免罪
「一体、何があったんだ」
姉さんが僕に問いかける。いつになく優しいその声は、いつもの僕を小馬鹿にしたものとはかけ離れている。まるで母親のようだと思った。
そのお陰だ、僕が血の気が引きつつも、ある程度の落ち着きを取り戻す事ができたのは。
ただ……
「……実は分からないんだ」
「分からない?」
松前さんが聞き返す。
現在、二階の秋元さんの部屋から離れ、昨日集まっていた一階のリビングにいる。唯一遺体を見ていない垣本さんを含めて、全員が僕の言葉に意識を集中していた。
「分からないって事はないだろう。君は一晩中同じ部屋で寝ていたんじゃあないのか?」
「確かにその通りですけれど、僕も危害を加えられたので、例えば相手がどんな顔だとか、体格はどうとか、そんなのは全く分からないんです。朝まですっかり気を失っていたようで……」
僕は頭の傷を押さえる。軽く、ほとんど無意識だった。もう血は止まっている。
「まさか……じゃあ、いつ頃かとか……」
「……すいません。ただ、空はもう明るんでいたように思えます」
灯の付いていない室内で目撃した犯行は、天窓から漏れ出た光に照らされていたに違いない。でなくては見えるはずなどないのだから。
「それ以外は何も?」
「はい……何も」
情けなかった。目の前で人が殺されて、ただ何かを覚えている事すらも出来ない自分が、ただただ情けなかった。申し訳なさに押し潰されそうになって、恐ろしく息苦しかった。
「何もって事はないだろう」
垣本さんが僕に詰め寄る。
「何があるだろ。何か一つでも! 自分だって襲われてるんだろ!? だったら、相手の顔を見ないはずないじゃないか!」
友人を殺された彼は酷く動揺していて、僕に大量の言葉を浴びせる。それは紛れも無い正論であり、僕は謝る事しか出来なかった。当然、それで彼の怒りが収まるはずはない。
仕方のない事だと思った。彼の言う言葉は確かにその通りで、本当ならもっとひどい罵声を浴びせられても文句は言えない立場なのだと、そう感じていた。
しかし、次の瞬間に、僕の重々しい精神は解放されたのだ。自責の念から
「黙れよ」
静かに、しかし力強く放たれたその言葉は、すぐさまその場を支配した。全ての瞳が、姉さんの方へと集まっていた。
「……相手が凶器を持っていた場合、意識がその凶器に向く為、犯人の顔を覚えていないといった事例は数多く存在する。被害者からの証言で人相書きが作れない為、捜査が難航したりするそうだ」
その言葉は、間違いなく僕の擁護だ。普段はいつだって偉ぶった態度をとる姉さんが、僕のためにフツフツと怒りを滲ませていた。
「だから、黙れよ」
「い……いや! 納得できない!」
それでも、垣本さんは食い下がる。
「親友が殺されたんだ! 覚えてませんと言われて、はいそうですかとはいかないよ。被害者だって言うんなら、何でも良いから思い出してもらいたいね!」
「回りくどいな……! 言いたい事があるのならハッキリと言いたまえよ!」
僕はきっとこれからの人生の中で、今日この時ほど怒っている姉さんを見る事はないだろう。姉さんの身体は今にも震え出しそうなほど力んでいて、強張っていない場所など存在しないのではないかと思えた。
「なら言うけど!」
垣本さんが机を叩く。僕は驚いて肩がビクついてしまったが、姉さんは微動だにしていない。ただ据わった目で垣本さんを見ているだけだ。
そして、次の瞬間だ。僕は姉さんが何故そんなに怒っているのかを理解する。
「弟くんがやったんじゃないのか!」
驚くべきその言葉によって。
「え……」
僕は返事をする事ができなかった。
「そう考えるのが自然だろ? 鍵は開かない、中には二人、だったらもう一人がやったに決まってるんだ。他にできる人間はいないんだから!」
「状況証拠だな。それこそ納得出来ない。つまり真人は、自分以外犯人たり得ない状況でわざわざ犯行に及んだと、そう言うのかい? きっと現存する人類の中で最も間抜けな男でもそんな事はしないだろうさ」
