曖々と、恐々と
これは調べればすぐに分かる事なんだけども、実はこの雪山では昔おかしな遭難事件があった。
その遭難者がスキー客なのか登山家なのかは残念ながら覚えてないんだけれども、ともかくとして他殺されてその場所に運ばれてきたとかそういうのじゃあないのは確からしい。何せ外傷はなく、死因は凍死なんだって言うんだから。
で、山で遭難者が死亡なんてだけの事件なら、こう言っちゃなんだがありふれてるし、別に「おかしな」なんてほどの事でもない。特に雪山は危険なんだし。
ただ、その男性だけは警察も首を傾げた。一体何故雪山で全裸の死体なんてものが見つかるのか不思議でたまらなかったんだ。
まさか服を脱がされてから、雪山に放置されたんじゃないか。始めに立てられたのはそんな仮説だったね。
例えば暴力団みたいな組織に捕まって、文字通り身包み全部ひっぺがされて放り出されたとしたら、こんな感じの死体になるじゃあないかとね。外傷がない事については、奥さんや子供を人質に取られたりしたら抵抗はできないだろうから、無傷でむざむざと転がされる事も考えられるだろうって。
でもこの仮説には完全な欠点があったんだ。
財布、持ってたんだよ。仏さん。
それに彼が生前身につけていたと思われる衣服は、彼が通ったと思われるルート上に順番に捨て置かれていた。
と言うよりも、むしろこの衣服を追ってたら遺体に遭遇したらしいんだけどね。
纏められてるならともかく順番に一つずつと言うのは、どうにもおかしい。これは暴力団なんかじゃないぞと、そう考えを改められたんだね。そもそも奥さんやお子さんは人質になんてなってないっていうし、この男性の背後に暴力団系の組織の影は見えなかったらしいけど。
で、次に言われ始めたのは、これは自殺なんじゃないのか、と言うものさ。
雪山で全裸になんかなったら凍死してしまうなんてのは、子供でも分かる事だろう?
彼はある程度雪山を進むと、ある程度のところからまず防寒具を脱ぎ捨てた。足を止めずにね。どんどんと体は冷え、自分はそろそろ死ぬのだなと言う実感があったに違いない。セーターを脱ぎ、シャツを脱ぎ、ズボンと下着を脱ぎ、最後に靴下を脱ぎ去ったところで、彼はとうとう息絶えた。望み通り、あの世に旅立ったってわけだね。
ところが、やはりこの時にも遺体が持っていた財布がネックなんだよ。
あの世に金なんてのは持って行けねぇよ、とそんな感じだね。
そもそも自宅に帰れば包丁ぐらいあるはずなのに、わざわざ凍死なんて苦しい死に方になくても良いしね。
その後もなんか色々と言われたらしいけど、結局どう結論になってるのかは僕は知らない。
でも、その仮説の中にはこんなものもあるよ。
山に住む鬼の仕業だって言うね。
そんなわけないと思ったかい? でも、これも調べればあるんだよ。この辺りにそういう言い伝えがさ。
鬼は時折近場の人間を喰い殺すってね。他の地方でいう神隠しってやつさ。その鬼が、たまに気紛れで人間を生かしておいて、苦しんで死ぬ様を見て楽しむんだって。鬼は生きた人間が好物だから、凍死体は食べずに放置するんだけど、それがこの遭難者なんじゃあないかって言われている。衣服は脱いだんじゃあなく、ひん剥かれていたんだ!
