第七十六話「氷田近次郎総隆」
第七十六話「氷田近次郎総隆」
ともかく近次郎を立たせ、船の受け入れを先に済ませることにした。
鷹羽丸は流石にでかいが、どうにか港には収まりそうだ。
……よく見れば艫――船尾に綱が結んであり、手漕ぎの小船を数艘引っ張っている。
「あれも豊州から持ってきたのか?」
「あれらには空の樽を結びつけ、波に飲まれても沈まぬように仕掛けしてござる」
「なるほど……」
とりあえずうちの小早を横に除け、投錨して様子見をしていた廻船も岸に着けさせる。
やってきた氷田一党は総勢二百余人、廻船には子供や老人も乗っており、俺は炊き出しを命じた。
「信且、遠山衆の時と同じく、皆に手厚くしてやれ。城の広間も解放だ」
「ははっ! ……誰ぞ、城に走れ! 船はお仲間、炊き出しは二百と伝えよ!」
「氷田殿はこちらへどうぞ」
「かたじけない。迅吉、皆をまとめよ。黒瀬の方々には失礼のないようにな」
「はい、近次郎様!」
近次郎を伴って城に戻り、二の丸の客間で改めて事情を聞き出すことにする。
……おそらくは受け入れることになるんだろうが、未だ決めかねているところもあった。話を聞かないと、その判断も出来ない。
しばらくして朝飯も出てきたが、炊き出しだろう白身魚と雑穀の雑炊に、ワカメと貝の吸い物、飛び魚の一夜干しと東下菜の味噌和えがついてきた。……いつもより一品多く、汁物の具が貝と贅沢なのは、近次郎来訪のお陰である。
「松浦殿に見逃して貰った後、大川の上流、西湊に左遷されたが、どうにも居心地がな……」
「……そりゃあ、申し訳ない」
「示し合わせたのが露見したわけではござらん。お気に召されるな」
本当に気にしていないようで、近次郎は食後の茶を美味そうにすすりながら、庭の方に目をやった。
布団を抱えて走るうちの水主や、妊婦だろう氷田の女性に手を貸す女房らが、わいのわいのと賑やかだ。
「しかしだ、多少は身に覚えがある某らは仕方ないが、それ以上に海衛府の空気が様変わりしてな」
「海衛府が?」
「ただでさえ、都付近の海路は大大名に気を遣わざるを得ず面倒であるのに加えて、どうにも武州の圧力が強くなった」
海衛府は、海の衛士府ともいうべき、都の海の守りを担う組織である。
名目上は帝家直轄の水軍なのだが、各地の大名が戦力を負担していた。近次郎も確か、豊州から派遣されていたはずだ。
そのお陰で正に、海衛府は大倭勢力図の縮図となっているそうなのだが……。
「これはよくない兆しと思っていた矢先、某の元上役、皆渡大尉様の上司で、杉浦海衛佐様がよく分からん理由で罷免されてな」
「海衛佐というのは……すまない、相当に偉い位だと思うが、よく知らない」
「海衛府で二番目に偉いお方だ。……それはともかく、本当のところは知らぬが、反武州の筆頭、寒州の出であられたからではないかと噂されていた。代わりに武州の係累で、海知らずの阿呆が来たらしいからな」
ここが思案のしどころだったと、近次郎は続けた。
「某ら氷田一党は武州派の豊州日羽閥であったが、傍流もいいところでな。関船一艘の維持にも苦労するような貧乏一族なのだ。そこにきてあの失態、立場など既にないも同然だった。ところが、そんな某に声を掛けてきた者がおった」
懐から取り出された書状が、俺に向けて差し出される。
「その者は清澤家の使いだと名乗り、松浦殿の事情についてあれこれと聞かせてくれたが……その後、清澤の御当主と見えて某も腹を括った」
最初から刳門様の書状を出せば、わざわざ土下座などせずともよかっただろうと思ったが……彼なりの、覚悟の現れであったのかもしれない。
書状はあとから静子に代読して貰ったが、日付は半年も前だった。
都からの距離だけでなく、その時間には近次郎の葛藤も含まれていたのだろうが、聞くのは躊躇われた。
「元より大してうま味が得られるような役得もなく、日羽の大殿様への義理立ても……義理を立てていた割には、大層渋かったか。ならばいっそと、清澤の御当主の言葉を頼りに、松浦殿を訪ねたのよ」
「そうか……」
「出奔の表向きは武州に睨まれているとしたので、お咎めがないどころか詫びの言葉さえあったが、まあ大して違いはござらぬ」
人が増えるのはありがたいものの、受け入れにも限度はある。
