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奇跡は起きないけれど

作者: 奏 舞音

 たとえばそう、僕の右腕がピーターパンのフック船長みたいにフックだったり、大砲がついていたり、超能力が使えたり、見ただけで笑えるようなおかしなものだったりすれば、楽しい人生だったかもしれない……。


 毎朝、僕は起きてそんな空想をする。

 ベッドの上で伸びをして、僕は寝癖のついたぼさぼさの黒髪を左手でかきながら、母のいる台所へ足を運ぶ。


 今日も、僕の体には何の変化もない。



「おはよう、母さん」


(しん)、おはよう……って、あんたまたそんな寝癖つけて」


 朝食の用意をあらかた終わらせていた母が、口をとがらせる。僕は母の小言を聞き流して、テーブルにつく。


「いただきます」


 おいしそうな味噌汁を一口すすり、左手で僕は箸を持つ。

 おいしい、と素直に言えば、母の機嫌はすぐに直って、僕に笑顔で話しかける。


「あ、そうだ。信、母さん今日は少し仕事で遅くなりそうなの。一人で病院行ける?」


「大丈夫だよ。僕ももう子供じゃないし」


「何言ってるの、十五歳なんてまだまだ子供でしょう」


 にっこりと笑いながらも、少しだけ瞳の奥には暗い色が隠れている。

 それを見せまいと明るく振る舞う母のために、僕は気づかないふりをして返事をする。

 だって、もしも気づかせてしまったら、母は自分を責めて泣いてしまうから。

 本当に忙しいのだろう、朝食を終えると慌てて母は仕事に向かった。


「さて、僕は何しようかな」


 今、学校は夏休みだ。宿題が大量にたまっている。まだはじまったばかりの夏休みだから、そんなに慌てなくてもいいだろう。だから、僕はテレビゲームをすることにした。


「昨日はボス戦で苦戦したからなぁ」


 母に買ってもらったロールプレイングゲームを、僕はこの夏休み中に何度もしている。外に出れば太陽の熱にやられるし、遊ぶ友達もいない。

 しかし、異常気象のせいで、クーラーをつけていてもじわりと汗が浮かぶ。

 ゲームに夢中になっていると、いつの間にか午後三時を回っていた。

 僕はゲームのセーブボタンを押して、病院に行く準備をする。


「めんどくさいなぁ」


 そう呟きながらも、僕は着替えを済ませて外に出る。

 夏の痛いぐらいの日差しとセミの鳴き声がうるさくて、僕は眉間にしわを寄せた。


 僕は、病気だから病院に行くのではない。

 病院に併設されているリハビリテーションセンターに通っているのだ。


 ――僕の右腕は死んでいるから。


 生まれる時に、右腕を強く引っ張られてしまったために、僕の右腕の神経は伸びてしまい、神経は麻痺してしまった。僕の右腕は、痛みも、熱さも、どんな刺激も分からない。

 母の話では同じように医療ミスで神経が麻痺している子どももいたそうだが、僕とは違って腕や足を動かせる軽度の麻痺の子どももいたそうだ。だからこそ、母はどうして自分の子が軽い麻痺ではなかったのか、と嘆いている。

 それも、自分のせいで息子が”普通”ではなくなってしまった、と。

 僕は物心つく前から右腕の存在なんて気にしていなかったけれど、やはり学校に行くようになるとみんなの右腕と僕の右腕が違うことが気になるようになった。他のみんなは、僕の左手と同じように右腕を動かすことができる。

 そして、僕の右腕が動かないことにみんなが不思議そうな目で見る。左手だけで生活のほとんどをこなしていた僕にとって、右腕というのはただ邪魔なものだったが、みんなにとってはそうではないのだ。

