第五十一話「春の風」
第五十一話「春の風」
お年始は皆で大いに飲み、食べ、騒いで新たに来る年を言祝ぎ英気を養ったが、窮状続く黒瀬が急に隆盛するはずはなく、正月二日にはもう、男衆は船を操って魚を捕り野を歩いて葛を掘り柴を集め、女衆は干物や葛粉作りに精を出していた。
「殿、使い古した揚げ油は、皆で分けても宜しゅうございますか?」
「それは構わないけど……ああ、灯りの油が足りないのか?」
「いえ、そちらは魚油にて済ませておりますれば。こちらは漁具工具の手入れ、家屋や船の水撥きに用います」
魚油に比べて臭いが随分ましなのと、常温でも固まらずさらさらとしているので、使い勝手が良いという。
最近は貧乏暮らしにも慣れたが、むしろ、その無駄のない工夫の方に感心する。
「じゃあ、行って来る」
「ははっ、無事のお帰りを」
無論、領民ばかりを働かせているわけではない。
俺はと言えば、アンのお陰で早々に工事が終わった水路の先、取水口付近の伐採と整地が冬仕事となっている。
毎日往復四里、十六キロメートルの『通勤』は大変だが、これはこれで楽しいものだ。
「本日は御庭番衆四名に加え、征海丸の水主衆八名がご同道致します」
「うん、頼むよ」
特に戌蒔配下の御庭番衆は力が入っているが……これは、取水口近くにフローラ様のお社を建てると同時に、魔妖の跋扈する未開の原野を切り開くための楔として、小さな砦を開くと決めたからである。
この砦、隠れ里にはならなかったが、戌蒔配下の組頭酉樫に差配を任せる予定で、まずは付近の調査拠点として砦を整備、開墾や開村はその後様子を見てからという予定を立てていた。
「この往復も、堤が出来てより随分楽になりました」
「ですなあ」
「春先の魔妖狩りも、楽しみですぞ!」
無論、足元も調わないうちから、無理をして砦を作っているわけではない。
元は都人にしてあらゆる地域の山野にも詳しい御庭番衆らが、周辺の調査中、都では高値が付くという蔓山葵――山椒のような小粒の木の実だが、味はワサビで日持ちする――や、高価な染料の元になる貝虫などを見つけていた。……黒瀬衆は日々の糧にばかり目が行っていたと、しきりに驚いていたが、それは仕方のないことだろう。
しかし、それらが大した苦労もなく手に入るこの機会、逃すわけには行かない。
甲泊に出向いた時にでも、都行きの船に話をつけて引き取って貰おうと、あれこれ貯め込んでいる最中だ。
また、砦の予定地には十分な水があるのだから、移住は後々でも即刻田畑の開拓を……とは、成らなかった。
理由は至極真っ当で、時期によってはこの辺りを根城にする大物が、魔妖狩りの宿営地ともなっていた取水口近辺にも出没すると、黒瀬育ちの誰もが知っていたからだ。
ずるずると地を這い動物でも人でも、何でも飲み込む巨大な『這寄沼』や、普段は陰に潜んでいるが、獲物と見れば素速く襲いかかってくる『居食い猿虎』などはどうにもならぬ化け物であり、普段から魔妖を狩って生計の足しにしてきた強兵揃いの彼らでさえ、夏雨の間と秋口の涼しくなり始めた時期だけは、決して森の奥深くには入らなかったという。
もちろん俺も、姫護正道があるからその程度どうにでもなる、などと思えるはずもなく、どうか面倒には出逢いませんようにと都の方角に手を合わせ、龍神フローラ様に祈っていた。
「さあ、今日も頑張るか!」
「おう!」
砦の場所は取水口の西側、後々本格的開拓へと手を着ける頃には、村の中心となる予定だ。
一国一城令などない大倭、さてさて、皆の期待に応え『城』に格上げしたいところだが……。
まあ、一足飛びに大きな細国へと成り上がれるはずもないだろうが、それでも多少は運が上を向いてきたなと、信じたいところである。
▽▽▽
砦の普請は、御庭番衆と同じく乗り気だったアンのお陰で、思わぬ進み具合を見せてしまった。
「え? だって、砦が早く出来れば、フローラ様のお社も早く建てられるでしょ!」
「うん、まあ……」
助かるのは助かるが、無理だけはしないでくれよと念を押しつつも、基礎となる土盛りと堀は殆ど彼女の魔法に任せきりである。
俺率いる男衆はと言えば、漆喰や壁土の材料となる焼いた貝殻と海苔――布海苔を山積みした手引きの荷車を押し引きして城から砦へと運び、あるいは周辺数十間――百メートル四方ほどの雑木林を伐採して黒瀬の城と同じく視界を確保、同時に将来の開村にも備えていた。
手間と人手は掛かるが材料費も工費もタダで、今の黒瀬では非常にありがたい。
後は盛った土に石垣を組んで滅多なことでは崩れないようにしたいところだが、残念ながらまともな技術がなかった。
