」
なるほど、空気が凍るとはこういうことを言うのだ。誰も言葉を発しず、ピタリと弟くんを見ている。それは凝視するといった風のものではなく、偶然弟くんに視線の集まったその瞬間に時間が止まってしまったような、そんな感じだった。
「……つまり」
ようやく、浩介が声を出す。
「動機は、あったと?」
「分かりません。ただ、もしかしたら何かあるのかもしれない、と」
「……え、それは」
先程までだんまりだった瑞樹が、こればかりは我慢できなくなって会話に入ってきた。
「ついさっきとか、そう言う意味じゃないのよね? 今さっき殺してきたって言うことじゃ……」
「如何せん酔っ払っている時の言葉なのでハッキリとはしませんが、何となく過去の出来事なんじゃあないかと感じました。あくまで僕が感じた印象ですけれど」
「馬鹿馬鹿しいよ!」
これは、止めなくてはならないと思った。自分らしくもない大声を出して、俺は強引に話を終わらせようとする。
「文彦だよ、あの。人を殺すなんて……信じられないじゃあないか。酔っておかしな事を口走ったか、あるいは弟くんの虚言だと俺は言い切れるよ」
「どうしたんだよ大輝。落ち着けよ」
「落ち着いてるさ。君たちこそ落ち着いた方がいいね! 一見して冷静なようでも、その内にああだこうだ言い合って、また金岸さんとの事みたいになるよ」
瑞樹も、浩介も、完全に黙り込んだ。少し言い過ぎたかもしれないが、言わないわけにはいかなかった。
「……すみません。僕が迂闊な事を言ってしまったばかりに……」
「いや、いいんだ。確かに俺も、ちょっと過剰反応かもしれないけどさ」
「そんな事ないですよ。友人が亡くなったのなら、多少過激になるのも仕方ないと思います」
「はは……ありがとう」
場の空気が悪くなってしまった。誰も話さないし、物音一つ立てない。
「悪いけど、俺は部屋に戻るよ。実は体調が優れないんだ」
「……ああ、はい。お大事に」
「警察が来たら呼びに行くよ」
「気をつけてね」
みんなが気を使った事を言う。正直、息苦しさしか感じない。返事の代わりに軽く手を振り、あとはまっすぐ部屋に戻った。念の為、鍵をかけるのを忘れてはならない。
◆
「あの……」
前をスタスタと迷いなく歩く愛子さんについて行くため、私は早足になる必要があった。バサバサと雪をかき乱しながら歩いていたものだから、腰から下には雪のかかっていない場所など存在しないと言った有様だった。
「愛子さん! もっとゆっくり!」
「なんだいなんだい、だらしない。ついてくると言ったのは君だろう」
「そうですけど……」
愛子さんは外に出てから、何度も屋敷の周りを周回している。時に方向を変えて逆回りで、時に距離を話して大回りで、それを何度も繰り返している。
「これは一体、何をしているんですか? 何か、大事な事なんですよね?」
「ああ、大事だ。そうだね、簡単に言えば距離を図っている」
距離?
