第三十五話「船出」
三州でも遙か東下と呼ばれる、東の端に位置する黒瀬国。
開国は皇歴一四三五年と、今から約五十年前に成立した新しい領国である。
だが、聞かされた内情は酷いものだった。
「手前の東津でさえ、京では街道の要所と知られてはおっても、そこまでだ」
「訴状の添え書きを手に入れ、国別帳に当たってようよう分かったのがこの程度での……」
場所は、都を起点とする南洋海道を茶州、豊州、蓮州と通って三州までを海沿いに結ぶその終着点、大きな港のある東津の先、十数日の距離だという。
領国の格付けは細国で、これも当初から言われていた条件通りである。
しかし、米の収穫量に換算して国の大きさを現す石高は、なんと十石。
無論、小物成という、石高に計算されない漁業からの税収や雑収入がそれを補っていて、こちらが年に五十両と国別帳の写しには書いてある。……二十数年前の資料だそうだが。
……五十両と言えば、雑兵だった頃の俺が貰う予定だった蔵米三俵一人扶持が、銭に換算して約一両二分プラス飯代で、大体俺が二十五人分になる。
個人なら結構な高給取りだが、嫁さんが三人と、資子殿に女房八人、ついでに俺まで食っていけるかと言えば、貧乏武家の下男下女でもこの倍が相場という話なので、微妙どころか危険なラインと見ていいだろう。
人間、飯があれば生きてはいけるが、人間らしく生きていくとなると、飯以外も必要だ。
「民は海の幸を採り、暮らしの糧としておるのであろうな」
「豊かではないようだが、それはどこも変わるまい」
領国の人口や暮らしぶりなどは国別帳には記されておらず、都では調べられないらしい。
……鷹原の橋本家は、あれで実は裕福な大名家だったんじゃないか。
そう思い始めた俺である。
「ところがこの黒瀬の国主舵田黒瀬守、海賊であることが周囲に知れて、三州より討伐の許可を求める上訴が出ておる」
「でなければ、この短期間で選びようもないのでな」
「居直っておるのか、証拠がどうのという段階は通り越しておるそうだ」
最低限、良心は痛まない様子で……俺は小さく息を吐いた。
無論、三州公ほどの武力があるなら討伐その物は簡単なのだが、小なりと言えど相手は大名、人間相手の戦働きには御所――朝廷の許可がいるようで、そこに便乗したという。
今頃は、顛末を知らせに早馬が走っていることだろう。
ついでに説明されたところによれば……。
魔妖相手であれば悠長なことはやっていられないし、どこかから攻め込まれての防戦ならばともかく、地方の田舎、それも邪魔だとは言うものの規模の知れた小さな海賊大名の為に金の掛かる水軍を投入すべきかどうかという、経済的な問題も無視できないそうだ。
「無論、大挙魔妖に攻め寄せられたなどの理由なら同情も寄せられようが、海賊如きから自国も守れぬ大名は白い目で見られる故な。お主も気を付けるのだぞ」
「武家たる矜持、まっこと難儀よのう」
「難儀の度合いでは、公家の誇りも似たようなものでありましょう。これ、このように我らも今、苦労しておるではないですか」
「世は真実、侭ならぬことであるな……」
地域の大名には死活問題だが、朝廷に上訴した三州公にしても、地域の支配者としての態度はある程度示しておかないと困るものの、面倒なだけで利益になるわけでもなし、渋々の上訴だろうと上座のお三方は頷いた。
「訴状を信じるならば船は小船ばかりの数艘、海賊は三十余」
「松浦には荷が重い、とは敢えて言わぬぞ」
「それであって尚、この国を選んだ由は、余録がある故よ」
地図の横に置かれた書状が、改めて示される。
一通は表書きがあり、上意と記されていて、これは御所が認めた舵田黒瀬守への逮捕状のようなものだ。
残りの三通のうち、片方は俺の黒瀬守への任官を認めた補任状、同じく黒瀬国の安堵状、そしてもう一通は……。
「『三州南海東下妖域切り取り次第』の許状……」
切り取り次第とは、自分の領国ではない地域――この免状の場合は、三州東下にある魔妖に支配された、人の住んで居らず他の大名の領国でもない場所――を平定した場合、領国に組み入れていいぞというお墨付きである。
そう。
この黒瀬国は、魔妖の跳梁する地域に、隣接しているのだ。
ちなみに、そんな危なっかしい場所が国盗りに選ばれた原因は……俺にある。
木刀一本で侍崩れ五人をあっと言う間に倒した技量と共に、鷹原での活躍も和子様か静子様から伝わっていたようで、誰一人疑いなく、俺がこの悪条件でも国盗りを成功させ、その後も領国を広げるものと考えているようだった。
ただ、お膳立てして貰った俺が口にするべきじゃないが……矛盾、いや、違和感も感じている。
そのように危険な場所で、何故、海賊などが成り立つのか。
商船――廻船が通るには、危険過ぎる気がする。
あるいは、海賊が出来るほどの武力があるなら、それを妖域に向けた方が利益になりそうだとも思ってしまうのだ。
現地の状況が分からないだけに、色々と余計な考えが浮かぶ俺だった。
ようよう上手くやれと、奥の間からの退出を許された俺は、午後一杯を使い、翌朝の出発に向けての準備に追われた。
……無論、嫁さん達に声を掛けている暇は貰えない。
まずは金子。
要は現金だが、三百両が与えられている。
これは清澤家ら数家からの持ち出しで、返済不要とされていた。
