雪山にて、館にて
「だからさ……だから私はやめようって言ったんだよ?」
外は酷い音と、とても歩けそうもない程の暴風が支配する世界だ。姉さんの怠惰なその声も、きっと聞き慣れていなければ何を言っているのか分からなかったことだろう。
「悪かったよ! そう何度も言うこと無いだろう」
僕は怒鳴りつけるように言った。腹立たしかったからでは無い。僕と違って姉さんは、大声を出さなくては僕の声を聞き取れないだろうと思ったからだ。
「来たくないって言ったよ。熊ですら冬場は寝て過ごすのに、合理主義の人間様がなんで雪なんかで遊ばなくちゃあならないのさ?」
僕は外を見る。とんでもない豪雪だ。
日本人なら台風くらい経験した事があるだろう。その時に降る雨が全部雪だったらと考えれば想像がしやすいだろうか。どれだけ立派な肉体を持っている大男でも飛ばされてしまうだろうと言う大嵐は、僕たちを車の中で立ち往生させるには充分な脅威を持っていた。
「こんな車内で一晩も寝ていたら凍えてしまうよ」
姉さんはまだ文句を言っている。
「暖房はつけておくよ、その辺は心配しないで」
僕は気を利かせてそう言ったのだが、今の今まで後部座席で寝転がっていた姉さんは天井にぶつかるのではないかと言うほどの勢いで飛び起きると、すごい勢いで捲し立てた。
「まさか一晩中だとは言わないだろう? 私はゴメンだよ? それは一晩中エンジンをかけ続けると言う事じゃあないか。北海道で起きた事故を知らないのかい? 豪雪で立ち往生した車が、翌日車内の人間が全員一酸化炭素中毒で死亡した状態で発見されたという事例だ。排気口を雪が埋めてしまった場合、その排気ガスは車内に逆流する事になるんだ。もし君が一酸化炭素で呼吸が出来ると言うのなら一応言っておくけれど、私はそうでは無いからやめてくれよ。それとも、この雪は絶対に排気口の高さまで積もらないと、そう断言できる根拠があるのかい? 当然天気予報のようなあやふやなものでは納得しないよ? 何せそれを君が信じた結果こんな暴風雪に巻き込まれてしまっているのだからね」
普段は頼りない割りに、知識だけは豊富な姉の言葉である。しかし日頃の頼りなさのせいで、どうしても頼もしさは感じられない。
「……分かったよ、暖房は切るよ」
「ああ、そうしてくれよ」
正直のところ、今回については悪いと思っているんだ。
我が姉——金岸愛子の怠惰な生活を憂いて半ば無理矢理スキーに連れ出したまでは良かったけれど、姉さんは二回ほど転んだだけで山荘に引き篭もってしまった。当人曰く「詰まらない遊びだった」そうだが、「滑れていないのに楽しさなんて分かるわけがない」とは敢えて言わなかった。
そこからは終始文句しか口に出さなかった姉を見ながら、これは失敗してしまったと後悔した矢先の出来事がこれだ。予報では触れられてすらいなかった大嵐の所為で、帰路は立ち往生を余儀なくされた。見渡す限り真っ白で、そろそろ日が落ちるという事もあり、正しく右も左も分からない状況だ。今後、姉さんを連れ出すのはさらに難しくなるだろう。弟として予測しても、長くて半年は家から出ない生活が始まる。
「ねえ真人、いくら暑くても服を脱いではいけないよ?」
きっと、姉さんがおかしな人である事は今更説明するまでもないと思う。自堕落な生活を続けて僕が用意しなくては平気で何日も食事を摂らなかったりする事を除いても充分に。何せその振られた話題は前後に繋がりがなかった上に、内容に至っては現状に全くそぐわないのである。
「うん、分かった」
無視したら機嫌をさらに悪くする事を知っている僕は、いつも適当に返事をする事にしている。
◆
それから暫くして、夕暮れ時も過ぎ去って完全に辺りが暗がりとなった頃、ようやく降雪はその勢いに衰えを見せた。風が弱まり、わずかに景色を確認出来るようになったのだ。
とは言え、未だに積雪量は驚異的であり、すぐにでも真っ暗となってしまうだろう山道を土地勘もないままに下ってみようという気は起きない。
「真人! 起きろ!」
車内での一泊を覚悟して目を閉じていたら、後部座席から姉さんが大声で叩き起こしてきた。
「何をするんだ……」
どうせいつもの奇行だと思って適当に受け答えをしようとするが、この時はいつになくしつこかった。
「アレだよ! アレを見るんだ!」
人の頭を叩きながら叫ぶ姉に苛立ちを覚えながら、彼女の指差す方を見る。まばらに木々の立ち並ぶ道路脇の森の先に見えるそれは、なるほど確かに騒ぐに足るものだと言える。
「光だよ!」
闇の中に僅かに見える灯火は、そこに人が居るという事を強く主張している。暗がりではっきりと見る事はできないが、目を凝らせばその光は何らかの建物から一筋だけ漏れ出ているようだった。
