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挿話その五「黒松屋の船出」

挿話その五「黒松屋の船出」


「達者でな、勘助、いや、勘内(かんない)。困り事があれば……いや、なくとも時々は顔を見せるのだぞ」

「はい、大旦那様。本当に、お世話になりました。このご恩は一生忘れませぬ。お教えいただいたとおり、これからも、商いの正道を邁進いたします」


 黒瀬から戻った勘助は、仕上げを頼んでいた居食い猿虎の毛皮を職人から受け取ると、三州美洲津の海道屋本店に向かい、出立の挨拶を済ませた。


 これからは海道屋東津店番頭勘助ではなく、新たに黒松(くろまつ)屋の主人勘内と名乗る。


 右も左も分からぬ丁稚として八つで奉公に入り、暖簾分けを許されるまで二十年。


 時に勘内、二十八歳のことであった。




 さて、商家奉公人の独立を意味する『暖簾分け』だが、大きく分けて二種類ある。


 一つは文字通りの暖簾分け、既にある支店を一つそのまま下げ渡すものだ。


 店舗だけでなく、得意先も仕入先もそのまま引き継ぐわけで、安定した立ち上がりが約束されている。

 無難ではあるが、商売敵や評判も引き継ぐわけで、気の弛みは許されない。


 もう一方は、新たに商いを始められる支度金を与える形式であり、こちらの方が多かった。


 店舗の数も無限ではないし、一旗揚げるのだと、主人に願い出ることもある。


 勘内は後者だが、それまでの働きぶりにより主人――大旦那からの覚えもめでたく、支度金五百両に加え、黒瀬守より受けた大仕事も引き継ぎを許された。


 五百両と言えば、その黒瀬守が驚いて目を見開く金額であったが、同業者からすれば、主人の度量を賞賛しつつも、大盤振る舞いとまでは言えないあたりだろう。


 三州東南部を中心に幾つもの店を持つ海道屋の支配人格番頭の給金は年に百両で、商圏内の人口や町の数、商いの規模からすればほぼ妥当、門出の餞としては上々の部類となる。


 その上で、勘内は店を出すと決めた東下およびその近隣の発展について、その後押しを願い出た。


 結果、このような厚遇と相成ったのだが、海道屋が得をするのかと言えば、何のことはない。


 貧しい東下が経済的に豊かな発展を遂げれば、即ち買い先売り先の充実に繋がり、取引の量が増えるのだ。


 当初は小店(こだな)一軒、後押しの意味もほぼないが、取引の量が増えれば、自ずと売り上げと利益は上を向く。


 無論、勘内を相手に争う必要は、全くなかった。

 対等な商人同士として、高値の品は高値なりに、安い品は安いなりにと、『普通に』取引を行うだけで、海道屋は損をしないことが約束される。


 ついでに言えば、勘内が成功したなら後押しをしたのは海道屋だぞと、胸を張っていればいい。

 主人の器量の大きさは、商いの評判に直結した。


 だがもしも、勘内が失敗したならば……。


 独立した元奉公人ではあれど、今は独立した商人と切り捨てればよいだけ、元主人と言え流石にそこまでの責任は持てない。


 残酷なようだが、その末路も商人の道の行き着く先、その一つであった。




 その勘内は、海道屋本店を出ると、唯一の部下である手代の小吉(こきち)を連れ、そのまま口入れ屋へと向かった。


「旦那様、向かうのは小田(おだ)屋さんですか?」

「そうだ。挨拶もしておきたいが、半助に用がある」


 小吉は丁稚の頃から勘助が世話をして育てた手代で、気心も知れた仲である。将来は黒松屋の大番頭に収まってくれれば嬉しいが、勘内のように独立心が鎌首をもたげても不思議ではなかった。


