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事件

 寝覚めは最悪だった。頭が痛く、吐き気もする。原因は分かっている。二日酔いだ。

 元々大して強くないのに、女性と一緒だと調子に乗って飲んでしまうというのは、俺の悪い癖の中の一つだ。自覚はあるというのに、アルコールが入ると自制が効かなくなってしまう。

 安物の腕時計を確認すると、まだ八時にもなっていなかった。

 昨日の最後の記憶は大輝に肩を貸してもらいながら部屋に連れられている時のものだが、どうやら彼は布団を被せてはくれなかったらしく、肌を刺す明け方の寒さがもろに俺の体を襲っていた。起きてしまったのはそのためだ。着替えもしていないため、暖房の効いたリビングにいた時の格好のままだ。

 とにかく暖かい物を飲みたくて、布団に包まりながら芋虫のように部屋の中を張って進む。扉の前でようやく立ち上がり、廊下に出たところで声をかけられた。


「浩介!」


 階段の反対方向に立っていたのは大輝だった。実に暖かそうな上着を羽織っている。


「てっきりもっと寝てるもんだと思ったよ。昨日だいぶ飲んでたからさ」


「……そのつもりだったんだけど、寒くて起きちゃったよ。誰かさんが布団もかけてくれなかったからさ……」


「ああ……そいつは失敬」


「とにかく……今は暖かい場所に行きたい……お湯でもいいから、あったかい物を飲みたい」


「ホットミルクを淹れるよ、悪かったな」


 大輝が肩をすくめる。昨日一緒に飲んでいたというのに、俺と違って寝覚めが良さそうだ。酒の強さに関して言えば、俺と大輝で大きな差があるわけではないけれど、大輝は俺が飲んだ量の半分も飲んでいない。これは彼が飲酒を控えているというわけではなく、そもそも俺が飲みすぎなのだ。

 次からは自制しようと初めて酔った日から思い続けているが、今日という日までその意思が正しく果たされたことは一度もない。


「ああそうだ……」


「なんだ早いな」


 大輝の言葉を遮って、透き通るような女性の声が廊下に響いた。


「深酔いしているようだったから、もっと遅くまで寝ているものかと思ったよ」


「金岸さん、それはさっき僕も言ったんだ」


「ふぅん」


 金岸愛子(かなぎしまなこ)

 遭難一歩手前の様な状況でこの別荘を見つけて、藁にもすがるつもりで尋ねていた姉弟の片方だ。少々変わり者の様だが、高身長で知識人でおまけに美人だ。男として魅力的な異性と出会えるのはありがたい事なのだが、時として天は二物も三物も与えるのだなと、少し残酷な現実を見て複雑な気分にもなった。


「真人はまだ起きていないのかい?」


「そうみたいだね。僕も丁度文彦を起こしに行こうかと思っていたんだ」


「じゃあ俺は下に降りてるから。文彦を起こしたらホットミルクを入れに来てよ」


 大輝の生返事を聞きながら階段を降り、グネグネとうっとおしい廊下を抜けてリビングへと向かった。昨日はいつも通りの変な家だと感じるくらいだったのだが、今日はいつものその道にびっくりするほど時間がかかった。リビングのソファにようやくたどり着いた時にはえらく疲れていて、そのまま横になることを我慢できなかったほどだ。

 人間の体はままならないもので、一度寝てしまうと起きるのに気力を使う。仕方がないので、初めに降りてきた誰かに暖房をつけてもらう事にしよう。幸い布団を持ってきたので、そこまで深刻というわけじゃあない。



 今朝の気分は、控えめに言っても人生最悪だった。昨日寝付くのが遅くて寝不足だというのもあるが、今後一切こんな事は無いようにと願いたいものだ。

 しかし、ダラダラと寝こけている訳にもいかず、重い体を押して部屋を出る。わざわざかけていた目覚ましだが、どうやら必要はなかったようだ。

 廊下ではすぐに浩介を見つけた。どうやらほとんど同じタイミングで出てきたらしい。

 わざわざ声を掛け、廊下の端から小走りで近寄ると、浩介にムスッとした(ツラ)で憎まれ口を叩かれた。

 聞くと、昨日浩介をベッドに運んだまでは良かったが、布団をかけるのを忘れていたのだと言う。記憶が正しければ暖房もつけていない。さぞ凍えた事だろう。

 そのあと金岸さんとも合流し、二人で真人くんと文彦を起こしにいく事になった。浩介にはホットミルクを淹れる約束をしたところなのだが、それは少し待ってもらうか、なんなら自分で淹れてもらう事としよう。