なるほど、僕はただ責められているわけではなかった。疑われていたのだ。それをようやく理解した時、僕の中には言いようもない不安感が押し寄せてくる。
「じゃあ君は、俺たちの中の誰かが壁をすり抜けて文彦を殺したって言うのか? 納得出来ないとしたらそっちの方だろう!」
そう、垣本さんの言う通り、現時点で最も疑わしいのは僕なのだ。僕以外の誰にも犯行が行えなかったと言う事実は、僕自身ですら反論する事ができない。
「そもそも真人だって襲われているんだ。真人、額の傷を見せておやりよ。医者じゃなくたって怪我してるかどうかくらい見たら分かるだろう?」
「どうだろうね。自作自演ってこともある。信用できない!」
「動機は何だって言うんだ? 昨日会ったばかりの私達なんかより、君たちの方が何か思うところがありそうなものじゃあないか。前々から計画していたとしたら、当然何らかの用意も出来ただろうね。例えば密室殺人とかのさ」
何も言い返せない僕の代わりに、姉さんがどんどんと反論していく。しかし、垣本さんも口をつぐむ気はないようだった。
「何らかって言うのは、一体何だって言うんだ! あやふやな言葉でケムに巻こうったってそうはいかない!」
「あやふやなのが駄目って言うのなら、まず君からハッキリさせたらどうだね? 真人がこんな明らかな状況で殺人に及ぶ訳と、動機をハッキリ言い当ててごらんよ」
「動機は無数に考えられる。例えば、君たちが実は文彦と知り合いで、訳あって初対面のふりをしていたとか。酒を飲んでいるときに喧嘩になったとか。けれど、壁をすり抜ける方法はとても思い浮かばないね。是非とも納得のいく例えを出してもらわなくちゃあさ!」
「そんなのは……」
永遠に続くかと思われたその口論も、実際には長く続く事はなかった。それを遮り、声が挟まったからだ。
「幽霊よ!」
それは鈴里さんだった。
全員の目が、今度は彼女の集中する。
「だって、お化けなら壁だって関係ないわ! 居るんでしょここ? きっと呪われてるのよ!」
それは、その場の空気を破壊する言葉ではあったが、僕としてはむしろありがたかった。ため息混じりの姉さんと垣本さんは、わざわざ言い争いを再開しようとしない。
「……はぁ」
姉さんはため息を一つ。
「取り敢えず、警察には早急に連絡しなくてはね」
「当たり前だ。文彦の体をいつまでもそのままになんて出来ない」
秋元さんの部屋は、刑事ドラマでよく言われる「現場を荒らすな」と言う鉄則よろしくできる限りそのままを維持している。初めに全員で踏み込んでしまいはしたものの、遺体には触れていないし部屋の中の物を動かしたりもしていない。素人なりに現場保存には努めたつもりだ。
ただし、それはつまり遺体を弔わずに放置していると言う事だ。とてもではないが気分がいいものではない。
「真人、ついて来なさい」
「え、何?」
松前さんが警察へ通報している中、姉さんはそんな事気にも止めずに部屋を出る。外ではなく、屋敷の奥に向かってだ。
その行動は突発的で、前触れなど何もなかったのだが、僕は一々異を唱えたりしない。正直のところ、姐さんの行動は大体が突発的だからだ。全てに口を挟んでいたらきりが無い。
「待ってよ」
部屋を出たところ、僕たち以外の全員が離れたその場所になり、ようやく姉さんは立ち止まった。
「二階だ」
僕にしか聞こえないよう小声で、姉さんは話し始める。
「秋元くんの部屋に行く。調査だ」
姉さんはそんな、驚くべき事を口走った。
◆
姉さんは言葉通り、二階の事件現場——秋元さんの部屋の前まで直行した。
「私はね、心底腹が立ったよこのままでは、本当に犯人にされかねない」
腕を組み、眉間にしわを寄せ、姉さんは言葉の通り大層ご立腹のようだ。
「さっきは垣本君にああ言ったわけだけれど、正直今のお前は最有力容疑者だよ。警察の調査っていうのがどれくらい熱心に行われるのかは知らないけれど、ともすれば工場の流れ作業みたいに捕まってしまうかもしれないね」