僕は正直、この説を支持するね。人間が理解できないなら、きっと人間じゃあないんだよ、犯人は。
◆
そのように締めくくられた話は、地方にはありがちな伝承を実際の事件に結びつけただけの単純なもののように感じられた。奇を衒ったわけでもなく、ただただありふれた、そんな感じのもの。
姉さんはというと、興味の「き」の字も無いようでぼんやりと欠伸なんかしている。
「どうだい? これは何か分かるかい?」
「分かるも何も……」
自信なさげに聞く垣本さんに対して、姉さんには全くやる気がない。受け答えも酷く面倒臭そうだ。
「鬼の話なんてありがちな伝承じゃないか。その話の起源が知りたいのなら、私に聞くよりも図書館に行く方が賢明だと思うね」
「マナコちゃんクールぅ!」
「いや! でもね、男の脱衣死体というのは本当に発見されたんだよ! これにはどう説明をつけるんだ」
垣本さんは意外に頑固なようで、姉さんの言葉に食い下がる。
でも、実のところ僕もそれは不思議だと思っていた。世の中にはおかしな未解決事件は結構あるものだから、その類なのだろうと思っていたら、姉さんは首を傾げてこういうのだ。
「そんなの簡単だよ」
「え……?」
垣本さんは間の抜けた声を出したが、実のところ僕も同じ感想を抱いた。ただ軽く状況を聞いただけで、本格的な調査もしていないというのに、この姉はその真相を突き止めてしまったと言う。
「垣本くんはあたかも迷宮入りした難事件のような話し方をしたけれども、実際にはそうじゃないと思うな。大方インターネットか何かで面白い記事を見つけて、最後まで読み込まなかったんだろう。意図的に真相を伏せているんじゃなければね」
「…………」
垣本さんの顔が強張る。どうやら図星らしい。
「姉さん、勿体つけずに教えてくれよ」
「そうよ、弟君の言う通りだわ。私も知りたい! マミもそうでしょ?」
「え、ええ、そうね」
鈴里さんと大城さんも僕と同じように真相からは遠いようで、真剣な面持ちで姉さんに詰め寄る。
しかしどうした事だろう。姉さんは今にもため息をつきそうな表情で、僕の方をまっすぐに見返すのだ。
「……おいおい真人、冗談だろう? てっきり君くらいは分かっていると思っていたのに」
「え?」
僕くらい。その言葉の意味が分からず、僕は面食らってしまった。
姉さんは鼻にかかる偉そうな喋り方をするが、人を小馬鹿にしたりするような人間ではない。とすると、おいおいこんな事も分からないのかなどと、そう言う意味の言葉ではないのだろうと考えられるのだが、だからどう言う意味なのかは全く分からなかった。
「私は車内で「暑くても服を脱いではいけないよ」と、そう言ったじゃあないか。それに対して君は言ったよ、「うん、分かった」。まさか意味も分からないのに「分かった」と言ったのかい?」
返す言葉もなかった。実際にその通りだったからだ。いつも通り姉さんの訳の分からない問答だと思って、適当に返事をすればいいやと思っていた。
「図星のようだね」
姉さんの目が細まる。
「まあ良い、皆んな知らない様だから、今度こそよく聞いていたまえよ」
ようやく本題に入る。これには、話を始めた垣本さんですら身を乗り出している。
「結論から言えば、件の彼は自らの意思で服を脱いだんだ。誰かに脱がされたり、何かの要因で脱げてしまったものではない」
「でも姉さん、一体どんな理由があって、雪山で服を脱ぐんだよ。そんな事したら死んじゃう事も分からないほど耄碌してたのか?」
「耄碌してるのは君の方か? そもそも、そんな爺さんは山に歩きに来たりしないだろう」
「じゃあやっぱり自殺だ。二番目の仮説が当たっていたんだ」
「可能性として全く無いとは言えないけれどね、もっと現実味のある説が有力さ。「矛盾脱衣」と言ってね、寒いのに服を脱いでしまう事だ。なにぶんこの状態になった者で生存者が居ないものだから確かなことは言えないけれども、アドレナリンの過剰分泌による幻覚だとか、血管の伸縮による錯覚だとか言われている」
