第四十二話「松浦家の窮状」
形ばかり立派な主従の誓いを終えた松浦家だが、内実は、心底酷い。
黒瀬の人口は百人ほど、そこに俺達一行を加えて現在百二十余人。
幸い皆やる気……いや、やるべき事が分かっているだけ、新しい家のはじまりとしては随分とましなのだろう。
誰も口にしなかったが『食いつなぐこと』、これに尽きるのだ。
「殿、船戦鍛錬のご許可を!」
「源伍郎に任せる。信且から聞いていると思うけど、一艘はしばらくこちらで使うよ」
「ははっ! ……太平丸、出るぞ! えい、えい、おう!」
「えい、えい、おう!!」
水軍奉行深見源伍郎が逞しい腕を振り上げ、配下を煽る。
鍛錬は、建前だった。
出漁と言い換えた方が正しいのだが、これも方便である。
黒瀬松浦家の持つ三艘の小早、征海丸、太平丸、昇陽丸は、形ばかりだった海賊働きはともかく、矢盾などは滅多に積まないそうだ。
まあ、つまりは国有の漁船であり、源伍郎は『黒瀬漁業協同組合』の親玉でもある。
普段はローテーションを組んで一艘は沖へ、二艘は整備すると同時に有事――魔妖の襲来に備えて乗り組みの水主は城詰めとされ、警戒と休養を兼ねた。
エンジンどころか帆もない小早である。
一勤二休とは言え、きついはずだ。
だが、それもこれも、皆が生きるため食うための努力、その一部であった。
「……信且、使者の用意は?」
「はっ、手配は出来ております。近隣への御挨拶状の件、征海丸をその任と致し、御用人帆場松邦を使者とします」
「うん」
家老は家臣のトップだが、国によっては複数置いたり、置かなかったりするという。
ともかく、家老の彼が俺を認めてくれたお陰で、混乱は最小限に押さえられているはずだ。
「では松邦、頼んだよ」
「はっ」
「追加で、戌蒔の配下も連れて行ってくれ。俺が本当に都から来たと、言葉と仕草ですぐに分かるはずだ」
「畏まりました」
松邦ともじっくり話をしたかったが、近隣大名への挨拶を先に済ませたいのでこれは仕方がない。
御用人とは、金勘定や賄い、物資の管理など、鷹原で穴沢新内殿が担っていた算用方とほぼ同じような職で、内政のまとめ役である。
……国によって、同じ名前なのに違う職だったり、名前が違うのに仕事を聞けば同じだったりと、実に複雑だ。
「戌蒔は、例の件を頼む」
「承知」
犬槇改め御庭番松下戌蒔の選んだ『松』下は、もちろん俺の松浦の『松』で、その下で戦い抜くという決意の表明だという。
彼には昨日、名乗る名を話し合うついでに、黒瀬国の問題点の洗い出しを改めて頼んでいる。
酷い状況は俺でなくとも分かっているだろうが、ここは冷静な忍の目から見た評価という別視点の判断材料が欲しかった。
「殿、殿」
「資子殿?」
式が終わったと見たのか、資子殿が天守に戻ってきた。
男衆は家老の信且を除き、既に散っている。
「ご相談なのですが……私ども女房衆、奥方様のお世話ですら侭ならぬと、覚悟いたしました」
「……ええ」
「また失礼ながら、殿にご無理を申し上げようにも、その懐の中身はよくよく存じ上げております」
情けないことに、無い袖は振りようがない。
無論、資子殿には筒抜けである。
「また、方々が懸命になって国を、殿を支えようとなさっておられるのに、ただそれに甘えるのは、あまりにもはしたなく思います」
「なんと!?」
「……」
俺よりも信且の方が驚いているが、内心は似たようなものである。
嫁さんの暮らしもそうだが、彼女たちの収入については、現状、全く手当がつかなかった。
昨日、信且や松邦から聞き取ったが、黒瀬国の現石高は蕎麦、粟、黍などの雑穀が合算して十五石と、そこだけ聞けば都で示された内容よりはましだった。
そもそも水源が小さな井戸しかなく、夏雨はあっても水田など夢のまた夢らしい。
これに道沿いの小さな畑から穫れる大根、東下菜などの野菜が銭換算で四十貫文、十両……と言えば結構な金額だが、百人で割れば一人頭は四百文、日割りにすれば一日一文少しで、まともに野菜が行き渡らない。
同時にこれらは旧舵田家の御用農地とその収入なのだが、表向きは賦役、その実は皆の命を繋ぐ糧であり、村落の共有地同然の扱いなのだという。
故に収穫は城に集められ、家族の人数に応じて分けられた。
そして黒瀬の収入の根幹、漁業だが……基本は皆で食うとしても、旧舵田家には小物成として百両少々の漁業加工品が毎年納められていた。
