挿話その二「別室にて」
一郎が国盗りの内幕を聞かされ、どうしたものかと頭を捻っていた頃。
同じ澤野家の別室では、彼の妻となる予定の三人が、一堂に会していた。
「わたくしは、和子です。……澤野家の」
「私は薄小路家の静子です」
「わたしはアナスタシア・クラリス・スチュアート、あるいは、浅沙と。呼びにくければアンと呼んで下さいませ、和子様、静子様」
三者三様に忙しい離京の前日だが、今後『松浦家』の女房衆を束ねるだろう資子にも席を外させての密談である。
その空気は、一郎が同席していれば頭を抱えるか逃げ出すかしただろうが、同時に……ある意味で、軽くもあった。
「浅沙の君、貴女とはお話をしておかなければと、そう思いました」
「それは……ありがとうございます」
一郎の正妻となる予定の和子は、にこやかな様子でこちらを伺う浅沙の君を前に、安堵を覚えていた。
▽▽▽
内裏に戻ってからは、理由を探してあの手この手で月子の追及をかわし、時に父帝の元に逃げ込み、荷物の間に隠れ、時間を稼ぎ続けた和子である。
そのような日常には馴れきっていたが、不便ではあっても心安らかでいられた旅の日々が懐かしくもあった。
「姫様、父の使いと会うことが出来ました」
「静子、図書頭殿は、なんと?」
「条宮様のお言葉を逆手に取り、無事、反武州を焚き付けられそうだと」
「そう……」
内裏に戻って数日、いつの間にか、自分は降嫁――遠く草州の細国大名の元に嫁がされると決まったらしい。
それさえ捨てて逃げる機会を探すことさえも、未だ選択肢には入っていたが……和子は、状況は悪くありませんねと小さく頷いた。
少なくとも、内裏を出る理由にはなる。
静子も……あれだけ酷い目に遭い、妹御まで亡くしたというのに、当然のように嫁ぎ先までついてくると、意気込んでいた。
「それから、あの、姫様……」
「静子?」
……彼女は言い難そうにしていたが、一郎の元に嫁がないかと、父図書頭殿より話があったそうだ。
京への船中でも静子と一郎は仲良さげに語らっていたし、二人ともまんざらでもない様子であったと、和子は思いだした。
平素から、内裏で言い寄ってくる男などには辟易していたのか、貰った文も歌も丁寧に扱ってこそいたが、一読の後、女房箪笥の引き出しにしまうとそれっきりの静子が、一郎にだけは気を許している。
その姿は和子にも新鮮な驚きであり、微笑ましくも、羨ましくも思っていた。
静子はそれこそ和子が物心つくかつかないかの頃より支えてくれた女房にして、姉のような、家族のような存在でもある。
だが、和子を第一にと、自らの幸せを横に置いて懸命に歩み続けてきてくれた彼女には、是非、幸せになって貰いたい。
……相手が一郎ならば、良きことでありましょう。
和子は自らの気持ちに気付かない振りをして、静子を言祝いだ。
「……」
命の危機に颯爽と現れ、悪党を一息に倒した若者に一目惚れをしたのは、静子だけではなかった。
その一郎はどうしているものやら……と思えば、更に数日後、静子の口から和子の婿候補に決まりそうだと、その名を告げられた。
流石に聞き流せず、静子の顔をじっと見やったが、意外にも戸惑いや悲しみ、嫉妬と言った感情は読みとれない。
「静子、貴女は……」
「いえ、姫様。この話、進めるべきです」
一郎は少初位下の官位を授かり図書寮使部となっていたはずが、この半月の間に、もう従八位下を得て大名に出世するという。
官位を得よと一郎の背中を押し、三州公や薄小路家を頼ったことも間違いないが、父帝も浅沙の君の一件を奇貨として、和子を守ろうと尽力してくれたはずだ。
龍神の加護を受けた渡り人、浅沙の君の通詞役として、一郎が内裏の脇にある松見院に呼ばれていることは、和子も伝え聞いていた。
感謝せねば、罰が当たるだろう。
龍神の人助けは、和子をも助けていた。
よくよく考えを巡らせれば、後に引けぬ逃亡やどこの誰とも知れぬ大名に嫁がされるよりも余程気の利いた計らいであり、父帝や祖父や薄小路の見いだした策は、確かに最良に近い。
その上、表向きは渡り人にして素性の知れぬ大男、官位も得たばかりの成り上がり者で、こちらを腐す理由が欲しいだろう月子の目を欺くにも丁度良かった。
和子の時間稼ぎは無駄な努力ではなく、方々に助力を願った静子の策を後押しし、一郎の出世も引き当てたのだ。
だが……。
「今より他の細国大名家を探している時間は、とてもありません。それに一郎……松浦家ならば、姫様が理不尽な理由で酷い目に遭うことだけはあり得ない、そう断言してよいかと」
「ですが、静子。……貴女は、貴女の気持ちはどうなるのです?」
「姫様ならば、私は焼き餅だけで済ませることが出来ます」
静子は目を逸らさず、はっきりと言い切った。
正妻に和子、側室に静子。
……明らかに一郎の事を意識している静子のことを思えば、申し訳なさもある。
「それに……当面は姫様と私のみが侍ることとなりましょうが、一郎が細国大名のような小さな器で終わるはず、ありません。忽ち出世の階を登り、側室の二人や三人、すぐにでも押しつけられると思います。