「そんな……!」
「困るだろう? だから調査だ。部屋の物を動かさないように、触らないようにとなれば効率的とは言えないけれど、やらない訳にはいかない」
姉さんはハンカチを取り出し、ドアノブを覆ってから扉を開いた。言うまでもなく、余計な指紋を残さないためだ。
「急げ真人。いたる所を写真に収めるんだ。そうしなければならない」
正直、足取りは重かった。そこはつい先ほどまで僕が熟睡していた部屋に間違いはないが、今現在したいの眠っている場所なのだ。そこへ立ち入る事が、まさか気分の良いものであるはずがない。姉さんに急かされなければ、僕はずっと部屋の前で立ち往生していたかもしれない。
当たり前だが、そこは僕が寝ていた時と何も変わらない様子だった。わずかに日が高くなり、部屋の中が明るくなった以外は、全く完全に同じ状態だ。唯一光を取り込む天窓は、どうやら一角だけ積もった雪が崩れているらしく、そこから日光が一筋秋元さんの枕元に差していた。
「ぼうっとしていないで、さあ」
姉さんはスマートフォンをしきりに連打している。遺体を目の前に物怖じしないその度胸は、一体家族の誰に似たのだろうか。
僕は出来るだけ遺体を視界に収めないようにして、部屋の小物を撮る事にした。カバンの中に入っていたデジタルカメラに入れられたスキー場の雪景色のデータの後に、殺人現場の調査資料が上乗せされていく。
「見ろ、やっぱり喉だ。きっと叫び声を上げさせないためなんだろうな」
遺体と、その側に落ちているナイフを見比べて、姉さんはそれを写真に収めていく。血液が大量に付着したそのナイフは、まず凶器とみて間違いはない。胸元にも大きな傷跡があるが、首からの出血の多さから見て、その傷がついた時点では心臓が動いていたのだろうと思う。素人考えではあるが、おそらく初撃は首の傷だろう。
「おい真人。そんなもの撮ってどうするつもりだよ。真面目にしたまえよ、お前のためだぞ」
僕が壁に掛けられている奇怪な絵を撮っていると、姉さんが背後から不満げに声をかけてきた。
「だって、何が必要になるか分からないじゃないか」
「全部を撮る事が出来ないことくらい分かるだろう? だったらある程度取捨選択する事だ」
時間にしたら、それは十分ほどだっただろう。なにせ僕たちに残された時間は警察が来るまでしかないのだ。
「ほら真人、忍び込んだ事がばれないうちにトンズラしよう」
姉さんのその言葉を合図にして、そそくさと部屋を後にした。あとは何気無い顔で一階のリビングに戻るだけだ。
「……姉さん?」
一階に降りる階段の前。姉さんは腕を組んで立ち止まる。
「ちょっと考え事がね」
姉さんは時折、さっきまでしていた事よりも今思いついた事を優先する時がある。テレビを観ながら「トイレの電気を消し忘れた」と言って席を立ち、テレビを見ていた事を忘れて自室に戻ることなどしょっちゅうだ。
ただ、今は忘れられては困る。そもそも急げと言っていたのは姉さんだ。
「早く戻ろう、姉さん。考え事ならリビングでも出来るだろう?」
「あぁ……ああ、そうだな。急ごう」
◆
「随分と遅かったじゃあないか」
戻るや否や、垣本さんに睨みつけられた。彼にとって僕は、親友殺しの最有力候補なのだ。多少態度が辛辣なのは無理からぬ事だろう。
「おいよせよ、感じ悪い」
対して、松前さんはそうではないらしい。彼は落ち着いて僕たちに「すまないね」と謝罪する。
「仕方ない事です。多少気が立っても」
「そう言ってもらえると助かるよ。別に悪いやつじゃあないんだ」
それはよく知っている。たった数時間程度だが、昨日は彼らと飲み交わした仲なのだから。
「ところで君。警察の方はどうだったね? 到着には、どれくらいかかる?」
姉さんは、剣呑な垣本さんの態度などどこ吹く風といったように割って入る。