こちらもやはり、資料で見た金額の倍額と躍進しているが、家臣の俸禄で九割が消え、残りで不足する穀物や野菜を買い込めば、それでおしまいだ。
魚の少ない休漁期には、大物を避けつつ皆で柴拾いを兼ねた魔妖狩りに出て、糊口をしのいでいるそうである。
また、この黒瀬には、専業の漁師どころか農家も、職人も、商人もいない。
三十人近い雑兵格の足軽は、すなわち船に乗り組む水主であり、漁師である。
残りはその家族で、純粋な領民はいなかった。
代わりに兵力は、人口と比較すれば異常に大きいわけだ。
その理由は魔妖の存在でもあり、またそうせねば生きていけないからだろう。
皆で稼いで、皆で食う。
いっそ気楽だが、これでいいはずもない。
……本当に一体どこから手をつけたものかと、昨日は寝床で大きすぎるため息をついた俺である。
じっと俺達を見た資子殿は、居住まいを正した。
「そこで、紙と墨、それに幾つかの道具を用意しては戴けませぬか?」
「……紙?」
「この状況、日銭を稼いでしのぐよりございませぬ。
書物を作り、それを殿に納めさせていただきます。手習いに使う読み本や平易な御伽本であれば、東下でも引きはありましょう」
俺が図書寮で日々見ていたような古文書以外にも、庶民向けの本があることは知っていた。
主力の読み本は木版を使った印刷物であり、都周辺ならばと注釈はつくものの、極端な値段ではないと教えて貰っている。
だが、道具などこちらで手にはいるはずもなく、技術だってないが……写本なら、基本的な知識と根気で何とかなるだろう。
彼女たちは大倭の中心も中心、都の内裏で役目をこなしていた才女達で、学もある。
俺はいつだったか、『生きて行くだけなら、なんとかなるものですよ』と微笑んだ静子を、思い出していた。
「……苦労を、掛けます」
「ふふ、皆伸び伸びとして、張り切っておりますよ。
己で考え、己で動く楽しさとでも申せましょうか、行儀の方は引き締めなければと思いつつも、私だけでなく、奥方様方も楽しんでおられます」
俺はもう一度頭を下げ、資子殿を見送った。
信且と顔を見合わせる。
「……男子たるもの、女子衆に負けておられませぬな」
「うん、まったくだ」
いっそ御庭番衆を引き連れ、魔妖退治にでも行くかなと腰の姫護正道に目を落とす。
穀物の買い付けもあって都で用立てて貰った三百両は半分ほどに減り、今年はなんとか食えそうだが、来年からは心許ない。
幸いこちらは都に比べて緯度が低く、冬も雪が降らず極端に寒くない事だけが救いだった。
▽▽▽
御用人の松邦を使者として征海丸を送り出し、今夜の魚のために太平丸を見送り、城は静かになった。
整理したい事柄、片付けてしまいたい厄介事は山ほどあるが、静子と信且に手伝って貰いながら、まずは都への報告を仕上げることにする。
昨日今日でようやく俺の中で方針も固まったことだし、あまり遅らせたくはない。
「殿、出来上がりました」
「うん、ありがとう」
俺はまだ、こちらの読み書きが出来ない。
静子には当面、右筆――秘書仕事を頼むことにした。
黒瀬でまともに読み書きを出来るのは和子に静子、ついてきた女房衆と忍改め御庭番衆を除けば、士分の十人とその息子のみ。
アンは英語の他に大陸語も多少は出来るそうだが、こちらでは俺の現代語同様、日記を書くぐらいにしか使い出がなかった。
識字率云々はともかく、教える余裕も寺子屋もなく、しばらくはこの布陣が精一杯だ。
「信且、読んでくれ」
「ははっ」
俺が大凡をまとめ静子に代筆して貰った都宛の書状を、信且に見せる。
俺はこの海賊騒動の一件を舵田黒瀬守の美談に仕立て上げ、その力を借りることに決めた。
……意趣返しというわけでもないが、無論、嘘は一つも書いていない。
だが、これで黒瀬の民の暮らしが多少でも良くなるならば、枕元に立たれて文句を言われる事だけはないだろう。
「いいかな、信且?」
「はっ、亡き殿……失礼、舵田黒瀬守様も浮かばれましょう。まっこと、感謝いたします」
「うん、せめて心意気だけは、怒られないようにしたいと思う。
静子、同じものをもう一通、三州公宛に送りたいので頼む」
「はい、すぐに」
これで松邦が返事を持って戻り、俺が挨拶回りを無事に終わらせれば、しばらくは黒瀬の事だけに専念できる。
余力のある内に――皆が食えている内に新たな収入源を見つけられれば、スタートダッシュに繋がるはずだ。
何か手軽な方法でもあればいいのだが……それなら黒瀬でも、とうの昔に行われていただろうしなあと、俺は天井を見上げた。




