挿話その四「我ら兎にて候」
挿話その四「我ら兎にて候」
都より船が到着した、春のとある日。
松下戌蒔は夜遅く、客人にしてかつての上役、備の党首玄貞の元を訪れていた。
忍党新立の話は通ったと先に報せは来ていたが、諸々の引継や決め事、特に後から一枚噛んだ蕪党との調整も必要である。
直接やり取りが出来る今の内に、片付けねばならぬ事も多かった。
『そう言えば、の』
『はっ』
『黒瀬守様より、新党に兎の一字を頂戴したぞ』
新たな忍党の名に、かように弱き狩られ者の名を下されるなど、殿のお考えが分からぬ……。
玄貞より名を聞かされた新党首戌蒔――忍名『兎戌蒔』も、例に漏れず困惑を露わにした。
馬鹿にされたとは思わないが、何故に兎?
兎は、弱い。
足は速いが、犬を嗾ければ捕まらぬということもない。
肉は旨いし毛皮も重宝するが、そこまで貴重なものでもない。
兎の股引、兎兵法、兎の糞、思いつく諺も、あまり良い意味ではない。
……いや、そこが松浦黒瀬守様――殿の狙い目、相手を油断させる為の名かと、戌蒔は忙しく考えを巡らせた。
殿は異界よりの世渡り人にて、時折突拍子もないことも仰る。
だが、聞けば理に適っていることも多かった。
真面目な人柄だと見抜いていたし、裏表もあまりない。民草のみならず忍にも心安いお方だが、どちらにせよ、兎の名にからかう意図などないことだけは、戌蒔も見抜いていた。
『大長様、兎とは、如何なる意味でありましょう?』
『それがな、兎は……強いそうだ』
『ほう?』
我も同じく不思議に思うたと、笑顔の玄貞が続ける。
殿の国にもか弱き普通の兎はおるそうだが、中には人の首をも一閃で狩る首狩り兎がいて、手練れの侍や術者でさえ時に首と胴が生き別れるという。
また幸運や多産など、発展を意味する縁起のいい生き物とされていて、武と運、両方を兼ね備えたいい名だろうと、笑っておられたそうである。
殿に於かれては、兎とはすばしこい強者という認識であられたか。
姿を偽り、鋭き刃を内に秘める……ああ、敵中に潜り込み仕事をする姿など、正にそれだ。
なるほど、兎は忍の一面である。
『……承知』
ならば、その名に相応しき忍になりて候と、戌蒔は重々しく頷き、玄貞に平伏した。
だが……自らが答えを聞く前にたどり着いたこの困惑、他の忍党にはどう映るや?
それもまた、面白いやもしれぬと、戌蒔は内心で笑みを浮かべた。
▽▽▽
兎党の結党より数日。
忍なら入り用だろうと、殿から与えられている本丸隅の荷物置き場兼用の小部屋で、戌蒔は三寸四方ほどの小さな紙に、忍手紙を書き付けていた。
党首は船に例えれば舵取り、しかも見せ札としての役割も担うから、戌蒔はそれなりに忙しい。
表の顔である松浦家上士御庭番衆筆頭の仕事も、裏の本業である殿とその家族の護衛も、それぞれに気が抜けなかった。
しかし、負担は大きいがやりがいもある。
ましてや、自分とは縁もないと思っていた侍が表の顔になるなど……世の中、面白くできているらしい。
「長」
「何か?」
兎の名の由来は、既に手勢全員に飲み込ませてあった。
申樫らも不思議そうな表情を一様に浮かべていたが、由来を聞かせればなるほどと頷き、得心している。
この、皆に共通した意識から生まれる結束――兎の名を聞いた時の困惑とその後の理解さえ殿の思惑かと、認識を新たにしてしまった。
備と蕪、双方出身の忍のわだかまりは、既にない。
皆、揃って『兎』である。
「東津の茜党に向かわせていた猪楡が戻りました」
「うむ」
茜党は美洲津に忍屋敷を置く蛤党などと共に、兎と同じく備の系譜に繋がる忍党である。
大長玄貞から話は通っているだろうが、新立の挨拶は欠かせなかった。
差し出された忍手紙に目を通し終えると、細く割いて煙草盆の炭にくべる。
向こうも党首が代替わりしたばかりで、何かと忙しいらしい。
それでも都に比べれば、幾分ましどころか、暇を囲うに近い状況だ。
……少なくとも、近隣の忍党と相争うようなことなど、こちらではほぼ起こり得ない。
正確を期するなら、相争って奪い合うほどの仕事がどこにもない、というところか。
都では一口十両二十両の片手間仕事でさえ、こちらでは重要な案件と見られるほど、格差は大きかった。
余計な手間を掛けて仕事を得ても、実入りが合わないのだ。
しかし、絶対とは言えないのが、兎党の苦しいところである。
殿の正室和子様は、かつて、武州の血に連なる条宮月子様より目の敵にされていた。