 なにせ小吉は、勘内を一番身近に見てきた手代であるからして。


 まあ、どちらでもよいのだ。

 少なくとも十年の余裕はあるし、独立を選んだなら、大旦那様が勘内にしてくれたように祝って送り出してやればよい。


 それもまた、商人としての評判を一つ押し上げる行いであった。


「失礼致す」

「おや、海道屋の勘助さんではありませぬか!」

「おお、久しいな、梅三。半助はおるか?」

「はい、ただいま!」


 小田屋の番頭半助は、歳も同じなら丁稚奉公をはじめた時期もほぼ同じ、店は違うが長屋が隣合わせであったことから、親しい友達として長い付き合いになる。


「おう、勘助!」

「半助、ついに大旦那様から暖簾分けを認めて戴いたぞ! 今日からは、黒松屋の勘内と呼んでくれ!」

「なんだと!? そうか、ついにか! おめでとうだ、畜生め!」


 ひとしきり祝われ、近況を交わしてから、勘内は本題を切り出した。


「半助、実は今、都に上る仕事を頂戴しているんだ」

「ほう?」

「東津で五百石積みの廻船を仕立てた。諸々の入り用で、手元にあるのは大旦那様から授けていただいた五百両きりだが、相乗りに良さそうな品はないか?」


 廻船の雇い賃に百両かかり、開店費用に百両を取り置きしているが、それらは貯め込んだ給金から当てていた。


 小袖と羽織、煙草入れや根付けも新調したが、これも商人として必要な道具だ。

 見かけの善し悪しで足元を見られることもあるから、身だしなみには気を抜けない。


 小番頭になってすぐに結婚した半助とは違い、勘内は未だに独身だった。そのあたりは多少ならず、無理が利く。


「都か……。一日、待てるか?」

「ああ、いいぞ」

「なら、手間賃は祝儀にしといてやる。船は?」

「南浜口『への四』、『いろは丸』だ」

「任せろ!」


 小田屋は口入れ屋、人の手配が本業だが、人の集まる場所には情報も集まりやすい。


 勘内は、大きな笑顔で頷いた。




 翌日、五百両で仕入れられる限りの荷を積んだ上で、都行きの旅客まで募った勘内は、美洲津の港を後にした。




 ▽▽▽




 三州から都まではふた月、順調な旅とは行かなかったいろは丸である。


 ともかく、船旅の時期が悪かった。

 当初より分かっていたが、嵐の季節である。二日、三日と港で過ごし、のろのろと距離を稼いだ。


 だが無理をせず、航海を船頭任せにしたお陰で、大きな海難には遭わず都へとたどり着くことが出来た一行である。


「数日は掛かるが、留守を頼む」

「へい、旦那」


 船を着けた岸壁で案内を雇い、大通りの屋台で蕎麦をすすり、昼間から一杯引っかける。


 腹を満たしつつ、蕎麦屋の親父と世間話を交わせば、都は美洲津に比べ大きいことは間違いないが、それ以上に物価が高止まりしているのだなという印象を受けた。


 だが、高いからこそ商いも成り立つわけで、それこそ商人の腕の見せ所であろう。武家で言えば、都は大きな合戦場なのだ。


「さて……」


 まずは三州から運んだ荷を売ってしまいたいところだが、旅客より得た船賃もある。


 大事な商売の種、焦って買い叩かれるよりは、一息入れて落ち着いてからの方がよかろうか。


 幾らか思案した勘内は、先に頼まれものを片付けることにした。


 向かったのは公家屋敷、薄小路家である。

 黒瀬守の奥方の一人、静子の実家であり、昵懇であると聞いていた。


「お初の目通りにて、御無礼仕ります。手前は三州『東下』の黒松屋、しがない田舎商人(あきんど)にございます」

「三州東下と申されましたか!? では……」

「はい。手前、黒瀬守様をはじめ、数通の便りをお預かり致しておりまして……」

「遠路ようこそのお越しを。長旅、お疲れでありましょう、どうぞお中へ」


 裏の勝手口にて名乗れば、三州東下と聞いただけで歓待された。

 手紙を差し出すと、茶菓子付きの薄茶が出てきただけでなく、小吉まで風呂に入れて貰うという上客の扱いだ。


 公家の屋敷など、武家のそれとどう違うのかさえ知らない勘内である。

 失礼さえしなければ何とでもなるだろうと、腹は括っていたが、良い方に外れたらしい。


「吾は薄小路家四十四代、従五位上図書頭、名を信彬(のぶあきら)と申す。遠路よう参った」


 ……当主自らのお出ましに、そのような気分はすぐに吹っ飛んだが。


「ほう、名品の毛皮か……」

「はい、正に。滅多と手に入らぬ逸品ながら、黒瀬守様は手前に差配をお任せ下さいましたのです。豪商『勢田屋』への紹介状もお預かりしておりますれば、これを都で売り、良き荷を仕入れます」