 と考えていたら、早く降りてくるようにと催促されてしまった。


「真人の部屋は何処なんだい?」


 金岸さんが聞いてくる。そう言えば知らないんだったか。


「一番奥の右側の部屋だよ」


 彼女は大股で廊下を進む。昨日の印象では、そこまで行動的には思えなかったけれど、今日は真逆のに思える。


「右だね?」


「右だね」


 金岸さんは俺の返事とほとんど同時にノブに手を掛けた。ノックは無しだ。先程から質問はされるが、その質問に俺が答えるだけで会話が終了してしまう。思ったよりも忙しない人なのだろうか。

 昨日、真人くんは例の「開かずの間」に興味をしていたようだが、金岸さんはどうやらそうではないらしい。

 似ていない姉弟なのだなと思った。

 興味を持つところが、というのもあるが、何よりも雰囲気が違っているようだった。姿形という面で言えば、父親似と母親似があるのだから違ってもおかしくはないのだが、話し方や仕草に類似性が乏しいように思える。


「なぁ、これ」


 金岸さんが振り返る。


「どうかしたかい?」


「いやね? 開かないんだよ」


 金岸さんはガタガタと音を立ててノブを引いてみているが、確かに扉は微動だにしていない。


「鍵をかけているのかな? 文彦のヤツ、いつもはかけたりしないのになあ」


「鍵?」


「ああ、気が付かなかったろう? 鍵があるなんてさ。俺も言われるまで知らなかったんだけど、そこをズラすと……ほらね?」


 二階の部屋には全てノブの下あたりに垂れたような形の金属部があり、それが覆い隠しているのが鍵穴なのだ。これは内側も同じようなつくりになっていて、知らなければ鍵を開けることすらままならない。


「これも文彦の爺様の趣味らしいね。何のためかは知らないけどさ」


「何だってかまやしないけど、煩わしいのは嫌いだね。鍵はないのかい?」


「あいにくこの部屋の中だろうね。いつも文彦が持ってるからさ」


 まさか壊して入るわけにもいかないので、金岸さんと立ち位置を入れ替わり、扉を何度か叩いてみる。


「文彦? 朝だぞ、遅いぞ?」


 しかし返事は返ってこない。廊下側に俺の声が僅かに反響するくらいの変化しか得られなかった。


「退いてくれ」


 金岸さんが一歩前に出て、俺との立ち位置を再び入れ替わった。


「真人!」


 ドン、と重々しい音がなる。金岸さんの握り拳が扉に叩き付けられた音だ。

 間も無くして、部屋の中からはバタバタとした物音がなる。飛び起きたために体をどこかにぶつけたのだろう。


「ほぅら起きた」


 金岸さんは得意げに片方の口角をあげる。

 ——そして次の瞬間



 今朝は非常に寝覚めの悪い日だった。昨日は酒も入っていた事もあり、すんなりと眠りにつく事ができたはずなのだが、そのせいか予定していたより随分と早くに目が覚めてしまったのだ。

 時計を見るとまだ七時半と言ったところ。あと一時間は寝たいところだ。ただ、二度寝して遅くなってしまうのも望むところではなかったため、仕方が無く起きる事にする。

 天窓から漏れる光に悲鳴をあげる目を、擦りつけながら何とか開かせた。


「おはよう鈴里さん、早いな」


「あ、ごめんなさい。起こしちゃった?」


 金岸マナコ

 昨日全くの偶然で知り合った彼女も、どうやら今しがた起きたらしかった。


「いや、そろそろ起きようと思っていたところだよ」


 マナコちゃんの反対側に目をやると、友人の大城マミが眠っている。スヤスヤと小さな寝息を立てて、まだしばらくは起きそうもない。


「済まないけれど、化粧室は何処だろうか?」


「ああ、トイレは一階にしかないわ。リビングの隣だから行けばすぐに分かると思うけど」


「分かった、ありがとう」


 マナコちゃんはそれだけ言うと部屋を後にする。

 ほんの少し、渇きを感じた。

 頭に手をやると、寝ている間に乱れてしまった髪が手に触れた。きっと化粧も崩れている事だろう。喉を潤す前に簡単にでも身なりを整えなければ。

 だるい身体をナマケモノの様に動かして、ベッドの脇に置いてあるバッグを手繰り寄せた。ほとんど目をやらずに手に持ったそれをようやく確認すると、思わず溜息が出そうになった。

