発生
これは、僕の悪い癖だ。
酒の席で「悪い癖」などと言うとまるで酒癖の事のようだが、実は僕は、産まれてこのかた酒に飲まれた事がないのが自慢というような人間で、現に今においても酔いというものを全く感じていない。誓って言うが、これはただ自覚症状がないだけの事ではなく、間違いなく僕は酔ってなどいない。友人からも全然酔わないと評判なので、勘違いという事はないはずだ。
しかし、だからと言って酒が好きなのかと言われれば、それは強く否定せざるを得ない。僕は酒という物を今までたったの一度も美味しいと感じた事がないのだ。
喉越しという概念もよくわからないし、アルコール独特の匂いも最悪だ。付き合いで軽く乾杯する事はあっても、それを楽しいと思った事は一度もない。
結果ついた癖というのが、「相手に飲ませる」という行為だ。自分のコップはいつまで経っても空にはしないのに、気を利かせて相手には次々とお代わりを注いでいく。典型的な「聞き上手」に徹して相手に気持ちよくなってもらうこの行為は、もしかしたら「ホスト的」だと思われるようなものなのかもしれない。
そして現在
僕の目の前には顔を真っ赤にした秋山さんが、実に気持ち良さそうな表情でコップを傾けているのだった。いくら強いといっても無尽蔵にアルコールを摂取できるはずないというのに、彼は僕のせいで浴びるように酒を飲み続けてしまったのだ。
「秋山さん、そろそろ終わりにしましょう。もう遅いですし」
「きもぢ悪い……」
さっきから同じ言葉しか話さなくなった秋山さんを、とにかくベッドに放り投げるようにして寝かしつけた。どうにも乱雑になってしまったが、それも今は致し方なしというところだろう。
顔どころか肘まで真っ赤の秋山さんは、立ち上がるどころか座る事すら満足にできないだろう。部屋の片付けついでに水でも入れて来ようかと、ビールやら酎ハイやらの缶が入った袋を両手一杯にぶら下げて部屋を後にする。
ゴミは調理中に出た物とまとめて置いていると言っていた。一階の調理室の隅だ。帰る時に一括で持って行くらしい。
コップを軽く濯いで水を注ぐ。心なしか早足で戻ろうとしていたのだが、曲がりくねった廊下は意外に歩きにくくて、何度か水をこぼしそうになった。
「秋山さん、水です。飲んで下さい」
秋山さんは返事をしなかったが、多少強引に口の中へ水を流し込んだ。上体を起こさせて水を飲む手伝いをするという行為は、なんとなく介護とはこんな感じだろうかと連想させる。
「ぁあ……ゎるかったな金岸くん……手間かけさせてさ」
ほんの少し落ち着いた秋山さんが、ようやく言葉を返す。
「悪い癖だよ、俺の。調子に乗っちまって悪酔いしちまう。いつもは誰かが先に潰れるからそこでやめるんだけど……君はずいぶん強えんだな」
「いや別に、僕は二杯しか飲んでませんし」
「まじ……か? じゃあ俺ほとんど飲んだのか」
「そうなりますね」
「そりゃ酔うかぁ……」
秋山さんは頭を抱える。後悔のためかもしれないし、単純に頭痛が原因かもしれない。
「でも飲まずにいられないしなぁ」
突然に意味深な事を言い出した。秋山さんは部屋に掛けられている奇怪な模様が描かれた絵を眺めている。それは廊下とは反対側に飾られているので、その壁の向こうは一面の銀世界だ。
室内まで聞こえていた吹雪の音がいつの間にか止んでいた。これなら明日は問題なく帰る事ができそうだ。
「こんな日はさ、どうしても飲みたくなるのよ。飲まなくちゃ、逆に吐いちまいそうでさ」
話を掘り下げる気などなかった。今日会ったばかりの人に対して、それはあまりに失礼だと思ったからだ。しかし酔いのせいだろうか。秋山さんは聞かなくとも話を進める。なら僕にできる事は、話を聞くふりをしながら聞かなかった事にする、たったそれだけだと——そう思っていたのだが……
「俺が人を殺したのもこんな日だったから……」
秋山さんは、信じられない事を口走った。
◆
秋山さんは、そう言うと眠ってしまった。
「殺した」
その言葉が僕の中にこだまして、現実味のない、漠然とした感覚だけがそこに残った。