矛盾脱衣。聞いた事のない言葉だった。
「国内だけでも40件近く報告例があるから、警察も遠からず真相を突き止めたはずだ。珍しくはあるけれども、妖怪や物の怪の類の仕業にしてしまうほど奇怪な事例ではないね」
◆
「何の話だ?」
姉さんが垣本さんの話の真相を話し終わった頃、ちょうど風呂を済ませた秋山さんが戻って来た。
それを受けて、話に入らずソファーでゆったりとしていた松前さんが立ち上がる。
「文彦が出たなら次俺行こうかな。それとも女の子先入る?」
「私たち後でいいわ! 聞いてアキヤマくん! マナコちゃんったらカッコ良いのよ!」
鈴里さんは若干興奮気味だ。秋山さんがその勢いに後ずさりをしている。
「カキモトくんがいつもみたいに私たちを怖がらせようとしたんだけど、マナコちゃんがカッコよく論破しちゃったの」
「なんだ浩介、またあの詰まんない話ししてたのか」
「詰まんないとは何だよ! 俺は女の子楽しませようと頑張ってたんだよ!」
「大輝の言う事聞いてないからだ。何度も言われてたろうが、女の子には……」
「その話はもうされた後なんだよ! 追い討ちかけようとしないでくれ!」
大城さんが二人の会話を眺めてカラカラと笑う。寡黙な人なのかと思ったが、意外に明るい笑い方をする。
「で、もう怪談話は終わりなのか?」
「俺はもうネタ切れだよ。それにもう怪談は二度としない。誓う」
腕を組んで神妙な面持ちをする垣本さんがよっぽどおかしかったのか、大城さんはとうとう吹き出してしまった。
「そっか、俺はそこそこ嫌いじゃなかったがな。金岸姉弟は何かある?」
「いや、特には」
「私もイマイチだね」
まさか遭難して見ず知らずの人の家に泊めてもらってそこで怪談話をする事になるなんて思っていなかった僕は、当たり前だがネタなんて持ち合わせていない。姉さんに至っては思っていたとしても用意しそうにない。
「そっか。じゃあ俺から一つとっておきを……」
「え……まだするんですか?」
さっきまで笑いを堪えていた大城さんの顔が瞬く間に真っ青になった。
「大丈夫よ! 私たちにはマナコちゃんが居るもの!」
「いや、期待されても困るけれど……偶然知っていたってだけなんだからね」
そのやり取りは、正しくデジャブというやつだった。と言うよりも、垣本さんが話をする前とほとんど同じ会話じゃあないだろうか。
◆
金岸姉弟には言ってなかったかもしれなけど、この別荘は俺が死んだ爺さんから継いだ物なんだ。まだ父さんが生まれないくらい昔に建てたもんらしい。
で、この爺さんなんだが、生きてた頃は結構な変わり者で有名でさ、故人を悪く言うつもりはないけど、正直俺も苦手だったね。
もしかしたら気づいてるかも何だけど、この家ってほとんど窓が無いわけ。玄関の所と、二階の天窓と、開かずの間っていう二階の一番奥の部屋だけ。他は一個もないんだ。おかしいだろう?
なんか、人に見られるのは嫌とか言って、設計からすっごい口出ししたらしい。
分かるよ? 「何で奥の部屋だけ窓があるの?」って言うんだろ?
いや正直俺も体験したことなんだけど、ここはどうやら出るんだよね。
この別荘は父さんもそんなに来なかったらしいから俺もその話知らないんだけど、爺さんはよく「悪魔が居る」って騒ぎ立ててたみたいでさ、奥の部屋にはその時集めた悪魔祓いの道具とかが詰まってるんだと。そんでその部屋に閉じこもったりして、そん時のお手伝いさんとか大慌てよ。
なんかその後部屋に穴開けて悪魔追い出したとかでさ、その時の穴が今窓になってるわけ。
これは曾祖父さんだったか婆さんだったかが手配したもんなんだけど、爺さんこれに大慌てでさ、めでたく奥の部屋を開かずの間にしちまったってわけ。ご丁寧に杭まで打ち付けてさ。
父さんが物心ついた時にはもう閉じられてたらしいから、俺も詳しくは知らないんだけどな。