流石に十両に満たない俺の手持ちだけでいきなり一国をどうこう出来るわけもなく、国を手に入れたからと和子様らを養っていける筈もない、ということぐらいは分かって貰えているようである。
ただ、その上で『相済まぬが、これが精一杯なのだ』と詫びの一言が添えられ、かなりの無理をさせたようだと分かった。
……哀しいことに、祝言の費用もここから出すようにと言われている。
俺が大名を正式に名乗れるようになるのは国盗りの後で、これは仕方がない。
次に、人手だ。
「お久しぶりでございます、松浦『様』」
「よろしく、朝霧。……頼むよ」
「はい、命に代えましても」
「……うん」
朝霧は、備の一党から選ばれた十人の忍を連れて挨拶に来てくれた。
国盗りが成るまでは、一時的に俺の配下として従ってくれるそうである。
うち二人はくの一で和子様らを気遣ったもの、残りの八人は、備の党首玄貞殿の命で荒事に強い手練れを集めたのだと聞かされた。
三つ目は、俺の使う小物だった。
俺の体に合わせた裏打ち付きの大草履、新しいふんどし、小袖などが納められた行李が用意されている。
洗濯すると乾くまではふんどし一丁か、丈の足りない借り物を被って我慢していたので、とてもありがたい。
無論、大名に必要な情報の記された書物の幾つか、例えば、一般的な法律や布告がまとめられた市井大触書|、大名や武士が守らねばならない大倭武家式目なども、一揃いが行李に入っていた。
図書頭の信彬様は、このあたり流石にぬかりない。
個人的に嬉しかったのは、脇差を用意して貰えたことである。
添えられた由来によれば、『中脇差 業物 伝嶺州甲吠国住伊月友兼造』とあった。
……いや、正しくは朝霧に読んで貰ったのだが、その内と言わず、読み書きには腰を据えて取り組まなければいけないようである。
そちらは横に置くとして、この脇差、それなりにいい品を用意していただいたようで、申し訳なく思う。
長さ一尺八寸――五十センチ少々、反りは浅く、柄巻は薄茶、鞘は黒漆で姫護正道と同じく美しい光沢がある。
抜いてみたところ、若干頼りないような気もしたが、姫護正道は特に肉厚の造りで、龍神様に鍛えて貰うより前から普通の刀じゃなかったなあと思い出す。
だが、腰に差してみると……うん、悪くない。
士分でもそれなりの立場なら打刀と脇差の大小二本差しが常装とされているが、その一本が木刀では、使い勝手はともかく少々見栄えが悪いなあと思っていたので、実にありがたい。
但し、必ず大小二本差しにせねばならないというわけではなく、脇差一本しか身につけない代わりに槍や弓を持たせた小姓を従えたり、力を誇示する為これ見よがしに野太刀を背負ったり……あるいは、貧乏故に正式な登城や戦働きの際には仕官先から借りるなど、ある意味、自由度は高いそうである。
また、実際戦うにしても、俺の場合は龍神に鍛えて貰った姫護正道をほいほいと抜くのはどうも躊躇われるなあと思っていた。
「では、お願いします」
「承知!」
もう一日ぐらい出発を伸ばしてくれても……と思いつつ、部下として預けられたばかりの備の小頭、犬槙と資子殿に相談を持ちかけ、相場を聞いて貰ったばかりの金子と俺の懐から合わせて二十五両を渡し、買い物を頼む。
人数が急に増えたとは言え、海路道中の食糧などは寄港地で買い込めるだろうが、女房衆はまともに旅支度も整っていなかったし、個人的に……釣り竿が欲しかったのだ。
「松浦様、そろそろ皆様お揃いになりますので……」
「はい、すぐに向かいます」
夕方は信彬様らと別れの会食があり、訓を垂れられ未来を言祝がれとしていたおかげで和子様静子様には声を掛けられず、その上翌朝も早いとあって、早々に寝床に入るよう促された俺だった。
翌朝の日の出前、見送りは信彬様、澤野家の筥満様のみで、随分と静かな旅立ちになった。
俺、和子様、静子様、アン、資子殿、朝霧。
そこに女房が八人と忍が十人加わって総勢二十四名、細国の国盗りにしては大所帯であるという。
おまけに港までの移動の為、牛車の牛飼いに荷を積み上げた大八車と引き役、それに案内として清行殿が同行してくれていたが……もっと別れを惜しんで長々とやり取りでもするのかと思えば、皆、淡々としたものだ。
「よい知らせを期待しておる。……静子を頼む」
「はい、信……義父殿」
「……うむ」
自動車・鉄道・飛行機と長距離高速の移動手段がある上、更に電話やメールで簡単にやり取りのできる現代の方が、覚悟が決めきれないのかもと、ふと思う。
……ああ、俺のことか。
都にはひと月弱しか滞在しなかったが、居心地は悪くなかった。
「どうぞ、用意が調ってございます」
「ええ、お願いします」
予想もしなかった形となったが、当初の目的である和子様の離京も無事に達成……いや、せめて船に乗ったら、正面から話し合いたい。
動き出す牛車に目をやり、ため息を一つ。
……女の子と『付き合う』のと『結婚する』の間には、どのぐらいの差があるんだろう?
ましてやそれが三人で、俺はまだ覚悟が決まりきらないと来ている。
ひっぱたかれはしないだろうが、少しぐらいは……覚悟しておこうか。
俺達を乗せた三百五十石積の廻船『甲子丸』が京を船出したのは、その日の昼前、潮に合わせて風の流れが変わった頃だった。