第四十八話「忙しない師走」
龍神フローラ様のお社は、城のすぐ西にある見晴らしの良い椀ノ崎――お椀を伏せたような形の岬がよいのではないか、いや城中が参拝にも安全だ、龍神様なのだから新しい小川の傍らがいいだろうなどと議論も交わされたが、当人……いや当龍神のご希望で、取水口となっている川辺に近い場所に決まった。
もちろん、道が通り余裕が出来てからでいいそうだが、アンの夢を通して、水の番ぐらいは手伝ってやろうとのお言葉も貰っているので、出来れば早めに手を着けたいところである。
「しかし殿」
「うん?」
「水の余裕というものが、これほど影響のあるものだとは考えもしませなんだ」
家老の信且はしきりに感心しているが、それこそ黒瀬国は本当に水にまで気を回す余裕がなかったのだと、俺の方でも考え込む羽目になっている。
「えいやさ!」
「そいやさ!」
葛布作りは地元の嫁衆に加えて都から来た女房衆だけでなく、手すきの男達も力仕事に回していた。
水が冷たい季節だというのに、集落は活気に満ち、皆の笑顔も増えている。
葛粉を取り出すのは手間が掛かりすぎるので今回は諦め、水周りが安定してから改めて挑戦することに決まっていた。
「三日ほどしたら、一度水を止めるよ。簡単でいいから城付近にも堤を盛って、水の流れを確定させておきたい」
「では、人手が必要ですな。そのように伝えておきます」
「うん、では行って来る」
「ははっ!」
俺はと言えば、お庭番衆を引き連れて毎日森に出掛け、陣張りの鍛錬――という名の伐採と地均しを繰り返すのが日課となっている。
新たに流れる小川に沿った小道を拓いているのだが、ついで堤も盛っていた上、おまけに往復の時間も必要とあって、丸一日頑張っても『百メートル』ほどが限度だ。
獣道より少し上等な、手押し車が通れる程度の小道と大した高さのない堤といえど、この異常な開拓速度は、俺の筋肉だけが原因ではない。
「【terra fodere subito】!」
アン、大活躍である。
▽▽▽
葛布の製造には、一時的に発酵――腐らせて繊維を取り出す工程があると聞いていたので、水の流れを止める日取りをそれに合わせることにした。
取水口に岩を放り込んだ翌日、道路工事も漁も中止して人を出し、堤を作る作業に取りかかる。
その高さは俺の脇差しよりも短く低い二尺弱、約五十センチだが、堤その物の効果よりも、将来を見越した未来図のような意味があった。
この辺りは田畑、あちらには人家、その向こうは切り開かず里山として燃料の供給源にと、皆で考え、共に思い描いた夢の一部でもある。
「ええか、残す流れは一番西と一番東じゃぞ!」
「よし、かかれ!」
城に近い西の流れは生活用水、遠い東の方を主流としたが……無論、根拠はない。
流れていた跡を掘って、両脇に田んぼの畦のような低く小さな堤を作っていく。本流の方は幅二尋、約四メートル弱としておいた。
今は流量も少ないが、大雨への警戒と将来を見越した選択だ。
アンには別のお願いしていた。城に近い場所にため池を掘って貰う。
また子供が遊ばないようにお触れを出さなければならないが、池が一つあると万が一の時、命を繋ぐための選択肢が増えるはずだった。
「皆さん、お昼ですよ!」
「さあ、どうぞー!」
女房衆や嫁衆が、浜辺で大きな声を張り上げている。
今日の昼は城で炊き出しを行い、贅沢にも麦の握り飯に、東下菜と貝の汁物が用意されていた。
「どうぞ、殿!」
「うん、ありがとう」
手渡された木皿の上……小さくいびつな握り飯二つは和子とアン、少し大きく形の整ったもう一つは、静子の手による物か。
「……いただきます」
麦飯を頬ばりながら、海を見る。
荒れてはいないが、風がいつもより強いだろうか。
「……っ!」
貝は出汁も身も、今更俺が口にするまでもなく美味いに決まってたが……干して市に出せば結構な値がつくので、黒瀬では滅多と口にしない。
ここらで口にしない海産物の大半にはほぼ全部、似たような理由がついていた。
二日掛けて城付近の堤の割をどうにか調え、再び取水口の岩を取り除いて流量を控え目にすると、毎日朝夕、流量と天気を記録するように申しつけておく。
「夏は大雨と聞いたが、普段の雨でも急に大水が出ないとも限らない。取り敢えず、来年一年は真面目に記録してくれ」
「ははっ」
「場合によっては川幅の改修も考えるよ」
冬の間は雪の代わりに小雨が時々降るそうだが、上流は魔妖の領域で、長年住んでいる者も、雨量がどうなっているのかまでは知らなかった。
水の問題は、これで当面棚上げ出来ると見ていいだろう。
次は夏、大雨の季節にどうなるかを見極めた上で、数年数十年を見越した縄張り――開発計画を練る予定だった。
▽▽▽