 両手が使えるということはとても自由で、可能性が広がっている。

 だから僕は、右腕が使えるようになると信じてリハビリセンターに積極的に通っていた。

 しかし、一か月、二か月、時が経つにつれて気づいた。

 僕の右腕が生き返ることはないのだ、と。

 そして、思い出した。


『一度死んだ神経は、もう生き返ることはありません』


 いつだったか、僕を担当していた医者が母にそう言っていた。

 ゲームの世界のように、何度でも再生することができたなら、僕は右腕の蘇生のために何でもするだろう。

 この右腕がただの屍ではなく、サイボーグのように武器を仕込めるものだったなら、僕は世界を守るためのヒーローになっただろう。

 この世界は不公平だ。僕は、現実を前にいつも空想の世界に逃げる。使えない右腕のことを考えることを放棄する。

 痛みも何も感じない、ただただ邪魔な右腕が、いっそなければいいのに、と悲観的な気持ちになったりもする。



「今日は気分を変えて違う道で行こうかな」


 肌をヒリヒリと焼く太陽の熱にイラつきながら、僕はあえて明るくそう言った。この暑さのせいで思い出したくもないことを思い出してしまった。

 憂鬱な気分になったり、ヤケクソになったり、悲しくなったり、変に愉快な気持ちになりながら、僕はいつもと違う道を歩いていた。


 小さな公園の側を通りかかった時、一人の少女が砂場にいるのが目に入った。


 何故か、僕はその少女が気になって、ふらりと公園に足を踏み入れた。


「すごいね、それ。大きな山だ」


 五、六歳くらいの少女は、その小さな体で砂場すべての砂を山にしようと奮闘していた。

 そして、僕の声にびっくりして砂の山に盛大に体当たりしてしまった。


「大丈夫?」


 あわてて、僕は少女を助け起こす。

 軽い少女は僕の左手だけですぐに起こすことができた。


「ん、だいじょうぶ!」


 砂まみれの笑顔で、少女は答えた。

 そして、きらきらした瞳で、僕を見つめる。


「ね、ね、おにいちゃん。それ、なに?」


 目を輝かせて少女が指差したのは、三角巾でつるした僕の右腕だった。

 一瞬、僕を変な目で見るクラスメイトの顔が浮かんだが、少女にまったく邪気はなかった。


「実はね、この右腕は悪い魔人を倒すための力を秘めているんだ。今はこの白い布で封印してるんだよ」


 どうせ、この一回きりの出会いだ。

 少女に夢をみせてもいいだろう。僕は軽い気持ちで普段空想していることを口にした。


「じゃ、じゃあ、おにいちゃんは悪と戦うヒーローなの⁉」


「そうだよ」


 僕がにっこり笑うと、少女も嬉しそうににっこり笑った。


「じゃあ! もしなみが悪い人に捕まったら、なみを助けてくれる?」


「もちろんだよ。えっと、君は、なみちゃんでいいのかな?」


 こくり、となみが頷いた。

 その目はまっすぐで、本当に僕が助けてくれると信じていた。

 少しだけ、ちくりと罪悪感が胸を刺す。

 しかし、そうそう少女に不幸が起きるとも思わない。大丈夫だろう。


「おっといけない、僕の助けを待っている子がいる! じゃあね、なみちゃん」


 左手首につけた時計の針は、もうすでにリハビリの時間を過ぎていた。

 違う道で、さらには寄り道をしたために遅れてしまったのだ。

 あわてて僕はなみに別れを告げ、病院に走った。



 ~*~



 なみと出会ったあの日から、何故か僕はあの公園の道を通って病院に行くようになった。

 なみは通る度にいる訳ではなかったが、いる時はいつも砂場で大きな砂山を作っていた。

 そして、いつも一人だった。


「なみちゃんは、どうしていつも山をつくるの?」


 僕も一緒に砂山の制作を手伝いながら、何気なく問うた。

 すると、なみは砂まみれになった小さな手を腰にあてて、胸を張って答えた。


「おっきなお山をつくってね、登るの!」


 楽しそうににっこりと笑うなみに、僕はすごいね、と相槌を返す。


 これまでに、なみが砂山を登れたことはない。

 いつも足をかけたところから砂が崩れて転んでしまうのだ。僕がなみを抱っこすることができたなら、なみを砂山の頂に立たせてあげられたかもしれない。

 僕の腕は、片腕で少女を持ち上げることができるほど鍛えられていなかった。ゲームのコントローラーは器用に片手で操ることができるのに、仲良くなった少女のために片腕でできることは少なかった。