ですがその折、姫様が正室であれば、並の家の娘などが姫様を押しのけて……などという無茶は出来ませぬ」
「……わたくしは、重石か何かなのですか?」
「いえ、要石です」
「同じ事ではないですか、静子」
ぷっと噴いて二人で笑い、では二人で一郎に嫁ぎましょうと頷き合う。
もしも彼女の妹、清子が生きていれば……とは、口にしない。
「今後はわたくしも澤野の娘。静子、今まで本当にありがとう。
これからもよろしく頼みます、静子『殿』」
「はい、姫……和子『殿』」
内裏を出て、実家の分流にあたる澤野家に到着した日。
冷たい仕打ちや毒殺の危険ともようやくお別れですねと、静子と二人小さく笑みを交わし、和子は少しだけ、肩の力を抜いた。
しかし、澤野家に逗留して一郎の到着をいまかいまかと待っていれば、呆れたことに側室の候補を連れてこちらにやってくるという。
家人をつかまえどこの娘なのかと問えば、しばらく前、内裏でも噂になっていた浅沙の君であり、人の存在とは隔絶した龍神の一声が故に、祖父や薄小路も口を挟めなかったらしい。
……大名となる前から、何という大物振り。
静子の懸念通りでありながらも、あまりにも手が早すぎて、怒るより先に笑いがこみ上げてきた和子だった。
▽▽▽
和子は、他者の悪意には極めて敏感だ。
華やかでありながら、同時にほの昏き心の闇が巣くう世界で、幼い頃より自らを守り、暮らしてきたのである。
その和子を以てしても、この浅沙の君は油断ならない相手だった。
「浅沙の君、貴女は異界よりの渡り人であると内裏でも噂になっておりましたが、もう言葉を覚えられたのですか?」
「はい、龍神様と女房殿、それに一郎のお陰です」
はにかんだ様子で、それでも堂々とアンは答えた。
彼女の金の髪が、その庇護者である龍神の鱗のように、美しく揺れる。
悪意は、全く見えなかった。
それどころか、自らを救ってくれた帝の娘と、初対面の和子に対し好感情を抱いているようにすら思える。
……実に、やりにくい。
「和子様は、イチロー……一郎の主であったと聞いておりますが、本当ですか?」
「ええ。……俸禄さえも与えられぬと告げたわたくしに、それでも、わたくしのところで頑張ると、そう申してくれたのです」
だが和子の方でも、浅沙の君を嫌うことは出来そうにもなかった。
彼女は恐ろしく真っ直ぐだ。
そして、お互いに真剣ながらも……ただただ、一郎と自分の関係を誇り、惚気をぶつけ合うなどという今の状況は、とても新鮮だった。
こちらが帝家を追い出された元皇女なら、あちらは龍神の加護を授かりし渡り人。
アンと和子の間には、日頃の恨みも、宮中の序列も、背後に見え隠れする勢力図も何もない。
その対等な関係が、どれだけ希なるか。どれだけ心躍るものか。
ただ一つの柵は、同じ相手に嫁ぐということ。
単なる序列なら、正妻の和子が上になる。
だが、一郎の妻としての序列は……どうだろうか。
……いえ、そうではありませんね。
和子は一つ、気が付いた。
自分が『正妻』であると持ち出せば、この勝負は、負ける。
「一郎は箸を使えぬわたしを膝に抱いて、その手で食べさせてくれましたのよ」
「わたくしは、一郎に命を救われました。正に疾風の如し、あっと言う間に侍崩れを木刀一本で倒したのです」
この戦い、引くわけにはまいりません。
浅沙の君から挑まれた戦いを、和子は正面から受けて立った。
長いようで短い密談――惚気合戦は、呆れた様子の静子がぱんぱんと手を打ったことで、終わりを告げた。
「長旅の用意もございます、お二方。本日はここまでとして、続きは船中でなさるとよいでしょう」
和子とアンは、素速く目を見交わした。
心地よい疲れと同時に、気分の『晴れ』を自覚する。
……これほど何かに夢中になったことなどいつ以来だろうと、和子は心からの笑みを浮かべた。
アンの方を見れば、彼女も実にいい笑顔である。
「静子殿、貴女のことは資子女房殿からよく聞いております。……一郎にだけは、随分と甘い様子をお見せになったとか?」
「ずっと黙っておられましたが勝者の余裕ですか、し・ず・こ・ど・の?」
「え!?」
勝負は幸いか否か、引き分けだろう。
どうやらアンとは、一郎のこと以外でなら、仲良く出来そうだとも分かった。
「船での別れ際、こっそりと一郎の手を握っていましたね、静子殿?」
「まさか、見ていらっしゃったのですか!?」
「宮中では男衆に笑顔すら見せなかったというのは、本当なのですか? 一郎は、その頃から特別だったのですか?」
「あ、浅沙の君!?」
静子は和子の一番の女房で、姉で、家族のような存在でもあった。
だが……現在、一郎にもっとも近しい女性は、静子なのだ。
それが何故か、嬉しくもあり、心苦しくもあり、同時に頼もしくもあった和子である。
出会ったばかりの二人はぴったりと息を合わせ、静子へとにじり寄った。