水が足りているならば、やはり畑の方にも手を入れたい。
所得倍増計画ならぬ、野菜倍増計画である。
作業は無理せぬようにと言い聞かせ、いきなり二倍三倍と増やさないようにだけ注意して、西側の畑は若い衆に任せることにした。
新しい畑ではお馴染みの東下菜の他に、ひと畝ごとに豆を作るよう、頼んでおく。
……土質の改良に豆を蒔くのは、俺の居た現代日本では良く知られた技術だが、さて、そのまま通じてくれるだろうか。
「今の時期なら、『小粒えんどう』ですな」
「……これ、か?」
「へい」
黒瀬でも僅かに作るという小粒えんどうとやらを見せて貰えば、どう見てもカラスノエンドウで……俺は天を仰いだ。
最初は大豆を植えたいところだが、今は時期ではないという。
それを作れと頭ごなしに言うわけにもいかないし、とにかく慣れたものから育てまくり、安定するまでは単純に収穫を増やした方がいいだろう。
まあ……カラスノエンドウも、食べられないことはない、と思う。
こっちへ来て度々食べることになった粟や稗はもっと小さいし、少なくとも豆の形はしている。
収穫は弥生三月、春先になる予定だった。
▽▽▽
後は食いつないで収穫を待つばかり、高い枕で高いびき……とは行かず、川まで続く土木工事の残りを行い、城周辺に作った小さな堤の補修に走り回っていると、もう年の瀬近くになっていた。
「人数分の餅ぐらいは用意したいところだが……」
「ですが殿、その代金の金子で何日食いつなげるかと考えますれば、とてもとても!」
信且と二人、白湯を片手にため息をついてみるが、無い袖は振れない。
都でならば、一つ四文で食える草餅だが、こちらでは、代官屋敷のある甲泊に出向いてさえ普通の焼き餅も『売っていない』らしい。
米問屋はあるが、商売相手は主に廻船なのだそうだ。
「米屋に餅米を頼むことは出来ましょう。しかし、高うつきますぞ。まあ、理由はこれ以上ないほど明白にございますが」
「うん?」
家老信且の語るところによれば、美洲津に近いところでは餅米も作られているが、こちらでは育ちが悪く、作られている米は皆粳米なのだという。
「まあ、船賃もそうでございますが、船頭が荷に選んで持ってきても、大して売れぬのです」
「……同じ一両払うなら、腹一杯になる方がいい、か?」
「……御意。あるいは、某ならば同じ贅沢、白飯の握り飯の方を選びますな」
土地柄による作物の出来不出来以外に、当地での好みや流通の状況も影響しているわけか。
餅を焼いて売る代わりに、握り飯を売る店ならあるそうだ。
「いっそ、東下を丸ごと隆盛させた方が、儲かるかもしれないなあ」
「と、申されますと?」
「こちらではまず、食いつなぐことが優先される、ということはよく分かったが……腹が満ちていないのに、財布から余計な金を出す者はいないだろう?」
「はあ、まあ……」
食うだけでぎりぎりなのに、贅沢品を買おうとする奴なんて普通はいないし、そんな連中を相手に商売をする奴も居着かない。
無論、口にしたところで絵に描いた餅同然、黒瀬だって食うことが第一だ。
だが、なあ……。
「信且、せめてめでたい正月、大人には酒、子供らに菓子ぐらいは用意してやりたいがどうだろうか?」
「年の瀬にスルメを売りに小早を出します故、お申し付け下されば、幾らかは。酒は濁りの安酒、菓子は……麦焦がしか黄粉飴か……」
黄粉飴は知ってるし、食べたこともあった。駄菓子屋で扱っている素朴な菓子だ。
だが、麦焦がしの方は知らない。
「麦焦がしとは、どういう食べ物なんだ? 言葉からすると、麦を使った香ばしい菓子なのかと思うが……」
「はっ、石臼で挽いたはったい粉……大麦の粉を、灰色になるまで鍋で煎ったものでございます。菓子としてだけでなく、戦の折、陣中食として用いることもありまする」
火が通っているので、そのまま湯で溶いて食うらしい。
シンプルすぎて、表情に困った。
だが……。
「大麦の粉か。……小麦粉は手に入るかな?」
「小麦粉でございますか? 蕎麦のつなぎに使います故、城中にもござったかと」
いわゆる麺の蕎麦にするのが面倒なのか、蕎麦がき――蕎麦粉と小麦粉を練ってすいとんのようにした物が夕食に出たことがあったなと、思い出す。
「では……スルメ船が出る時、小麦粉と菜種油を買い込んできてくれ」
「は、それならば」
「正月には、皆で天ぷらを食おう」
「天ぷら! ……久しく口にしておりませんな。皆も喜びましょう」
信且は、満面の笑みで頷いてくれた。
予算的にも、極端な負担ではないようである。
魚介は自前、あとは……揚げ油があれば、菓子ぐらいはなんとかなるか。
後ほど、蜂蜜か砂糖があればそれも欲しいと頼んでみたものの、そのような贅沢はなりませぬぞと、小言を貰った俺だった。