今の黒瀬では、器が小さすぎて現状でも飽和に近い。
しかし……こちらが悪かったわけではないが、若干の申し訳なさもあり、また、刳門様の紹介とあれば無碍に扱えるわけもなかった。
「氷田殿の望みは、氷田一党の丸抱えと聞いたが……正直なところ、余裕はない。黒瀬松浦家は三州東下でも有数の貧乏大名なんだ」
「うむ、存じ上げている」
俺には小遣い銭さえほぼないし、家老の俸禄でさえ十両四人扶持、今日の朝餉はこれでも上客向けだぞと、現状を伝えておく。
「新しく来た者だからと虐めたり不義理を働く気は全くないが、知らなければそう受け取られても仕方がないほど、ここの暮らしは都と差がありすぎる」
「むう……」
「白い飯など滅多には食えないし、都ならばそう贅沢でもない麺の蕎麦でさえ、こちらでは祝いの時だけ出るような大御馳走だぞ。国主としては恥ずかしい限りだが、それでも腐らず前を向かないと、東下では生きていけない。……いいだろうか?」
「松浦殿、某らも覚悟はあり申す。だが松浦殿であれば、少なくとも、理不尽な押しつけはなさるまいよ。あの時と同じにな。……それに海の上はともかく、都はどうも、性に合わぬ」
都の政争に振り回された男が、ここにも一人、いたようだ。
ならばもう、俺も頷くしかない。
「分かった。当座の暮らしには、責任を持つ。氷田殿とその一党の処遇については、追々話し合って決めよう」
「かたじけない。氷田近次郎総隆、松浦黒瀬守様に誠心誠意お仕え申す。以後は近次郎と呼んで下され」
黒瀬はその日、従八位下氷田近次郎総隆とその一党を、新たな民として迎え入れることになった。
飯の後、手持ちぶさたというわけでもないが、いつぞやのように大広間も明け渡してしまったので、案内がてら城をぶらぶらと散歩する。
これでも遠山衆の半数が城下から遠山に移り住んでいたお陰で、長屋の部屋を幾つか用立てることが出来ていたから、少しはましなはずだ。
「とりあえず、この分だと俺も近次郎も、当面の寝所は矢狭間で藁筵が寝床になりそうだな」
「某はともかく松浦殿は、いや、殿はご寝所にて……」
「俺の部屋は本丸の隅っこだが、妊婦や乳飲み子を持つ母親に都合がいいんだ」
「……まっこと、申し訳なく」
既に城内は氷田一党の人々で溢れかえり、今日のところは正式なお披露目など無理だった。
日を改めて、配置や役職も決めてから行う予定だ。
天守に上がってあちらは遠山、そちらが志野と指を差し、港に目をやれば、他を圧倒する大きさの鷹羽丸が目に入る。
「しかし、改めて見ると、鷹羽丸は大きいな……」
「都の海衛府では一番目立たぬ並の関船ながら、氷田の身の程には余り申した」
隣に並んだうちの小早と比べれば全長で倍以上、二十メートル近くはあり、船首から船尾に至る堂々とした総矢倉と、両舷で四十挺にもなる櫂は、如何にも力強く見えた。
以前とは違い、黒瀬で暮らすうちに船の知識も多少はついてきた俺である。
お陰で余計な疑問も浮かんでしまった。
「なあ、近次郎」
「はい、殿?」
「氷田一党は老人や子供まで含めても二百人少々、だったな?」
「ははっ」
「鷹羽丸は漕ぎ手だけでも四十人は必要だろうに、人手はどうしていたんだ? それに、他の廻船も一党の持ち船なんだろう? 男衆が明らかに足りないように思うんだが……」
働き盛りの男ばかり二百人の集団ならなんとかなるかもしれないが、それでもきつかろう。
仮に半数でも、無理がありそうだった。
旧黒瀬も水主の比率は高かったが、漁師も兼ねていたからこその人数だ。
「水主の半数は、地元近隣と都で雇うておりました。廻船も同様にて、船頭以外は雇いの水主でござる」
「なるほど……」
小早の長久丸だけは国許で水練や漁に使っており、純粋に氷田の民のみで運用していたそうだ。
氷田一党も、なかなか苦労していたらしい。
地元の食い扶持は長久丸や小船の漁労で凌ぎ、鷹羽丸の運用費は廻船四隻の運用益で稼ぎ出していたという。
だが鷹羽丸は、軍役に就くことで氷田一党の立場を安堵していたわけで、無駄とは言えなかった。
「出仕がない分、黒瀬の方が恵まれているのかと思いそうになるな」
「いかにも」
二人で顔を見合わせ、大きくため息をつく。
これからは……せっかくの鷹羽丸だが、黒瀬では使い道に困りそうだった。