それが為、密勅による『大仕事』が備党へと持ち込まれたのだが、現場を引き継いだ戌蒔も、事の重大さは理解している。
今の兎党は新立直後にして、その大仕事に掛かり切りで手一杯、という表看板があり、同時に備党から仕事料が下されていた。
故に焦る必要などないのだが、この仕事、条宮様の『情』が発端であり、損得の理非を説いて武州が手を引く、などということはない。
そも、長く続くこの騒動は条宮様の得手勝手の結果であり、また、武州にはその程度の些事、姫を諫めるほどの重大事とはなり得なかった。
条宮様も、今は嫁ぎ先が決まり掛けている大事な時期で、和子様への興味も薄れていると備からは届いていたが、いつ何時、その悪感情がこちらに向けられるかなど、誰に分かったものではない。
万が一への備えも怠ることは出来ないが、何もかもを準備万端憂いなしと言い切れるほど、兎党も、そして黒瀬松浦家の力も、大きくはない。
今は黒瀬発展への助力こそが、殿とご一家の安全に繋がる段階だった。
せめて下国の中くらい……数千石程度の国でないと、忍も何かと動きが制限され、対応策を打ち難いのである。
忍の仕事云々は、もう一つ後の話になった。
「長、夕風です」
「入れ」
夕風は、女房衆に混じってご一家を護衛するくの一である。
都にいた頃は、上女中として公家や武家の奥向きに入り込み、中から守りつつ差配する――依頼主への見せ札にして切り札――のが得意だった。
今は、『思わぬ事態』で自由に動けなくなってしまった朝霧に代わり、夕風がくの一の組頭を引き継いでいる。
「奥向きの様子はどうだ?」
「はい、皆様つつがなく。今は落ち着いておられます」
「うむ。……黒瀬衆の奥方と交流を持たせて、正解だったか?」
「はい」
都からの船に驚喜されていた奥方様や女房衆だが、下手に郷愁が呼び起こされぬよう、戌蒔は夕風を使ってそれとなく導いていた。
調略というにはあまりにも長閑、手練手管というにはあからさまながら、資子殿に『女房様らに息抜きを用意しませぬか。せっかくですから、黒瀬の女衆にも声を掛けましょう』と、吹き込んだのである。
忍の字は 刃に心と 書き候
心なくして 忍の字ならず
古くより伝わる歌だが解釈は様々、それもまた忍の心よと、備の先代党首、備玄犀が笑っていたのを思い出したのだ。
忍の護衛仕事とは、さて、その身を守るだけなのか?
状況にもよるが、答えの出ぬ問いでもある。
だが奥向きの平穏は、ある種の安全にも直結した。
▽▽▽
その平穏は、早馬と共に打ち破られた。
『北の段坂帯山にて、魔妖大挙襲来! 黒瀬守様には軍役出仕を求むとのこと!』
殿に進言し、御庭番衆共々軍役に加えて貰う。
……どうにもうちの殿は、前に出過ぎるのだ。
自らを殿置き下の者を逃がそうとするなど以ての外なのだが、困ったことに、殿は並の人ではなかった。
六尺の堂々たる体躯と、それに相応しい膂力をお持ちながら、兎の如く素速い動きをも併せ持ち……一人で敵に突っ込み、関船一艘を制圧し、あるいは名ありの大物魔妖を倒してしまわれるのである。
決して、洗練された技ではない。
ご自身に曰く、どうも神様から力を貰ったようだと零しておられたが……それだけとも思えぬ。
「でやああああああ!! ふん!!」
機古屋にて赤鬼頭を下した一戦など、正に圧巻であった。
果たして、護衛の意味はあるのかないのか、本気で考え込みそうになる戌蒔だったが、その戦い振りは配下の忍達をも魅了した。
殿が軍議へと向かわれた折、荷の整理などをしつつ意見を交わす。
「組頭様、しっかしうちのお殿様はほんにすごうあられるのう!」
「まったくだのう!」
「寸分違わず、心の臓をえい、じゃからな。おんし、出来るか?」
「あの一突き、流石に真似は出来んわい」
「まるで本物の兎のように、跳びはねてなさったからのう」
人目もあるので田舎言葉を使っているが、内心の驚きまでは隠せない。
「じゃが、わしらも負けてはおられんぞい。お殿様にばかり働けかせたとあっては黒瀬足軽衆の名折れ、このまま国に帰っても恥ずかしいぞい」
目だけは鋭く見交わし、頷き合う。
「殿が兎なら、わしらも『兎』にならねばのう」
「ほうじゃの」
「んだ」
身分あってなきが如き忍にも、忍なりの矜持があった。
忍が仕えるお殿様に身の軽さで負けるなど、洒落にもならぬ。
せめて、置き去りにだけはされぬよう、各々励め。
『我ら兎にて候』
この後、修行にも一層力が入るようになった兎党の忍達であった。