……谷端の上郷で迅八さんを手伝って畑に石組みを施したような覚えはあるが、あれは正直なところ素人仕事も同然であり、俺も言われるままに石を持ち上げて運んでいただけである。
城や家屋の補修を担当する普請役を兼ねていた御用人の松邦も、本格的な築城に絡む石組みの知識まではなかった様子で、皆で知恵を絞ったが、なるべく大きな石を使って少々のことで揺るがぬように……と考えたところで、城壁に使えるような大石もないことに気付く。
河原の石は、俺でなくても投げられる程度の小石か、大きくても人の頭ほどの石がせいぜいだ。
城に近い海岸ならば岩もあるが、切り出して人力で運ぶとなると、そこまでして力を入れるべきものかという疑問が先に浮かぶ。
「えっさ、ほいさ」
「普請役殿、水抜き穴はこちらで宜しゅうございますか?」
「うむ、よいだろう。先に決めた下の穴と段違いになるようにな」
「ははっ」
結局、河原で集めた石をそれらしく――適当に組み上げた上から、割竹を編んだ骨組みで土盛りを覆い、家屋の土塀を作る要領で布海苔や石灰を粘土や砂、水と混ぜた和製コンクリートとでも言うべき『壁土』で、どうにか体裁を整えた。
集落のあばら屋と同じ技術が使われているわけだが、家の壁と同じであれば雨にもある程度は耐えるだろう。
春先まではこの作業に掛かりきりとなってしまったが、予定よりも早く終わりそうである。
だが、夏雨の時期には大物の名あり魔妖が現れることは聞いていたので、一旦は土台だけを完成させ、秋が深まり安全になるのを待ってから、櫓や蔵、防壁、柵など、本格的に手を入れることにした。
人死にを出してまで急ぐような理由は、どこにもなかった。
▽▽▽
砦の土台が完成したのは、弥生三月、その頭のことであった。
「今年は陣を張るのが随分と楽になりましょうぞ!」
「皆、気張れよ!」
時期的にも丁度いいと皆で頷き合い、戦支度を行う。
春の魔妖狩り、その始まりの合図は、筍である。
嫁さん達や女房衆、集落から登ってきた奥さん子供が見守る中、黒瀬の全軍が整列していた。
皆、錆の浮き始めた傷だらけの槍や刀を手にして、古びた胴丸や脚甲手甲を身につけている。……草鞋だけは揃って新しいが、元より数日も履けば駄目になる代物で、こればかりは仕方がない。
「忘れ物はねえか? ようよう確かめるんじゃ!」
「ほれ、結び目がほどけとるぞ!」
足軽衆はそれぞれの船頭に率いられた十人ほどの組で、船の名を取って征海組、太平組、昇陽組と三組計三十人少々、一組が戦場に出て一組が荷役、一組が休憩を兼ねた城詰めと、ローテーションをする。
これを水軍奉行の深見源伍郎が、足軽大将としてまとめていた。
城の方は無論、信且を臨時の城代として差配を任せることとなっている。
「頭、露払いに出ております子谷と狸坂より合図、万事ことなく、風は西寄りの南」
「うむ」
御庭番衆は組頭の酉樫がまとめ、一隊を形作っていた。役目としては斥候および支援で、夜番なども役目に入る。
朝霧の指揮するくの一は、普段の裏警備も引き受けていた。
「あの、殿は具足をつけられないのですか?」
「ん? ああ、合う大きさのものがないんだ」
本陣は俺も含めて三人きりで、司令部とでも言うべきか。
戌蒔は護衛、御用人松邦の長男梅太郎はまだ元服前だが、俺の御側廻――雑用係としてこの戦が初陣となる。
「ご、ご無礼仕りました!」
「その内と言わず用意したいところだけど、今は身軽でいいと思うことにするよ」
俺は先代領主舵田黒瀬守が戦働きの際に使っていたという借り物の無銘槍を掲げ、梅太郎に笑顔を向けた。
具足は合う物がなかったが、武器は手に握れればなんとかなる。
腰には姫護正道と友兼を差しているが、リーチの長い槍があるならそれに越したことはない。
他は頭に日除けの編み笠、腰帯に打飼袋を結びつけ、竹の水筒と茹でた浜芋は風呂敷包みのたすき掛けにして……まあ、いつもの野良仕事と変わらない格好だ。
純和風ながら、これはこれでRPGの冒険者っぽくもあり、楽しい気分も多少はある。
「気をつけてくださいましね、殿」
「御武運を」
「いってらっしゃーい!」
嫁さん達にうん、と小さく頷いて、俺は集まった軍勢を見渡した。
なんというか、皆それぞれがやる気に満ちていて……自然と笑みがこぼれる。
「黒瀬全軍、出陣するぞ!」
「えい、えい、おう!」
「えい、えい、おう!」
陽気というには少し肌寒いが、天気も良いし春の風も気持ちいい。
万歳の声に見送られ、俺達は隊列を組んで城を出た。