でもさ、その開かずの間って、どうやら悪魔祓えてないんだよ。集めた悪魔祓いの道具とかであの部屋に閉じ込められてるだけでさ、俺は居ると思うんだよね。今日みたいな人が集まる日は悪魔もその騒ぎを聞きつけてあの部屋の中を動き回る。嘘だと思うなら、たまに玄関の天井の音に気をつけてみな。あの真上はちょうどその部屋なんだが、時たま聞こえてくるぜ、誰も居るはずもないのに部屋から確かに足音がよ。
◆
「ええぇー! ここってお化けがいるの!?」
鈴里さんは叫びながら、とうとう姉さんに抱きついた。話の途中からこれ以上すがれないほどにくっついてはいたが、「まだ悪魔が居る」と言う言葉で縮み上がってしまったようだ。
「マナコちゃ〜ん、これも何とかしてよ。私このままじゃ夜寝られないわ」
「いや何とかって言われても、あんな曖昧な話じゃあどんな名探偵でも全容は明らかにはならないよ。今この時必要なのはシャーロック・ホームズじゃあなくてエドガー・ケイシーだろうね」
「まあ、又聞きの又聞きみたいな所あるから仕方ないんだけど、足音がするのは本当だよ俺は何度も聞いてるし、大輝も浩介も前来た時に聞いたって」
「ああ、違いない。たしかにあの部屋からだった」
松前さんも同意する。
「あれは確かにあの部屋からだった」
「えぇ〜イヤよ私! 今からでも帰りたいくらい!」
「無茶言ってんなよ、外吹雪だぞ」
「そうよ瑞樹ちゃん、危ないわ」
「どうしてもって言うなら私は止めないね。イエティの親戚にでも会ったら写真送ってくれよ」
「マナコちゃんひっど〜い!」
賑やかな会話を楽しんでいるように見える姉さんが、さっきから僕の方を盗み見ている。これでいて人見知りの姉さんの許容限界はすでに超えているらしく、すぐにでも会話をうち切れとその目で訴えているのだ。
しかし忘れないで欲しいのは、僕は「姉さんが嫌がっているのにスキーに連れ出した」と言う事実。つまり、姉さんの更正は僕の望むところなのだ。
「で、結局姉さんは何も気が付かなかったの?」
なので、あえて姉さんに話を振る。彼女の人見知りを少しでも改善しなければならないからだ。
「言ってくれるね真人」
周りには「何も気が付かなかった」と言った事に対してだと感じられただろうが、僕にははっきりと「なんて事をしてくれるんだ」と聞こえた。ただし、それについては努めて無視する。
「例えば矛盾脱衣に関しては、「遺体が服を着ていなかった」事と「着ていたであろう服は纏められずに近くに捨てられていた」事が分かっていたじゃないか。でも今回は、ほとんど「よく知らないんだけど」となっている。判断する材料が少なすぎるね」
「悪いな、せっかく話をしよってのに、重要なとこ全部知らないってなると、確かに盛り上がらないわ」
「いや別に、秋山君が悪い訳ではないけれどね。実際に知らないなら仕方がないさ」
「だったらじゃあ、二階の足音については何か分かるって事? これは今すぐにでも詳細な話が聞けるだろうし、秋山さんの許可さえあればすぐにでも調査できる」
姉さんの目が細くなる。「余計な事を言うな」と言われているように感じた。
「何度も言うけれど、あまり期待をされると困る。私は謎解きのプロってわけじゃあないんだよ」
ため息交じりのその声は、いつもの鼻にかかった特徴的な抑揚のものではない。そろそろ知らない人と話す事に疲れてきたようだ。
「松前君は「間違いなく足音だ」と言ったけれど、それは本当に「間違いなく」だったのかな? よく似た別の音がそのように聞こえてしまった可能性はない? そもそも「これは足音だ」って言う記憶が先行して、実際にはそうじゃない音を足音だったと思っていると言う事は? 後から考えてみると違ったかも、とかそう言うのは? 全くない?」
「あ、いや、そう言われると自信がなくなるな……でも、「あの部屋」からだったのは間違いない」
「それは俺も保証する。玄関の真上は確かに開かずの間だ」
「ふーん」