スースーと、意外にも可愛らしい寝息を立てる秋山さんの目尻には涙が光る。それが何を意味するのか僕には全く理解できないが、しかしこの人が悪人でないと言う事は、ほんの数時間の付き合いで僕が断言できる数少ない事実だ。ならばそれは僕が気にする事でもないのだろうと結論付けて、もともと考えていた通りに聞かなかった事にすると決めた。
秋山さんに水を飲ませて空になったコップを持って、僕は再び一階の調理場へと赴く。
どうやら夕食に使ったらしい食器がそのままだったので、ついでに洗って片付けておこう。
「あれ? 金岸くんどうしたんだい?」
最後の皿をすすいでいる時に、背後から話しかけてきたのは松前さんだ。
「いえ、コップの片付けのついでに洗い物をしてしまおうかと」
「あぁ、悪いね。そう言うのは女の子達がやってくれるんだけども、今日はみんな酔っちゃって忘れてたんだな」
「大した事じゃあありませんよ」
「俺たちはいつも男は物の用意と力仕事、女の子は細々した仕事って感じでやってるんだけど、まさか叩き起こしてまでやらせるわけにはいかないから助かるよ」
「女性ばかりに家事を押し付けるのはよくありませんよ?」
「おいおい、まるで俺たちがそうみたいじゃあないか。仕事を分担した上で、女の子に皿洗いが振り分けられたってだけだぜ? 偉そうに新聞広げながらコーヒー要求するような関白父さんじゃあないんだからさ」
手を拭いて、片付けはひとまず完了した。時計を見ると、もうすぐ日を跨ごうかというところだった。
「そういえば、松前さんはこんな時間にどうしたんですか?」
「いやなに、ちょっとトイレにね」
「真人ぉ!」
唐突に掛けられたその声は、生まれてから何度も聞いている姉さんのものだ。ひょっこりと頭を突き出して調理場を覗き込んで、僕の他に松前さんがいる事に気がついてギョッとした。
「やぁ、なんだ、奇遇だねこんな時間にさ」
情けない声を無かった事にするように、姉さんは平然とした態度で話し始めた。まさか聞かれてない筈などあるわけが無いと言うのに、それでも取り繕おうと努力する姿は驚愕だ。
「どうしたんだ姉さん。慌てているようだけど」
「慌ててる? 私が? はて、何の事か……」
普段出不精のくせに妙に見栄っ張りなその姿は、僕にとっては非常に見慣れたものだ。怪談話で雑学を披露している時とは大違いのその様子は、僕が姉さんを心配する一番の要因だ。人見知りのくせに、相手にそれを悟らせないというその特徴は、姉さん自身としても望ましく無い筈だからだ。
「私は別に……そう、水を飲みに来ただけだよ。どうしたんだはこっちのセリフさ。私の何が慌ててるんだい?」
「そう? じゃあ僕は部屋に戻ろうかな」
「俺もトイレぇ」
松前さんが思い出したかのように調理場を後にする。僕もそれに続こうかとしていると、姉さんが僕の腕をぐっと引いた。お陰で転ぶところだ。
「眠れないんだよ。ちょっと話すぐらい良いだろ?」
「……人と寝るのがそんな嫌?」
「……まあ、そうだね」
姉さんの人見知りは深刻だ。ほんの一時間そこら家族と離れただけで、普段の強気が引っ込んでしまう。
「人間はさ、人生の三分の一もの間を眠って過ごすんだよ。これは八時間睡眠の場合だから、幼児期を含めれば実際にはもっと多いだろうし、私は気持ち長めに寝るから絶対に多いね。だったらさ、それをより良いものにしようっていうその考えに、一体どんな不満があるっていうのさ。正当な権利だと私は思うけれどね?」
「じゃあ姉さんは、僕に一緒に寝て下さいって頼みに来たの?」
「馬鹿な! ははっ、なんだよ馬鹿な事を! それじゃ父親を求める幼子か、男を誘う売女みたいじゃあないか! 失礼ってものだよ」
「姉さん、僕も多少酒を飲んだせいか、幾分眠たいんだよ。寝苦しいとかそんな事なら、僕は姉さんに付き合えないな。明日も運転がある事だし」
普段愛想と言うものがなく、僕の事をどこか小馬鹿にした態度をとる姉さんだが、たびたびこの様に気弱になってしまう事がある。
今回の場合、他人と一緒に寝ると言う行為が、人見知りである彼女の許容限界に達したのだ。
そして僕はその度に、姉さんを突き放す事と決めている。
