第三十三話「龍神フローラ」
今上とアンの謁見から数日。
俺は牛車を守りつつ、東にあるという龍神のお社へと向かっていた。
旅の中心はいわゆる平安牛車……とでも言えばいいのか、アンと女房殿の乗った畳二畳敷ぐらいのスペースがある二輪の黒塗り牛車で、荷物や供物の乗った細長い大八車が別に一輌用意されている。
徒歩でついていくのは、女房殿配下の女性が二人に、交替で大八車を押し引きする舎人と牛の世話役が合わせて六人。
まあ、贅沢は言えまい。
失礼ながら、鷹原のお殿様の三州公御挨拶に比べれば、倍以上の人数だ。
護衛は居なかった。
俺の腰には木刀と共に姫護正道が戻っていたが、無論、俺は通詞訳としての同行である。
但し、アンの立ち位置は今上の客分として別格、一行の中では女房殿が一番官位が高いものの宮中の女性であり、まとめ役は何故か一番ものを知らないはずの俺になっていた。
実際の仕事は舎人任せだが、従八位下、侮りがたしである。
『松浦一郎和臣、国盗りを致せ』
都近くでは、我先にと手柄目当ての侍や衛士が野盗を狩るので治安は地方よりいいそうだが、護衛がゼロというのも心配なので、俺は最後尾を歩いて車列を見守りながら、信彬様より与えられた課題について考えていた。
昨日、もう一度訪問して下さった信彬様は、嬉しそうな顔で『例の件は本決まりになったぞ』と報告して下さった。
ついでと言っては失礼千万だが、和子様からは了承の返事を頂戴し、静子様も頷いていたという。
……恐ろしいことに、俺の意見などどこにもないままであった。
大体、こちらでは適齢期……より少し遅れ気味の静子様はともかく、和子様は数え年で十三――実年齢十一歳。
現代日本でなら即逮捕であり、言い訳など出来るはずもない。
家族は心配してくれるだろうが、俺の行く末ではなく、頭の方だろう。もちろん、それより先に縁を切られそうだ。
だが、現代日本でないならば、例えば徳川家康などの例もある。
日本史の教師が、価値観や倫理は時代と人の都合で変わると、将軍様の嫁一覧を引き合いに出して教えてくれたので覚えていた。
そもそも静子様もこちらでは嫁き遅れとされているが、数えで二十二、満二十歳の娘さんなら俺より若いわけで、なんだかなあと思ってしまう。
では、それらひっくるめて二人と結婚するのがいやなのかと言えば、二人とも美人なら性格もそれぞれに好ましいわけで、不誠実だなと頭の片隅で考えはするが、明確な否定は出来ず、美人二人に『俺と結婚してもいいよ』と言われている。……とも取れるから、嬉しくないと言えば嘘になる。
ああ俺も男だなと苦笑で済ませておくべきか、それともモテ期がやってきたと手放しで喜ぶべきか、複雑な心境だ。
だからと男の側に都合が良すぎるわけでもないようで、当たり前だが、二人の嫁には二人分の生活費と心配りが必要なのである。
また広く認められていようと、外野からのやっかみもあれば、嫁同士での争いを仲裁するのも男の仕事であり、妻の実家への気遣いも二人なら二倍、三人なら当然三倍と、大きな収入があればそれでいいわけじゃないそうで……。
元は大学生だった俺には無論、実感も何もないが、躊躇いを覚えるには十分だ。
ただ、直近の状況を思い浮かべれば、正室が側室が……などと考え込んでいる場合でもなかった。
和子様、静子様の――二人の安全こそが第一で、それこそ、俺が信彬様らの企みに乗り切って国盗りを成功させないと、酷いことになってしまう。
俺自身が今ひとつ納得できていない部分もあるが……ともかく、二人に会ってきちんと話を通すまで、しばらくは棚上げするしかないようだった。
その実行だが……この参詣中に場所が選定され、俺だけでなくお二人まで、即刻都を旅立つことに決まっていた。
なにせ、三州水軍自慢の『瑞龍丸』でも美洲津から都までひと月半だが、いきなり借りられるはずもなく、移動はこの参詣旅行と同じく牛車に大八車か普通の船がせいぜいで、往復には時間がかかりすぎる。
今のところ、俺が国盗りする舞台は条宮様の言葉通り、三州かその向こうの草州になる予定だった。
皮肉なことに、やはり都からは少しでも遠い方がいいだろうと、信彬様もため息をついていた。
立野の御山にあるという龍神のお社は都から二日の距離だが、一日目、都を出てすぐの宿場の手前から、もう御山が見えていた。
大体、都も大概は広い。つまりは、御所からの距離が『二日』なのである。
こちらに自動車はないが、聞いてみると、都と立野は馬を飛ばせば日帰りできる距離とのことだった。
「到着です、松浦殿」
「ご苦労様です」
太陽はまだ高いが、夕方まで歩き詰めをして距離を稼ぐような旅ではない。宿場に着けば、その日の旅程は終わりである。
都に近いおかげか宿場も繁盛しているようで、十数軒の旅籠だけでなく、店も多ければ人通りも多かった。
その内の、一番上等そうな『多幸也』――たこやと当て字で書かれた旅籠田子屋が今日の宿である。
「さ、浅沙殿」
「Thank you, Mrs.」
アンも女房殿も一日牛車に揺られていたせいか、お疲れ気味のようだ。
俺も舎人を手伝って、荷を宿に運び入れていたが……。
「あ」
「どうかされましたか?」