姉さんは少し首をひねる。僕はそれが何か考え事をする時の癖だと知っているが、姉さんが何を考えているのかはよく分からない。怠惰な性格の姉さんだったら、少しでも考えに詰まったら「やっぱり分からないね」とでも言って捨て置いてしまうと思ったからだ。
「二階に上がる階段っていうのはどこかな?」
やがて姉さんの口から出たのは、今まで話題に出なかった階段の事だった。まさか、わざわざ二階に上がってまで調査しようというのだろうか。今日の姉さんはいつになくアクチサティブだ。
「風呂場はさっき入ったろ? あそこの奥の突き当たりだよ」
「うーん」
しかしどうも、姉さんは階段の場所を聞いたというのに立ち上がる様子がない。やはりと言うべきか、別にわざわざ見に行くつもりがあった訳ではないらしい。
ならばなぜ聞いたのか、そんな疑問は、すぐに姉さんの口から氷解した。
「階段って普通入り口の近くにあるものじゃあないの? 玄関から両端って不便そう」
「ああうん、そうだね。爺さん変わり者だったっぽいから……」
「そうらしいね」
突然の関係のない話に、秋山さんは少し面食らってしまったようだった。姉さんの被っていた猫が若干剥がれかかっている。つまり、この話題に飽きてしまったのだろう。
幸運なのは、みんなから姉さんに対する評価が「変人」ではなく「天然」と言うところに落ち着いた事だ。腫れ物のような扱われ方をするのは僕も弟として辛い。
◆
「マナコちゃん! 一緒に寝ましょう!」
僕たちはしばらく他愛ない話をしていたのだが、不意に鈴里さんがそんな事を言い出した。なんでも、「二階の一番奥の部屋」の話を思い出すと怖くなってしまったのだそうだ。
「マキちゃんも一緒に、三人で寝ましょう! そうしましょう!」
あれからアルコールも入り、いっそう陽気になった鈴里さんは有無を言わさない調子でほとんど叫ぶように言った。その言葉は姉さんの望むところではなく、さっきから僕の事を必死で睨みつけているが、酔った人間に言う事を聞かせるのは時として非常に難しい。そして今は、まさしく「時として」に該当する。
「ああ、そろそろみんな寝たほうが良いだろ。酒入って潰れたやつを部屋まで運ぶなんてゴメンだからな」
秋山さんが言う。彼も先程から松前さんと飲んでいたのに、ほんのりと顔が赤くなった程度だ。随分とお酒に強いと見える。
「金岸くんは俺と同室だな。広い部屋がそこしかない」
「ああ、はい。でしたらお邪魔させてもらいます」
宿泊のための部屋は、どうやら全て二階にあるらしい。一階には広間と風呂のほか、倉庫、調理室、ボイラー室などがまるで適当に並べたかのように配置されており、廊下はその間を縫って通されている。なので、一番奥の階段に向かうには右へ左へと何回か曲がる必要があった。一本道であるために迷ってしまうようなことはないが、それでも奇妙な感じがしてしまう。
「これも全部、変わり者のじー様のせいなんだよ」
僕はどうやら落ち着きなく目を泳がせていたらしく、秋山さんが補足してくれた。
「えー! マナコちゃん歳下だったのぉ!?」
後ろから、鈴里さんの声が聞こえた。アルコールが入ったためか、先程から声のボリュームが一割増しだ。
「そうみたいだね、たった1歳」
「しっかりしてそうだからお姉さんなのかと思ったわ」
「はっは、褒められても何も出せないよ?」
きっと他人には分からないのだろう。姉さんの声に力が入れられ始めた。ほんの少し力むように、不自然な抑揚を交えさせているのである。これは僕への主張。人と接する事が苦手な姉さんは、執拗に話し掛けてくる鈴里さんに辟易としているのだ。何か困った事があるごとに僕を呼びつける姉さんなので、今回についても僕に気付かせようと必死でアピールしている。
「いっそ迷路にでもしてしまったら面白かったかもですね」
「おいおい勘弁しろよ。夜中トイレに起きる時が大変じゃないか」
姉さんのなけなしの主張を、僕は努めて無視する事にした。せっかく他人と接する機会だ、鈴里さんには姉さんの更生に一役買ってもらうとしよう。