 しかし、なみはこの山を自分で登りたいのだ。たとえ抱っこできたとしても、なみがしたいこととは違うだろう。


「おにいちゃん、今日はずっといてくれるんだね」


 ふと、なみが真面目な顔をして僕を見た。

 今日はリハビリがないのに、なみのことが心配で公園まで歩いて来てしまったのだ。いつもリハビリの時間までしかなみと一緒にいないから、なみは不思議に思っているのかもしれない。


「うん、今日は悪い奴みんなやっつけてきたからね。だから、ずっとなみちゃんと遊んでいられるよ」


 なみの中で、僕はまだ悪と戦うヒーローのままだ。

 なみの前では、僕は障がいを持った憐れな少年ではなく、悪と戦うヒーローになれる。だから、あえて訂正はしない。


「ほんとう? おにいちゃんすごーいっ!」


 パチパチと手を叩いて、僕に笑顔を向ける。

 その目はとても純粋で、僕の笑顔は少しだけ震えていた。


「おにいちゃんがいてくれたら、なみ、もう何もこわくないや」


 なみは時々、ひどく何かに脅えている時がある。僕の思い過ごしかもしれないが、昨日偶然見つけてしまった。

 なみの小さな身体のあちこちに、青黒い痣があることを。

 昨日の僕は何も聞けずに帰ってしまったが、一人になってなみのことを思うと、心配で堪らなかった。

 虐待かもしれない。

 しかし、なみは何も言わない。

 ただ、僕がヒーローだと信じている。

 何の力も持たない役立たずの右腕を、魔法の右手だと本気で信じている。


「うん。僕がいれば、何も怖いことはないよ」


 だから、僕も本気でこの嘘をつき通す。

 頼ってくれる小さな手を、信じてくれる小さな少女を守りたい。


「おにいちゃん、お山できたね!」


 そう言って、また今日も砂まみれになったなみは砂山を登るために一生懸命になる。何度も転んでは僕に助け起こされ、なみは汗だくになりながら砂山に挑む。崩れた砂山をつくり直しては、また登る。

そんなことを繰り返していると、いつの間にか陽が傾いていた。

 少しだけ、陽射しがましになった時、なみが勢いをつけて砂山に走り込んだ。


「えぇぇぇいっ!」


 何度も何度も挑んだ砂山は、なみの汗と僕の汗と踏みしめた分だけ固まり、なみの足をその斜面に弾かせ、崩れることなく立っていた。


「……おにいちゃん!」


「やったな!」


 砂山の上で満面の笑みを浮かべるなみに、僕もめいいっぱいの笑顔を向けた。

 心の底から嬉しくて、達成感がじわじわと広がる。


「これで、おかあさんにもわかるかな! なみは、ここにいるんだって!」


 なみは空を見上げて、おかあさん! と叫ぶ。

 強く、自分の存在を主張するように。


「なみちゃん、お母さんって……?」


 少しだけ、いや、かなり僕の声は震えていたかもしれない。なみはそんな僕に笑顔のまま答えた。


「おかあさんはね、なみのことが見えなくなっちゃったみたいなの。だから、ここからなら、なみのことが分かるかなって」


「どうして、分からなくなっちゃったの?」


「んとね、なみのお家にも悪いやつがいるの。だからね、おかあさんは悪い魔法にかかってるんだと思うの」


 なみの話を聞く限り、家にいる悪いやつがなみを傷つけている奴なのだろう。

 母親が何も言えない、ということはDVでもあるのだろうか。

 本物のヒーローではない僕には、何もできない。

 しかし、警察ならば、きっと何とかしてくれるだろう。


「なみちゃん、安心して。きっと僕がその悪い奴から君とお母さんを救い出してあげるよ」


「ほんとう?」


「あぁ。だって、僕は悪と戦うヒーローだよ。この右腕があればどんな敵でもイチコロだ」


「おにいちゃん、だいすき!」


 そう言って、なみは砂山から僕に向かってジャンプした。とっさに左腕を広げてなみを抱き止めたが、その勢いのまま尻餅をついてしまった。

 我ながら、情けないと思っていると、なみが楽しそうに笑う。


(なみの笑顔には、癒されるなぁ)