鼻をくすぐる、だしと醤油の香り。
見れば目の前を、『二八』の暖簾を垂らした屋台が通っていく。
腹がぐうと鳴るのを、止められなかった。
「……皆さん、腹、減ってないですか?」
「ええ、それは……」
舎人と顔を見合わせ、頷く。
夕飯までには、まだ時間があった。
「すみません!」
「へい、旦那!」
「えっと……とりあえず、七人で七杯!」
「毎度あり! 屋台を寄せますんで、しばらくのお待ちを!」
無論、男連中だけ何か食うというのはずるいので、かけ蕎麦の出来上がりを待つ間に通りがかった葛餅売りから四皿買い、部屋の女性陣にも差し入れる。
「Ichiro, is good, what is this? Clear pudding?」
「松浦、気遣いは不要ですよ。……ふふ、ありがたくご相伴に預かりますが」
かけ蕎麦一杯十六文の七杯と、おまけに葛餅で百四十四文が俺の財布から出ていったが……女性から食の恨みを買うととんでもないことになるのは、妹でよく学んでいた俺だった。
理屈では、ないのだ。
「……ふう」
濃い目のつゆが、たまらない。
天ぷらどころか蒲鉾や葱さえ乗っていないかけ蕎麦は、あっと言う間に俺の腹へと消えた。
二日日は旅程が更に短く、昼に茶屋で休憩をとってから一刻もかからずに、立野の御山の麓へと到着してしまった。
立野の御山はそれほど大きな山ではないものの、周囲に平野しかないお陰でよく目立つ。
丁度、水田や畑が広がる中、大きな古墳がぽつんとあるような感じだろうか。
門前町はそれほど大きくないが、都に近いせいか参拝客はそれなりに多いようで、賑わっている。
「今日のところは、ゆるりとしましょう」
「はい、女房殿」
俺も刀を置いて、男部屋だと案内された板間の隅にごろんと転がる。
鳥居の向こう、御山の中腹には社殿も見えているが、参詣は明日となっていた。
翌朝、宿には迎えの巫女さんが既に待っていて、俺は龍神への供物として持ち込まれた餅や米俵、酒樽を積み上げた背負子を担いだ。
「Ichiro, you are so powerful!」
「まあね」
幾つか石段を登って、手水場で手と口を浄める。
造りは伊勢神宮や出雲大社ほど大きくはないが、社殿の背後にある森とも相まって、雰囲気は清浄かつぴりりと引き締まっていた。
「どうぞ本殿へ」
「ありがとうございます」
社殿の扉が開かれると、目の前には澄んだ池があった。
流石は水の神様、池その物がご神体の扱いなのか、供え物をする祭壇が社殿の吹き抜けの向こう側、池の手前にある。
言われるままに荷を降ろし祭壇へと並べ終えれば、俺の仕事は通訳に戻った。
「What should I do?」
「アン、えーっと、……ゆー・うぃっしゅ、あんど・せい……ぷれい・さんきゅー」
「All right」
巫女さんに確認を取って慌ててアンに二礼二拍一礼を教え、俺も同じく龍神様へのお礼を心の中で祈る。
『気遣い、相済まぬな、松浦一郎和臣』
「……え?」
手を合わせた途端聞こえてきた見知らぬ女性の声に目を開ければ、池に微かな波紋が浮かび、身体の透けた龍が浮いていた。
「龍神様……!?」
本物……いや、半透明だから、姿だけをこの場に現しているのかもしれない。
しかし、龍の姿は人の大きさほどでも、その存在感は間違いなく本物で、圧倒的だった。
『如何にも、妾は藍龍富露雨等。
帝にもアナスタシアの保護を頼んだが、主の力添えには感謝しておる。主がおらねば、アナスタシアの心は壊れておったであろうの。よい時に居ってくれたものだ』
……これまで、この世界に来て神通力や忍術にも驚いたが、今回は極めつけである。
龍神のお社にお参りに来たんだから間違いじゃないんだろうけど、神様と直接話をしてるんだよなあと若干緊張しつつ、俺は頭を下げた。
「いえ、私も思わぬ形で官位をいただきました。ありがとうございます。そのお陰で、お姫様達を助けられそうです」
『ふふふ、では相身互い、それぞれが助かったとしておこうかの』
好意的な感情の波動……とでも言うのだろうか、くすぐったい気持ちになる。
隣のアンを見れば、目を閉じて両の手を組んで祈っていた。
ぴたりと止まっているが、彼女が動かないのではなく、俺だけが動けるのか、女房殿や巫女さんも固まったままである。
『む? お主、微かながら神気をまとっておるようだが、龍なり御神なりと話すのは初めてかえ?』
「はい、初めてです。……え、神気!?」
『それも知らぬのか。いや、お主も渡り人であったの。……こちらに飛ばされて、どこかの御社に詣でたことはないのかの?』
「神社には……こちらに来てからは一度か二度、参拝したように思います」
三州で葬式の手伝いをした時、社務所での挨拶と形だけのお参りだが、神社に行った覚えがある。
それに神気は……たぶん、力の出る不思議に関係しそうな気がした。
『ふむ、ご不在の折であられたかもしれぬの……。しかしその微かな加護では、妾もどの御神の神気であるかまでは読めぬ。知己の御神とも限らぬしの。折を見て、どこかの大社なり霊山なりを訪うてみるがよかろう』
「ありがとうございます、フローラ様」
『おお、よい響きである!