 違った。寝ぼけてた。

 本当に取ろうとしていたのは隣のポーチだ。化粧道具が入っている。

 寝癖直しと小さな櫛で髪を整え、コンパクトの鏡でおかしくないか確かめる。私の髪は短めだが、朝が来るたびにメラメラと立ち上がってしまうから手入れが大変なのだ。化粧時間の殆どがこれと言って過言ではない。

 ようやく髪を落ち着かせると、あとは薄化粧で済ましてしまう。後で化粧室で直せば良いか、くらいの心持ちだったからだ。

 マミちゃんを起こさない様に、ゆっくりとした足取りで部屋を出る。軋まない頑丈な扉は非常に望ましい物だった。

 昨日の日暮れ前、初めてこの建物に入った時は、妙に入り組んだ造りをした一階部分に困惑したものだが、慣れてしまえば廊下が真っ直ぐと通っていない事以外は分かりにくいわけではない。調理場まで迷わぬ足取りでたどり着く事ができた。


「あっ、お先だよ」


 調理場では、先にマナコちゃんがくつろいでいた。右手に水の入ったコップを持ち、まるで乾杯のような仕草をした。コップを僅かに高く掲げる。

 私も喉が渇いていたので、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。

 そういえば、昨日片付け忘れていた食器が綺麗にしまわれている。わざわざ夜中に片付けたのだろう。男性陣はそんなにマメではないので、マミちゃんあたりだろうか。

 よく冷えた水の注がれたコップは、夏場のように汗をかいたりしない。喉が渇いているからと用意したはずのそれなのだが、寒さのせいで半分ほどで満足してしまった。


「そう言えば……」


「どうしたんだい?」


 ふと、疑問に思った。肌を刺す寒さと今し方まで冷やされていたミネラルウォーターに、ほんの少しの違和感を覚えたのだ。


「ここはこんなに寒いのに、冷蔵庫なんているのかしら?」


「なんだそんな事か」


 マナコちゃんは肩をすくめる。


「こんな何でもすぐ凍っちゃいそうなほど寒い場所じゃあ、凍らない事が最も大切なのさ。冷蔵庫に入れてさえ入れば、中の物は凍ったりしないだろ?」


 マナコちゃんは若干退屈そうに、全く得意げでなく言った。

 私からすれば目から鱗だったけれども、彼女には自慢するような知識ではないのだ。

 私が残りの冷水を飲むのに苦戦していると、彼女は最後の一口を飲んでさっさと部屋に帰ってしまった。

 私はそれからしばらく、ちびちびと残りの水を飲む作業に勤しんでいた。



 本当なら、私は後少しの間寝ているつもりだった。昨日はスキーで疲れたし、寝る前にお酒も飲んだから、夢も見ないくらいぐっすりと眠っていたのだ。

 しかし、そんな事を言っていられるような状況ではなかった。

 はじめは、何か大きな音がしたのかと思った。テレビのクライマックスシーンで流れるような「ドォォォン」という音なのかと。私は心底驚いてしまって、ベッドから転げ落ちるようにして飛び起きた。

 ほんの一瞬の間をおいて、私の頭はようやくその「音」が何なのかを認識する。それは、「あ」とも「わ」ともつかないような、人の声だった。

 叫び声だ。男性の。

 何処か遠くからではない。それは、間違いなくこの館の中からだ。

 恐ろしい。

 理解した次の瞬間には、私の心はそんな思いで満たされてしまった。何かあったのか。いや、あったのだろう。大の男が叫び出すような事が。ならば、それはきっと恐ろしいに違いない。