「急ごう、すぐにまた風が強くならないとも限らないからね」
姉さんに言われるまでもなく僕は急いでいたのだが、かじかんだ手ではエンジンキーを回すのも一苦労だった。さらに車体は完全に冷え切っており、エンジンがかかるまで随分と手間取ってしまった。車を光の下まで動かせるようになったのは、ブルンブルンと音だけを響かせる頼りないマイカーに苛立ちを覚え始めた頃だ。
いつタイヤが道路脇に足を取られてしまうか気が気じゃなかった。なにせ一面真っ白なものだから、道路とそうじゃない場所の区別もつかないのだ。
姉さんと相談しながら道を行ったり来たりするも、立ち並ぶ木々には車が通れそうな隙間は見当たらない。雪で道は見えないが、もし隙間があったならそこから通れるだろうという当てはまんまと外れてしまった。
仕方がないので、車はその辺に路上駐車して徒歩で近づく事にした。無理矢理に雪を掻き分けながら進み続けては車体が痛みそうだと思っていたところなので、姉さんのその提案は助かった。幸いまだ風は強くなっていない。
しかしありったけの防寒具を着込んだというのに一向に寒さは遠くならず、何十センチも積もった雪は驚くほど僕たちの体力を奪った。さらに悪い事に風が徐々に強くなり、建物の前に着いた時にはすっかり元の暴風雪に戻っていた。100メートル足らずの道のりの筈だが、僕が産まれてから現在までの間で最も長い100メートルだった事は疑うべくもない。出来ればこれからの人生の中でも一番であって欲しいと心から願う。
近付くごとに、その建物の全容が肉眼でも把握できるようになってきた。階数は恐らく二階分程度だが、妙に長い。高さではない。右にだ。入り口は左端にあり、右手方向に建物が伸びている形となる。
そして目前に来て、意外に大きな建物であることに気付いた。遠目では小屋のようなものなのかと思っていた。何せ窓という物が殆ど無いので、暗がりの中ではその全容を伺えないのだ。
「ごめっ! 御免下さい!!」
頑丈な戸を狂った様に乱打する。
もう少しで噛み合わなくなりそうな顎に精一杯の力を入れながら、その一言で喉が枯れるほど叫んだ。そんな風に出した自分の声だったが、吹雪の中ではほとんど聞こえなかった。
それでも誰も出てくる気配がなかったので、目を開けるのも苦労しながら、必死に呼び鈴を探した。やっとの事で戸の左側にそれらしい突起を見つけ、乱暴な手つきで連打した。震える手はこんな事に対してのみ役に立った。
「誰だよこんな時間に」
戸はその主人の声の後たった数瞬後に開いたが、その数瞬が僕らにはこれでもかというほどに焦れったい。やはり雪国だけあって、どうやら戸は何重にもなって冷気を遮断しているようだ。
戸がようやく開くや否や、僕らはまるで倒れこむように玄関に侵入した。凭れ掛かるようにしていた事が災いしてしまった。
◆
「すいません、本当に」
「あぁ、いや良いって」
許可を得る前の入室という無礼を謝罪する僕はどうやら酷く惨めに見えたようで、初めは怒っていた家人の秋山文彦氏の態度は次第に軟化していった。
僕たちは現在、リビングルームに通されて一番暖かい暖房の前を譲られている。そこには何人かの男女が集まっており、話を聞く限り大学時代のサークル仲間なのだと言う。
「しばらくしたら風呂が沸くから、先入って良いよ。寒いっしょ?」
「悪いですよ、そんなお風呂まで!」
「良いって良いって、俺も急に怒鳴って悪かったし、そんなベタベタな格好で歩かれた方が迷惑なんだから」
秋山さんに言われて、初めて自分の格好に気がついた。外を歩いて身体中についた雪が、室温で全て溶けている。今座っている暖房前のカーペットは雪解け水が染み込んでしまっている。
「すいません気がつかなくって!」
「やあ、良いんだって」
秋山さんは強面で口調もぶっきらぼうだが、どうも面倒見が良くて親しみやすい人だ。
「お言葉に甘えさせてもらおうよ。外に追い出されるわけじゃあないのなら、むしろ身綺麗にする事がマナーだと思うね」
言葉の内容自体はまともな事を言う姉さんだが、口調を合わせるといかにも図々しい事この上ない。先程までしおらしく身を縮こませていたと言うのに、もういつもの鼻についた抑揚の話し方に戻っている。
「そう言うこった。気にするこたぁねえよ。——なあ、こいつら先に風呂入れても良いだろう?」
秋山さんが振り返り、他の面々に確認を取る。彼らは特に気にした様子もなく、ニコニコとした顔で了承してくれた。
「だったら姉さん先入ってきなよ、僕はまだ少しあったまってからにするよ」
姉さんは返事もせずに軽い足取りで歩いて行った。せめてもう少し申し訳なさそうに取り繕うことは出来ないだろうかとため息が出てしまう。
「ああ、私案内しますよぉ」