こちらの者は、妾の名を『ふろうら』と覚え伝えておるようでの。……我も別界よりの世渡り者である故、致し方のないことだが、時に寂しく思うておったのだ』
フローラ様はふむと頷き、思案でもするかのように、左の爪で長い髭をしごいた。
『さて……主にも聞かせねばの』
「はい?」
『アナスタシアは別界におわす妾が兄様、黒獅子フリードの加護を受けた血筋なのだ』
アンの飛ばされた事情は、俺の英語力では細かいところまでは分からなかったし、アン自身もよく分かっていなかった。
ありがたく聞かせて貰うことにする。
『兄様は今、魔禍との大戦を終えられたばかりにて、力を失っておいでである。普段ならば天変地異を押さえるにも一手間で済むところ、大変な苦労をされていような。
だからと、運悪く魔禍の眷属の生き残りに襲われたこの娘が、加護が間に合わぬまま海の藻屑と消えゆくを見るも忍びず、兄様は妾を頼られた。
だが、別界にて力を振るうのは妾にも困難極まるのでな、危急故に大御神にも助力を乞い、この社に近く大倭でも有数の神域である御所の内裏を借りて、ようやくのことでアナスタシアを助けたのだ。
命こそ救えたものの界渡りになってしもうたが……今しがた、彼の娘もようやく得心してくれたところだの』
……流石は神様、同時進行でアンにも語りかけているらしい。
救われていながら、この大倭へと飛ばされた彼女。
いきなり飛ばされた俺よりはましなのか、そうでないのか……。
俺も自分の飛ばされた理由やその時の様子を知りたいものだが、これは単なるわがままだ。
『それら事情も鑑みて……これからも、彼の娘を主の傍らに置いてやってはくれぬか? 内裏では窮屈であろうし、この社で好きに過ごさせるかと考えておったのだが……ふむ、なかなかに強情でな』
「強情……?」
『おっほん。あー、彼の娘をよく知り、彼の娘からも信を得ておる主であれば、まあよかろう、とは思うのだが……』
フローラ様は、俺の様子を伺うかのように、ちらっと上目遣いだ。
案外、人間くさい龍神様である。
だが、強情とはなんだろう?
アンが龍神様に、わがままでも言っているのだろうか。
しかし、都を去る俺としても心残りが減るわけだから、ここは引き受けるべきだろうと思う。
俺に縋って泣いたあの時の様子を思い出せば、放っておけるはずもない。
「俺で、よければ」
『おお、受けてくれるか!』
髭がぴんと上に伸び、鱗がゆらゆらと波打ち虹のように反射する。
どうやら、喜んでおられるらしい。
『では……礼に加護でも授けようと思うたが、神気をまとう者相手に下手なことは出来ぬか。……ふむ、後ほどその腰のものを池に沈めい。妾が鍛え直してやろうぞ』
「はい、ありがとうございます」
すうっと、フローラ様の姿が薄くなる。
『ああ、そうであった。
アナスタシアとの間に子が産まれたら、必ずこの社に連れてこい』
「へ!?」
『そこな女房より主の事情は聞いた。なあに、二人も三人も変わらんであろ。主に惚れ込んでおる故、大切にせいよ……』
ほっほっほと上品に笑って消えてゆく龍の影に、慌てて手を伸ばそうとしたところで、気付く。
俺の両手は、拝んだときと同じく合わされたままだった。