「あぁ、どうやら昨日の吹雪で道が塞がってしまったらしくて、時間がかかるそうなんだ。一時間くらい」
「ああそうかい、それは困ったね」
そう言いつつも、姉さんの口元は緩んでいる。ゆっくりと推理に勤しめるじゃあないかという心の声が、僕の耳元で聞こえるようだった。
「なら、お巡りさんが来るまでの間、私は散歩にでも出かけるとするよ。あまり遠くにはいかないから、何かあったら呼んでくれ」
上機嫌でそんな事を話す姉さんに、僕は驚きを隠せなかった。なにせ出不精なあの姉さんだ。機嫌よく室外へ出るなんて、僕には考えられない事だ。
「ちょっと待てよ」
姉さんが扉に手をかけたその瞬間だった。その背中に声がかかった。不愉快さを隠しもしないその声に姉さんは答えなかったが、足を止めてゆっくりと振り向いた。目はわずかに細められており、口元には力が入っていない。姉さんが最も不機嫌な時の表情だ。
「浩介……っ」
松前さんが、咎めるように口を挟む。
「ダイキ、これは言わせてもらうよ。ここまで来たなら、俺は最後まで言わなきゃ気が済まない」
「勿体つけるね。言いたい事があるならハッキリと言いたまえよ。これは二度目だぞ?」
一時はうやむやになった言い争いが、再び始められてしまった。
「外には出ないでくれよ」
「は?」
低く、機嫌の悪さを隠しもしないその声は、深い意味など一切含んでいないながらも威圧感があった。
「何でさ?」
「何回でも言うけど、疑わしいんだ。弟くんのことを疑ってるんだから、当然身内の金岸さんだって怪しいと思うさ」
「逃げるかもって? つまりそう思っているのかい?」
「平たく言えば」
「……なるほど……そうか、なるほど……」
そこで一つ、姉さんは間を置く。
「それはさ、私が「真人を置いて逃げ出すかもしれない」って、そう言う意味だね?」
「そうだ。そう思ってもらったって構わない」
「そうかい。それはつまり、私が「弟を見捨てるような人間かもしれない」って、そう言っているんだよね?」
「……そうだ。そう思ってもらったって構わない」
僕は、酷く驚いた。
姉さんが——運動嫌いで、外出嫌いで、部屋から出ない生活が理想だと言って憚らない姉さんが、怒りに拳を振り上げたのだ。
決して、垣本さんを殴りつけたわけではない。姉さんはその場から動かずに、玄関の扉を力一杯叩きつけた。
あまりに軽い衝撃音は、姉さんの力無さをハッキリと感じさせた。ただ、その様子を見れば、姉さんが激怒している事は誰の目にも明らかだ。
そんな時——
「わ! 私付いていきます」
不意にそんな声を出したのは大城さんだった。
「私が付いていけば、心配ありませんよね?」
震える声と、泳ぐ目で、大城さんは訴えかけていた。僕は彼女に大人しいという印象を受けていたのだが、松前さんや垣本さんの反応を見ると、やはりそれは正しかったらしいという事が分かる。二人も驚いているようだったからだ。
「まぁ……それなら構わないけど」
「はい! い、行きましょう、金岸さん」
そう言って、大城さんは姉さんの背を押してさっさと出て行ってしまう。彼女の急なその行動に、僕はポカンとするばかりだ。
「何だったんだ?」
垣本さんが言う。
「らしくないよな?」
松前さんが言う。
「やっぱりそうなんですか?」
そして僕が言う。
しかし、
「そんな事ないわ……」
鈴里さんだけはそう言った。
「マミちゃんは優しいもの。みんなが喧嘩してるの見て、止めなきゃって、思ったんだわ」
いつの間にか、言い合いをするような雰囲気で無くなっていることに気がついた。それは姉さんがこの場から離れたためでもあるし、みんなの意識がそんなところには向いていないからでもある。そしてどちらも、大城さんが原因の事だ。
「わたしも、喧嘩なんてヤだわ……。秋元くんが死んでしまったって言うのに、みんなまで喧嘩しちゃうなんて……」
彼女は目に涙を溜め込む。
それからしばらく、その場の誰もが声を発する事は出来なかった。