 三州の筆頭家老、河内島鎮護大監(だいげん)に相対した時と同じほどの緊張を一瞬にして引き出され、更に世間話で場を繋ごうと黒瀬守の様子などを伝えれば、それをいいように扱われる。


「ふむ、一度検分させい」

「は?」

「勢田屋よりもいい相手を紹介できるやもしれぬ」 


 にやりと笑う図書頭に、勘内は知らず冷や汗を流した。

 そう言えば、義父は知恵者と、黒瀬守に聞かされたような覚えもあったような……。


 薄小路図書頭は、田舎の知恵者ではない。

 都の知恵者、それも帝都の内裏にさえ名の通った知恵者である。


 あれよあれよと言う間に、手の内どころか今後の密かな野望――あわよくば御用商人として黒瀬国を大きく発展させ、東下に黒松屋ありと天下に名を為したいなどという勘内の腹さえ、洗いざらい吐かされた。


「なに、悪いようにはせぬ。その野心、大いに結構。黒瀬の隆盛は、吾らも望むところよ」


 ああ、駆け出しの商人にどうこうできる相手ではないのだなと、勘内は平伏した。




 だが翌日、話は勘内の思いも因らぬ方向に大化けすることとなった。


 預かった居食い猿虎の毛皮は、図書頭の口利きで、懇意だという西辻少納言の手に渡ったのだが……。


「おお、これはほんに見事! さぞ、帝もお喜びあそばされよう!」

「!?」


 せっかく預かった勢田屋への紹介状は、無駄になってしまった。




 ▽▽▽




 数日後、勘内はいろは丸の船縁にもたれ掛かり、都の大川を行き交う大小の廻船をながめつつ、大きなため息をついていた。


「旦那、どうしたよ?」

「うむ……」


 船頭の声に、生返事を返す。


 逸品の毛皮に目が眩み、欲を出したのが間違いだったのかと己に問いつつ、勘内は重い頭を上げた。


「お殿様からお預かりした毛皮は良い値で売れたってのに、そのため息かい? ついでに船にゃあ、三州じゃ見たことのねえ都の品々がたんまりだ。……あっしにゃ、旦那の落ち込みがわからねえよ」


 船頭の言うように、表だけを見るならそれこそ大成功、勘内は胸を張って三州東下に帰れる。


 三州で積んだ荷も、時期が良かったのか予想よりも良い金額で売りさばけていた。




 しかし、内情を見やれば、とても誇れるものではない。


 居食い猿虎の毛皮は売りに出されることなく、帝に献じられていた。

 そこには当然、図書頭の知恵が絡んでいる。


 中立派の嶺州と懇意にする西辻家が間に挟まり、毛皮献上の功にて西辻少納言は近日中に参議(さんぎ)となるそうだ。

 代わりに『二千両』の礼金が図書頭に渡されたが、この二千両、無論そのまま勘内に渡されることはなかった。


 口利きの手間賃として図書頭が半金の千両を受け取ったが、全く反論は出来ない。

 当初の予定通り勢田屋に売れば、最高で千両にはなるだろうと、勘内自身が図書頭に零していたからだ。


 しかも、海千山千の豪商を相手に駆け引きを行うことなく、ぽんと千両手渡されたわけで、勘内としては平伏しつつ受け取るしかないのである。


 だが、図書頭が心底逆らえぬ相手と思い知らされたのは、そこからだ。


 内々の集まりだという会合に引っ張って行かれ、勘内はお歴々の前に引き出された。


『これなるは、三州の黒松屋でございます。殊勝にも、用立てたこの千両を使い、黒瀬松浦を盛り上げたいと申しております。何卒、皆様の知恵をお貸しいただきたく』


 そんな事は一言も言っていないが、逆らっても無駄であろうことは、すぐに理解した。


 上座には娘を帝の側室につけたという公家がでんと構え、内裏勤めの公家衆や御忍五党の党首すらが居並ぶ中、何故に自分は『まこと、あっぱれである』だの『その意気やよし』だのと持ち上げられているのか、よく分からなくなってくる。