「睡眠は人生の三分の一に匹敵するけれども、今日一日じゃあ別に大した時間でもないさ。姉さんも多少は他人に慣れておいたほうが良いしね」
「薄情な弟だ! 君は、私を見捨てると言っているんだぞ!」
「はぁいはい、もう夜遅いから静かにね」
正直のところ、本当に眠さは限界になっていた。叫ぶ姉さんを無視して部屋に戻り、奥のベッドに眠る秋山さんをその視界に収めて、彼の「人を殺した」という発言を思い出したわけだが、不思議と先ほどのような不気味さは感じなかった。
それは時間を空けたからかもしれないし、姉さんとの会話で気分が落ち着いたからかもしれない。どちらにせよ、僕はもう不快感無く眠ることが出来た。
——しかし、この時に限ってそれはむしろ不運だったのだ。
◆
僕が泊めてもらう事になった秋山さんの部屋は、僕が普段生活している家とは随分と趣の違う場所だった。
並べられたベッド二つの向かいの壁がクローゼットになっており、秋山さんの着替えやカバンは全てそこに詰められている。中には何故かクロスボウが一丁掛けられているが、これもまたお祖父さん所縁の物品らしい。扉の近くには小型の冷蔵庫があるが、それは部屋と一体となった形状で、中にはビールやチューハイのような缶のお酒が置かれている。
荷物となるような物が全て壁の中に入れられているその空間は、あたかも不用品が何一つないように見えて、なんとなく「ホテルの一室」を思わせた。もしこの部屋に扉の反対側の壁が一面ガラス張りで、バルコニーにでもなっていたならば、目を覚ました僕は寝ぼけた頭でどこのホテルかと困惑したに違いない。
しかし残念なのは、実際にその場所にあるのは巨大な絵画であるというところだ。
大きさはというと、縦の方向には僕の身長にわずかに及ばないほどもありながら、横にはその半分もない。
人の趣味を悪く言うつもりはないが、それは芸術として価値のある物のようには思えなかった。ステンドグラスのように幾多の図形が組み合わせられているようなのだが、別に何かの意味を持たせてあるようには思えない。さらに色合いも暗く不気味で、心を動かされる何らかは到底感じられなかったのだ。秋山さんのおじいさんが魔除けに熱心だったらしいので、もしかしたらその類の物品なのかもしれない。
◆
深夜、と言っても僕が眠った時点で既に夜遅かったので厳密に何時くらいかは分からないが、ともかくとして僕は目を覚ましてしまった。
眠っている間に何度かあるらしい眠りが浅くなるその時に、部屋の中で動く何者かの気配を感じたのだ。
動くことはひどく億劫であったものの、ほんの気まぐれで薄く目を開けた。
開けてしまった
僕の体は左を向いており、その目に映ったのは秋山さんのベッドだった。視界の中央には、ぐっすりと眠りこけている秋山さんが映る筈だったのだが、天窓に積もった雪越しに漏れ出た月明かりが照らしたものは、僕なんかでは予想もつかないような光景だった。
死んでいたのだ
殺していたのだ
死なせていたのだ
殺されていたのだ
胸に深々と突き刺さった包丁は、柄の部分しかない物がそこに器用に立てられているようにしか見えないが、目を見開いて固まった秋山さんの横顔がパーティグッズによるお遊びなどではないことを如実に物語っている。
そしてそれを行なった人物。秋山さんの腹の辺りに跨り、今の今まで包丁に手をかけていただろうその人物。分厚い防寒具に身を包んでいるために体格は判然としない。顔も、ゴーグルとマスクで全体を覆うという念の入りようだ。暗くてよく見えないが、どうやら多くの返り血を浴びているらしい。
「——ッ!」
迂闊だった。寝ぼけた頭で状況の判断が遅れていたが、ようやく理解が及んだ時点で声を上げてしまったのだ。
僕が息を飲んだその声を聞き、血塗れの人物は僕の顔を真っ直ぐととらえた。目が合ってしまった。
彼は僕を見ていた。
その後のことは、殆ど覚えていない。
何か硬い物で頭を打ち付けられ、気を失ってしまったからだ。血塗れの人物は僕が死んだと思ったのか、そのまま部屋を後にしたらしい。
酷い寒気を感じながら、僕は意識を手放してしまった。