それだけでは何のことか分からないが、愛子さんはさらに詳しく話してくれた。
「二階の廊下は、端っこの部屋から反対側の階段まで一直線だ。その距離と、屋敷の長さを調べれば隠された部屋や道の有無を調べる事が出来る」
「なるほど!」
事前情報も道具も無しに見つけようとしたならば、それはしらみ潰し以外に方法はない。更に、もしも隠し部屋などなかった場合は、ただ延々と探し続ける事にすらなりかねない。だが、もし隠し部屋の様なものがあるということだけでも分ったなら、少なくとも無駄に探す様な事は避けられるという訳だ。
「それで、どうだったんですか?」
「分からないね」
「え……」
あっけらかんと言ってのける愛子さんに、私は間の抜けた声を出してしまった。
「廊下と屋敷の長さには五メートル程の差が存在する。これは壁の厚さも考慮してのものだ。この五メートルが恐らくは開かずの間の大きさだろうから、今の所一見して無さそうだとしか言えないね。もしかしたら、壁の厚さとかを調整して屋敷の中にほんのわずかな隙間を作っている可能性もあるけれど、これは部屋を一個ずつ丁寧に採寸するしか見つける方法は無いね。そんな時間、ありはしないけれど」
「そう……ですか」
肩を落とした。目の前に現れた光明は、一抹の幻覚に過ぎなかったのだ。
諦めきれないのか、それとも何か他の考えがあるのか、それでも愛子さんは足を止めない。ただただ屋敷の周りを歩くだけの行動の意味を理解できないまま、私はその後ろをついてまわる。
「ところで……」
しばらくすると、愛子さんが再び足を止める。その声色は先程からと変わりないものだが、私にはそれが落ち着きからなのか諦めからなのか判断がつかない。
「あれ……分かるかい? あの窓のやつだけれど」
愛子さんが指をさすのは、二階の突き当たりの部屋にある窓のことだ。
この屋敷はその部屋以外に窓はないが、しかしならばその部屋が普通なのかと言われれば、私は強く否定する。外から見れば瞭然だ。窓枠の周りには、大小様々な不気味な像が飛び出しているのだから。
「あの……黒いヤツですか?」
山羊のようなツノ、牛のような顔、人のような身体、そして蝙蝠のような翼を持つ不気味な生物が、上半身だけを壁から突き出しているような見た目のオブジェだ。
「昨日、来る時には暗くて気がつかなかったけど、なんであんな物があるんだい? 見た所、あの部屋の窓には全部ある」
突き当たりの部屋には、全部で三つの窓がある。私は入った事がないので実際に内側から見たわけではないが、外から見る限り、部屋に入って正面と左右の壁に一つずつ窓があるはずだ。
「秋元くんは魔除けだって言ってましたけど……」
「むむ、魔除けねぇ……」
愛子さんは首をかしげる。
「あれはガーゴイルと言って、本来雨樋の役割を果たす物だ。ノートルダム大聖堂の物なんかが有名だね。ただ、あれに魔除けの役割なんてあったかな?」
先程までの不可解な行動と全く関係性の見えない言葉に、私は困惑してしまう。しかし、昨日から彼女を見ていると、それはむしろ彼女らしい事として納得する事もできる。
これはきっと、気分屋とか、マイペースとか、そう言う風に表現されるものだろう。それも非常に極端な。
「なあ、その木がなんて種類か知っているかい?」
そんな事を考えているうちに、愛子さんはまた違う話を始める。
「さあ? 私はよく知らないです」
「随分と建物の近くまで生えているね。こんなにも密集しているのなら、昨日この建物を見つけられたのは非常に幸運だったな」
愛子さんの言う通り、屋敷の壁のすぐそこはすぐに森になっている。見上げれば、その丈夫そうな枝が屋敷の壁を擦ってしまいそうなほど近くまで迫っているのが分かる。
——?
「何やってるんだ遅いぞ」
愛子さんは、私が屋敷を見上げている間に先に行ってしまいそうになっていた。
「待ってくださいよ!」
壁を見上げていたために感じた違和感。それを気にする間も無く、私は愛子さんを追いかけなくてはならなくなった。
一体何に不自然さを感じたのか。何かである事は確かなのだが、何かは判然としない。しかしこれを捨て置いたのは、間違いなく過ちであると、私はすぐに思い知る事になる。
◆
マツサキくんが部屋に戻った後、誰も何も話さない息苦しい時間だけが流れた。目の前のマグカップに半分ほど残ったミルクはすでにぬるくなってしまい、真っ白な湯気も香ばしさも失ってしまっていた。
ほとんど身動きせず、声も出さない中で、頭ばかりは動かさないわけにはいかず、意図してではなくともあれやこれやと考えてしまう。それは、今この場にいる二人も同じだろう。
やはり、幽霊ではないだろうか。