 腕の中の小さな存在に、僕は心を救われている。

 右腕はもう動かないと諦めて、リハビリなんて真面目にしていなかった。

 しかし、なみと出会ってから、なみにきらきらした瞳を向けられてから、なみに恥ずかしくない男になろうと決めた。

 動かなくても、可能性がゼロでも、奇跡を信じたいと思うようになった。

 なみは、今まで登ることのできなかった砂山に登ることができた。

 たったそれだけのことでも、これはきっと奇跡だと言えるはずだ。なみの強い想いが奇跡を引き寄せたのかもしれない。

 なみは僕よりも幼いのに、辛く苦しい思いをしてきたはずだ。それなのに、無邪気に笑える強さを持っている。

 なみの笑顔が眩しかった。


 初めて会った時から、僕はこの笑顔に惹かれていたのかもしれない。


「よし、じゃあ僕と一緒に正義の味方に会いに行こう?」


 これ以上、なみに苦しい思いはさせたくない。

 なみを連れて警察に行こう。

 そう思い、僕はなみの手を引いた。


「おい、このクソガキ! 何やってんだ」


 突然、後ろから男の怒鳴り声がした。

 握っていたなみの手がビクっと震えるのが分かった。振り返ると、そこには柄の悪い四十代の男が立っていた。茶色の髪はボサボサで、煙草を口にくわえて僕となみを睨んでいる。


「お前、うちの子をどこに連れてく気だ?」


 なみの父親、なのだろうか。

 それにしては、なみの脅えようが普通ではない。

 だから僕は、この男が悪い奴だろうと確信した。


「僕は、なみちゃんの友達です。なみちゃんのお父さんですか?」


「それ以外に何だってんだ!」


「なみちゃんが怖がっています。虐待、してるんじゃないですか?」


 睨まれて、ドスのきいた声で怒鳴られても、僕は怯まずになみを庇って父親の前に立っていた。


「他人のお前に関係ねぇだろ! なみが言ったのか、虐待してると」


「いいえ、僕が身体の痣を見つけたんです。あなたが殴ったんじゃありませんか? よく自分の子どもを傷つけることができますね!」


 なみを守りたい、という気持ちと同時に、虐待をする親を僕は許せなかった。


 動かない僕の右腕を見て、母は涙を浮かべていた。

 自分のせいで、子どもが障がいを持ってしまった、といつも自分を責めていた。

 母のせいではない。それなのに、母親というものは自分の子どもに必要以上の責任を持ってしまう。僕がこんな腕になってしまったせいで、父と母は離婚した。僕のことで、何度も喧嘩をしていたのを、幼い記憶の中で覚えている。