赤の他人との同室なんて、きっと姉さんは苦虫を噛み潰したような顔をしながら寝るに違いないが、ここは心を鬼にしよう。
「二階は普通なんですね」
「ああ、天窓な事以外はな」
二階の廊下は真っ直ぐで、両脇にいくつかの部屋が並んでいる作りになっている。その一番手前の部屋が姉さん達が泊まる部屋らしい。二つベッドがあるのはその部屋だけなのだそうだ。
「ベッドが二つしかないから、マナコちゃん一緒に寝ましょ! そうしましょ!」
「悪いよ! 適当に床でごろ寝させてもらうよ!」
どうやらえらく懐かれてしまった姉さんが僕のことを凝視するが、気が付かないふりをして秋山さん達について行く。これが異性だと言うのなら問題だが、違うなら気にするほどの事もないだろう。
「奥の部屋が俺たちの部屋だな。三部屋分」
「随分と部屋が多いようですけれど、泊まれるのはあと三つだけなんですか?」
「道楽爺さん趣味部屋がほとんどだからな。ビリヤード台で寝たいってんならそうするが?」
「遠慮しておきます」
「だろうな。俺的にはばんばんリフォームしていきたいんだけど、遺言で内装をいじるなとか言ったらしくて、掃除以外ほとんど手がつけられねんだわこれが」
そして一番奥。右側の部屋が今日僕が秋山さんと泊まる場所らしいのだが、それとは別に、意識しまいとしてもどうしても視界に入ってしまう異様がそこにはあった。
「あの、これが例の……」
「ああ、そうだね。「開かずの間」だ」
突き当たりの一室。そこは扉の造りからしてほかとは違い、黒く塗装された縁取りと頑丈そうな装飾が目立つ豪華なものだった。しかし、その扉が役割を全うする事は今後永遠に無い。何せ、僕の親指ほども太さのある杭が所狭しと打ち込まれているのだから。恐らく美しかっただろうその風貌は見る影もなく、強引に打ち込まれた杭によって大きなひび割れが見て取れる。そのひび割れからは、かつて塗装の下に隠されていた木材本来の色が覗いていた。
それはたった一目で、なるほどこれは開かないなと理解できる風態だ。
「なぁんかおっかないだろう? 爺さんが言うには、このドアの内側には呪いのお札やら魔法陣やらがびっしりらしいぜ」
「ははあ、なるほど……」
「そんなおっかない場所の事は良いだろ? 俺はまだまだ飲み足りねえよ。金岸くん、付き合ってくれよ」
「酔潰れると面倒なんじゃあ?」
「はっは、金岸くん、こいつはそうそう潰れたりしないよ」
「そうラぜ。いっつもオいつはヘラヘラしてんだぜ?」
松前さんと、そろそろ呂律の回らなくなった垣本さんが茶化す。
「何だその言い方はよ。酒に強ぇえのが悪い事かよ」
「そうじゃあ無いさ、突っかかるなよ。別に悪口じゃあ無いだろ?」
「寝たら起きエんラんてなあ、イつもナしな」
「そんな事より浩介。お前そろそろ酷いぞ? さっさと部屋戻って休みなよ」
「そうだな。そう見えるな」
「寝てきた方がいいよ。あと一滴でも酒飲んだらきっとお前千鳥足だって」
松前さんに背中を押され、垣本さんは「開かずの間」から二番目の左手の部屋に入れられた。最後の瞬間まで「大丈夫なのになぁ」と言ってはいたが、酔っ払いのその言葉は一切信用ならない。それは僕の経験が証明してる。姉さんはああ見えて下戸なのだ。今日は他人の目があるために全く飲んでいなかったが、弱いくせに一度飲むと酒持って来いの一点張りで会話にならない。
「さあ俺たちは飲み直そうぜ金岸くん。幸い、たとえ酔い潰れてもここが俺たちの部屋だ、手間はない。それとも酒は嫌いか?」
その言葉は、先程から全く飲んでいなかった僕に対しての気遣いなのだろう。
しかし、昔から似てない姉弟だと言われてきた僕たちはこんな事まで正反対で、驚くほどに酒に弱い姉さんと違って僕は全く酔った経験がない。友人にも強いと評判の秋山さんにも付き合うことが出来るだろう。
「いえいえ、誘っていただけるのならお付き合いしますよ」
そうして僕は、秋山さんに連れられて「開かずの間」右側の部屋に通されていった。