自ら出し体験ではあるが、それが荒唐無稽である事は重々承知している。ただ、誰かを犯人なのではないかと疑うことがこれ以上なく苦痛だったのだ。
だったら、幽霊のせいにでもする方がマシじゃないか。
逃げ出したかったのだ。疑心暗鬼に飲まれてしまうことから。間違いなく自分以外の五人の中に犯人がいるのは分かっている。しかし、ミステリドラマの当事者になるのは全くのごめんだ。私には、警察が犯人を捕まえた後で「まさかあの人が」なんてインタビューを受けている隣人役がぴったりだ。
なのに……
頭がどうにかなりそうだった。泣き叫んでベッドに倒れ込めたらどれだけいいだろうか。子供の頃のように、泣いている間に大人が全部解決してくれたらいいのに。実際に解決すべき警察は未だこの場にはいない。
息が、苦しく
心が、痛く
身体が、震える
まともな精神状態にはないと、自分でもハッキリと把握できる。
——そんな私に、追い打ちをかける出来事が起こった。
「————!」
それは悲鳴だ。
俯いて床ばかりを眺めていた私でも顔を上げざるを得ず、離れた場所に座っていた二人と目を合わせた。
「外からだったな」
「そう聞こえました」
二人は一言ずつの簡単な会話をすると、転ばないことが奇跡なのではないかと言う勢いで玄関に走った。
「待ってよぅ!」
一人になるのが恐ろしく、私にはついて行く選択肢しかない。
戸を開けて一歩外に出たところで、私は足を止めた。靴を履くのに手間取った私は出遅れてしまったが、二人はそこで立ち往生していたのだ。
「なんだこれ」
カキモトくんが足元を指差す。
それは、端的に言えば足跡だった。しかし一定方向に向いているのではなく、玄関から出た物、右からきて左に行った物、左からきて右に行った物が幾重にもなって、一体どの方向に出て行ったのか判別がつかない。
何の目的でこんな不可解な足跡を残したのだろうか。
「とりあえず僕は右へ」
言うが早いか、弟くんは右手へと駆け出す。この建物は出てすぐ右へ行くともう端っこなので、壁沿いに進んでいった彼の姿はすぐに見えなくなる。
「なら左に行くよ」
カキモトくんは弟くんの言葉を聞くと、間髪入れずに反対方向に駆け出す。
悲鳴の主を探して即座に手分けをする手筈をとった二人の迅速さは頼もしい反面、二人して私を置いて行ってしまうものだから大いに慌ててしまった。
「何があった!」
どうしようかと立ち往生していると、背後から声がかかった。マツサキくんだ。二階の部屋へ帰っていた彼は、何らかの異変を感じて一階へと駆け下りてきたらしかった。
「分からない! 悲鳴が聞こえたの。マミちゃんの声だったかもしれないわ!」
「落ち着けよ。慌てたって仕方ないだろ」
話しているうちに、恐ろしくて涙が溢れてきた。喉が震え、自分でも信じられないほどヒステリーな声になった。
マツサキくんは状況を全く理解していないらしく、私の肩に手を乗せて必死に話しかけてくれた。それで幾分かは落ち着くことができたのだけれど、しかし私が知っていてマツサキくんが知らないことなど、悲鳴の有無以外にはないのだ。きっと要領を得ないと思われたに違いない。
「こっちです!」
その声は、弟くんのものだった。彼は屋敷の右手からひょっこりと顔を出す。
「こっちに! 垣本さんも来てください!」
今、駆け出していったカキモトくんが、その声を聞いて慌てて戻って来る。
私とマツサキくんも、弟くんの方へと駆ける。
「……あ!」
何事なのか、弟くんは急に声を出した。その表情は、「しまった」と表現すれば正確に伝わるだろう。
「鈴里さんは来ない方がいいです……」
弟くんは名指しで、そんなことを言うのだ。
「何で……? 人手なら、多い方が良いでしょ?」
「いいえ、そうではなく……」
「私がいるとまずいの?」
「いると、と言いますか……」
嫌な予感がした。そしてその予感は、まず間違いなく当たりだろうと直感した。弟くんの行動は、一分一秒を争うこの状況下において、私を貶めようという類のものではないと分かっていた。
「私が……見たらいけないもの……?」
ようやく、その言葉を口にする。してしまう。雪山の寒さとは全く関係なく、体は震えが止まらなかった。
「……はい」
言葉を聞くか聞かないか、と言うタイミングで、すでに私は走り出していた。
否定して欲しかった。杞憂であって欲しかった。
しかし、事実は残酷に、その場所に横たわっていたのだ。
「マミちゃん……っ」
場所は玄関のちょうど裏。建物の裏手の踏み荒らされたその雪の中に、私の一番の親友が横たわっていた。銀世界の中に広がる紅色は、“それ”がもう起き上がっては来ないことの証明だった。
大城真美は、間違いなく死んでいた