 そんな母を見て育った僕は、子どもが傷つけば親も同じくらい傷つくのだと思っていた。


『僕がこんな腕じゃなかったらよかったのにね』


 僕がそう言うと、母は目に涙を溜めていつもこう言うのだ。


『ごめんなさい。母さんが、あなたをそういう身体に生んでしまったのがいけないの』


 右腕のことが話題に上ると、母はごめんね、ごめんね、と謝って涙を流す。


 だから、自ら子どもを傷つける親がいることを僕は信じられなかった。

 そして、許せなかった。

 辛くて、苦しくて、それでも支え合って生きようとしている家族がいるのに、傷つけ合って、壊して、無茶苦茶にする家族があるなんて。


「クソガキが、うるせえっ!」


 なみの父親は、躊躇いなく僕に殴りかかってきた。なみの悲鳴が後ろから聞こえる。

 しかし、僕が避ければなみが危ない。僕はとっさに左手で右腕を引っ張った。

 ドン、という衝撃が身体を襲ったが、痛みはなかった。何の感覚も感じない、右腕を盾に使ったから。


「そうやってすぐに手が出るんですね。僕はなみと一緒に警察に行きます」


「警察に行けない身体にしてやる!」


 喧嘩なんてしたことがない。

 同級生たちが取っ組み合いの喧嘩をしているのを見ていることしかできなかった。

 しかし、今、僕は初めてこの不完全な身体を使って殴り合いをしている。

 ここで僕が怖がって逃げてしまったら、なみが酷い目に遭う。

 それが嫌だったから、怖くても立ち向かった。


「痛くもかゆくもない!」


 尻もちをついた僕に、父親は容赦なく殴る蹴るを繰り返す。

 しかし、そのほとんどを右腕を受けていたために、本当に痛みは感じなかった。

 父親が殴り疲れたところで、僕は立ち上がった。


「僕は、ヒーローになるんだ!」


 そう叫びながら、僕は父親に向かって体当たりする。

 ドサっと、おもいきり砂場に倒れた父親は、さきほどまでなみと一緒につくった山にもたれかかって呻いている。


「今のうちに、行こう!」


 泣いているなみの手を引いて、僕は近くの交番まで走った。

 そして、優しそうな警察官の人に手短に事情を話して、なみをお願いした。

 その後のことは、薄らとしか記憶にない。

 なみが泣きじゃくる声を聞きながら、気を失って倒れてしまったのだ。



 ~*~



『ねぇ、お母さん。どうして僕に“(しん)”っていう名前をつけたの?』


 いつだったか、僕は母に聞いたことがある。

 学校で、自分の名前の由来について調べてくる、という宿題が出たからだ。


『それはね、自分のことや可能性を信じられる子になってほしかったからだよ。母さんはね、信には強く生きてほしいの』


 まだその意味をぼんやりとしか理解できていなかった僕は、身体を鍛えれば強くなれるのかと母に真面目に聞いたものだ。

 母が言いたかったのはそういう強さではない。

 どんな境遇でも、自分自身を信じられる強さ。

 奇跡を、希望を信じられる強さ。

 明るい未来を信じられる強さ。

 そういう強さを、母は願っていたのだ。

 それなのに、僕は今までずっと、自分の右腕のことを信じたことはなかった……幼いながらにも懸命に前を向くなみの笑顔に出会うまでは。



 ~*~


 

 目を覚ますと、真っ白い天井が目に入った。

 どうやら僕の部屋ではないらしい。

 僕は目覚めた時のいつもの習慣で、右腕を動かそうと試みる。


 今日も、僕の右腕は動かない。


「おにいちゃん!」


 急に、右腕の方から呼びかけられた。

 僕が右を向くと、なみが泣きながら笑っていた。


「助けてくれて、ありがとう。おにいちゃん、本当に強かったんだね」


 そう言って、白い包帯でグルグル巻きにされた僕の右腕に、なみが小さな手を置いた。

 そして、「ありがとう」と泣きながら、右腕をゆっくり、優しく撫でる。

 その後ろには、華奢な女性が立っていた。なみとよく似た大きな瞳を持っていたが、彼女はひどく憔悴した様子だった。きっと、なみの母親だろう。なみの母もまた、僕に頭を下げて礼を言った。

 僕は言葉を発することができずに、ただ首を横に振った。

 そんな僕の右腕を、ずっとなみが撫でている。

 その光景を見ながら、僕はとても不思議な心地になっていた。

 右腕の感覚なんて、とうの昔に死んだはずなのに、何故か、なみに触れられているところが温かいような気がする。涙が落ちたところが、熱を持っているような気がする。


「おにいちゃんは、なみのヒーローだよ」


 その言葉に、何故か僕の目頭が熱くなった。

 涙で滲む視界の中でなみを捉え、僕はにっこりと微笑んだ。


「僕の方こそ、ありがとう」


 なみと出会って、僕はようやく自分を信じたいと思えるようになった。


 右腕の感覚が戻る、動くようになる、そんな奇跡は起きないけれど……。


「ねぇ母さん。僕、今のままでも幸せだよ。だってね、僕は誰かを守るヒーローになれたんだから」


 母は頷いて、僕の右腕を優しく撫でた。

 これからも、僕はこの右腕を抱えて生きていかなければならない。

 それでも、諦めていた時は重いだけだった右腕が、今は少しだけ軽くなっていた。


 フック船長のフックでもない、超能力もない、大砲もついていない、面白くもなんともない、神経が死んでいるこの腕が、僕の腕なんだ。


 そう、自信を持って僕は生きていく。



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