「み、瑞樹ちゃん……!」


 隣のベッドで寝ているはずの友人の名前を呼ぶ。一人でいるのは心細かった。

 しかし返事はない。


「金岸さん……?」


 次に呼ぶのは、その友人と一緒に寝ているはずの人物だ。一言でも、誰かの声が聞きたかった。

 しかし、返事はない。

 あまり機敏ではない動きで起き上がる。身体が重いのは寝起きだからか、それとも強張っているからか。

 恐る恐る確認したベッドの上には誰も寝ていない。もしかしたら起きていないだけかもしれないという希望的観測も否定されてしまった。

 時計を確認すると、その針は間も無く八時を指そうとしている。

 扉の向こうは、どうやら騒がしくなっているようだった。

 独りでいるよりは……

 そう思い、意を決して部屋を出る事にした。


「真人! どうしたんだ!」


 その声は金岸さんのものだ。昨日受けた彼女の印象とも違いに、少し驚いてしまった。


「マミちゃん!」


 ちょうど階段を上がって来た瑞樹ちゃんが駆け寄ってくる。ただ近付いただけなのだが、私はすごくホッとした。


「何があったの……?」


「分からないの。私も起きたばかりだから」


 ほんの少しだけ小走りで、廊下の端にいる金岸さんと松前くんに駆け寄る。私は瑞樹ちゃんの手を離す事ができず、半ば引っ張られるような格好になった。


「どうしたの? ダイキくん」


「いいや、分からないな。二人を起こしに来ようかと思ったら鍵がかかってて、ノックしたら叫び声が聞こえたんだ」


 松前くんも首を傾げている。

 二人をというのは、秋元くんと弟くんの事で間違いない。昨日一緒の部屋に泊まるという話をしていたし、この部屋は秋元くんがいつも使っている部屋だと聞いている。


「真人! 返事をするんだ!」


 ともすれば壊すつもりなのではないかというほどの勢いで、金岸さんは扉を殴りつける。


「姉……さん……」


「真人!」


 やがて、ようやく中から聞こえて来た返事は、弱々しく震えていた。


「鍵だ! 真人、鍵を開けてくれ! しまっているんだ」


「か、鍵?」


「金岸くん! ノブの下に伸びている金属部分が可動式になっている。その裏側が鍵だ! つまみを回して縦向きにしてくれ」


 少しだけ手間取ったようだが、程なくして鍵の開く音がした。


「真人っ!」


 金岸さんが、弟くんの姿を見て悲痛な声をあげる。それは、彼女の性格からは想像もつかないほど取り乱したものだった。

 なにせ、彼は頭から血を流していたのだから。


「なんて事だ! 何があったっていうんだ!」


「大丈夫なのか? 一体どうしたんだ」


 口々に弟くんに声をかける。初めに金岸さんが、後から誰ともなく。

 しかし、私には他の事が気になってしょうがない。決して、弟くんの事がどうでも良いわけではなかったが、それでも気にならざるを得なかった。


「あの、秋元くんは……?」


 一体、私たちの友人はどうしてしまったというのか。


「秋元さんは……」


 弟くんは言い淀む。しかし……


「亡くなっています……ベッドの上です……」


 たった二言。それだけを口にした。

 その言葉に、誰もが息を飲んだ。

 松前くんが、弟くんを押しのけるようにして部屋の中へ押し入った。まるで身体に力がない弟くんは、まるで糸の切れた操り人形のように倒れこむところであったのだが、その前に金岸さんが優しく抱きすくめた。金岸さんの服の一部を、弟くんの血液がわずかに濡らす。


「文彦!」


 部屋の中から松前くんの声が聞こえる。立ち尽くすばかりだった私たちは、その声によってようやく部屋に立ち入る事ができた。

 そして、目撃した。

 上等なベッドをこれでもかというほどに濡らすのは、見間違えようもないほど濃く大量の血液だ。それが秋元くんの中ごろまで穿たれた喉笛から流れ出ただろう事は、素人目に見ても一目瞭然だった。

 喉の傷からの出血がすでに止まっているという事実は、つまり血液のポンプたる心臓が止まっている証明に他ならない。

 真っ赤な喉元とは裏腹に一切の血色の抜けきってしまった顔色は不気味で、十時間前まで生きていたはずの友人と同一人物だとは到底思えないものだ。

 即死ではない。それは、彼が青白い顔に浮かべている苦悶の表情が物語っている。一体どれくらいの間苦しんだのかなどわかるはずもないが、少なくとも死の直前、言いようもない苦痛を味わっていた事は間違いない。


「あ、秋元くん……! そんな……」


 瑞樹が泣き崩れる。私も、声を出すこともできずに腰を抜かした。

 恐ろしい事だった。私たちはもう彼には会えない。

 会う事はできない

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