姉さんの後を追って小柄な女性が部屋を出ていく。あまり世話をかけなければ良いと思うが、恐らくはそうもいかないだろう。
◆
「失礼します。お先に頂きました」
姉さんの出た後に僕もお風呂を頂き、凍えそうだった体は随分とさっぱりした。
「おぉ、お帰り。着替えは俺のしかなかったけど大丈夫そうだな」
秋山さんは僕たちに続いて三番風呂に入って行った。
「へぇ〜、愛子ちゃん物知りぃ」
あとは邪魔にならないように部屋の隅で縮こまっていようかと思えば、姉さんが暖房のそばで楽しげに談笑しているのが目に止まった。姉さんはあれでいて猫を被るのがうまい。知らない人は、一見して話をするのが好きなのだと思うことだろう。
「…………」
僕は何の気なしにそちらを見ただけで、別に会話に割り込もうなどとは全く思っていなかったのだが、姉さんが無言で手招きをしていた。周りに集まった三人の男女に気付かれないようにさり気なく、死角となる位置で小さく。
「あー、姉さん?」
何と声を掛けて良いのか分からず、随分とぎこちない言葉になってしまったが、それは気にする必要がなかった。
何せ——
「ああ真人! ちょうど良かった、隣に座りなさい!」
姉さんが無理矢理に会話の輪の中に僕を引き摺り込んでしまったからだ。
「どうやら垣本君が面白い話をしてくれるらしいよ」
これが姉さんの困り事。猫を被るのはすこぶる上手いくせして、結局は人見知りなのだ。先程まで楽しげに談笑していたのも、内心はさっさと逃げ出したいと思っていたに違いない。相手が気持ちよく話している中で逃げ出す事も出来ず、せめて僕を隣に置いたのだ。
女性三人の気を引こうと様々な話題を振っていたであろう垣本浩介氏は、突然輪に入れられた男、つまり僕に面食らってしまったようだ。
「はは、面白い話だなんて、そんなハードル上げられたら話しづらいな」
それでも邪険に扱わないのは女の子の前だからか、あるいは彼が善人ゆえか。どちらにせよ悪い事をしてしまったようだ。
「ねえ弟君! お姉さん博識なのね!」
更にはどうやら話の中心は姉さんに移ってしまっているようで、垣本さんを意に介さずに女の子の一人が僕に話しかけてしまった。
垣本さんは笑顔の石像のようになっている。一言も話す様子がない。
「……姉さんはどんな話をしたんです?」
話を無視するのもおかしいので一応返事はするが、話の腰を折られてしまった垣本さんの事が気が気ではない。
「それがね? カキモトくんはいつも私たちに怪談話をして怖がらせるんだけど、愛子ちゃんがバッサリだったの!」
「いやね? 明らかに矛盾だらけだったから、それを指摘しただけさ」
「でもマナコちゃんカッコ良かったよ」
茶色の短髪が特徴的な彼女の名前は確か、鈴里瑞樹と言ったか。姉さんを風呂場まで案内したのは彼女だ。もう一人の長髪の女性が大城真美だった筈だ。姉さんに着替えを貸してくれた。
鈴里さんの言葉によると、垣本さんの話はあまり喜ばれてはいなかったようだ。
「え! ちょっとぉ!」
垣本さんが声を上げる。その反応を見るに、どうやら嫌がられている事を知らなかったらしい。
「言ってよそんな! 二人ともニコニコして聞いてるからこういうの好きなのかと思ってたよ!」
「相手が気分良く話してる時にブスゥっとしてる女の子なんていません〜」
「ええ〜、良い話のネタだと思って用意してたのにぃ……」
二人の会話を見て、大城さんはクスクスと笑っている。
「だから言ったろ? 女の子受け良くないってさ」
そこで会話に入ってきたのは、温和そうな顔立ちをしている松前大輝さんだ。メガネのレンズを拭きながら呆れ声にため息を混じらせている。
「大輝の言った通りだったよ……後一個、用意してたのがあったのに」
項垂れる垣本さんの背中が妙に小さい。後から聞いたのだが、男性にしては長めの髪と、明らかに染色しているだろう鮮やかな髪色は、どうやら「モテようと」しているためなのだという。いわゆる彼女募集中というやつだ。
「でも、今日ぐらいは聞いて上げても良いよ! マナコちゃんがバッサリだもんね」
「いや、そんなに期待されても困るけれど」
垣本さんは苦笑いを浮かべながら面をあげた。おかげで用意された話は無駄にならなかったわけだが、鈴里さんの様子はそんな事を気にしているわけではないのだろうとヒシヒシと感じさせる。
「え、まだするんですか……?」
「大丈夫よマミちゃん。私達にはマナコちゃんがついてるわ!」
鈴里さんの強引さによって、結局は怪談は続けられる事となった。大城さんはともかくとして、随分と強気だった鈴里さんまで姉さんにすがりついているものだから、僕は必然的にソファーの端に追いやられる事になった。姉さんが「離れるな」と目で訴えるが、こればかりは仕方がない。