 新たに暖簾を掲げたばかりの商人には、過ぎたる好機にして厚遇であろう。

 しかしながら、上手く立ち回ってやろうなどとは、思わなかった。


 己の格が足りぬと、勘内は自覚させられたのである。

 やはり都は、都であった。


 ちなみに、お歴々が決めた千両の使い道だが、三州東下への船を仕立てる費用と、諸々の始末、それに黒瀬への支援である。


『松浦には今更であろう』

『で、あるな』

 

 これまで、都には眩しいものを感じていた勘内であるが、光あらば影も濃くなるようで、都落ちをわざわざ望む人々がいるらしい。


 そういえば、世話になった黒瀬の遠山衆も、ある種の都落ちであったと思い出す。


 都での千両は、一財産ではあっても、都のあり方を大きく変えるほど影響はない。せいぜいが、廟堂の人事に口を挟める程度である。


 だが、東下での千両は、国が大きく変容するのだ。


 千両の及ぼす影響は発展に従って徐々に小さくなるが、それは黒瀬国の血肉となった。


 中は黒瀬守が武勇で盛り立て、外からは図書頭ら都人が人・金・物を投じる……黒瀬国隆盛の秘密はこれかと、得心する。


 だが、娘婿ながら高が知れた細国大名にここまで入れ込む裏は、正妻が帝の娘(ゆえ)かと考えていた勘内にとり、予想外であった。


『それも、間違いではないのだがな』

『都は昨今、居心地が、の』

『武州の隆盛が即ち悪、とは申すまい。……だが、(いささ)か目に余るのよ』

『さりとて力で敵う(よし)もなく、こうして細々と松浦を育てておるのじゃ』

『三州の片隅では、武州の目も届き難かろう。それも狙いだ』

『黒瀬守様の孫の代あたりで、並の小国にでもなっておれば……ふむ、夢のまた夢、ですかのう』

『夢のまた夢、よいではないか』

『であるな。吾らの孫も、今よりは楽が出来ていよう』


 優れた政略家は、何でもないことのように十年先二十年先を見据えて手を打つと言うが、俎上に上がっている黒瀬守でさえも老いて去った先の未来を、このお歴々は見据えていた。


 浮き沈みの激しい商家である勘内には、己の数年後でさえ確かに見えない。

 一つの仕入れ、一つの商いに力を入れるのとは全く別の、正に天下を見据えた政略、その一端を垣間見せられたのである。


 武家の武断に対して、公家の(まつりごと)とは恐ろしく気が長いのだなと、勘内はごくりとつばを飲み込んだ。




 考え込んだからとどうなるものでもないのだが、勘内の気は晴れなかった。


「潮目が変わりやした。出しますぜ」

「……ああ」


 いろは丸は、引き船にてゆっくりと岸を離れた。


 自分がいろは丸なら、図書頭らは引き船か。

 港を出るまでは、帆を張ったとて、他の廻船に突っ込むか、岸壁に腹をこするかするのが関の山だ。


 差詰め、黒瀬守は……。


 いや、自分はいろは丸でいいのだと、勘内は気付く。


 混み合う港で、無理をして船を傷める必要はない。


 黒松屋の船出は、黒瀬守から荷を預かり、図書頭より港を出る手助けを頂戴したわけだが、港にいて役に立たなかったのではなく、港が本領を発揮する場ではなかっただけのこと。


 勘内と黒松屋は、自らの活躍の場である大海原に――商いの海に出てから、大きくを帆を張ればいいのだ。


「……よし」


 気分を切り替えた勘内は、三州に戻ってからの手配を練るべく、小吉に筆と紙の用意を申しつけた。


 

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