第三十二話「御製が導いた奇策」
松見院の小部屋、人払いをした中で件の扇を広げ、信彬様の解釈を聞かせていただく。
松によりて 枝のむかふの のとやかな
きみのわらはの あすや頼もし
「そのまま解釈をすれば、一郎が女房殿から聞いたとおりであるな。浅沙殿の様子をご覧になった今上が、そのお気持ちを詠まれた、となろう」
だがなと、信彬様は言葉を切った。
「この折である、『枝』は『条』宮様以外、あり得ぬだろう。となれば、『のとやかな きみのわらは』は長閑な浅沙殿の笑顔ではなく、『和』なる大君の童、『和』の字で雲宮様だ」
「はい……」
「条宮様の矛先が、雲宮様に向いておる、と解釈できよう」
和子様のことまでは気付かなかったが、枝はそうかなと、俺も思っていた。
「そして中の三句を抜けば、『松によりて あすや頼もし』。松に因り――松浦のお陰で、未来に望みが繋がったと、あるいは娘のことを頼むとも読み解けるな」
「少し、強引な気も致しますが……」
「通詞役でしかない八位の使部に御製を下賜されることが、そもそも珍しきことなるぞ。加えて上の句のはじまりは『松』、名指し以外に解釈のしようもないわ。お主が松見院にて通詞をしておることは静子にも伝えているのでな、雲宮様を通してお主の名をお耳にされていても不思議はない」
信彬様が表情を弛め、無論、女房殿の解釈こそが表向きぞと、俺に念を押した。
「こちらも、な」
「はい」
「手は尽くしておった。今上に雲宮様の降嫁を認むとのお宣詞さえ言わしめた武州には、風当たりも強いのだ。手打ちとまでは行くまいし禍根も残ろうが、雲宮様の内親王位の返上と地方の細国への降嫁――今上のお宣詞に違わぬことを条件に、以後の一切はこちらで仕切ると、武州には飲ませた」
「では……」
「雲宮様は清澤家の養子となられ、さらに清澤家の分流、澤野家へと再び養子に出される」
母上の実家の清澤家では、細国の大名家に嫁がせるには家格が高すぎるそうだ。
予断は許さないが一安心、というところか。
少なくとも、後宮の中より身の危険は小さいだろう。……と思いたい。
「酷い……ですね」
「おそらく後宮はもう、手の着けようがなかろうな」
「そう言えば、後宮内部の力関係は、どうなっているのでしょうか? 女房殿も、口を濁して教えて下さいませんでした」
「……資子殿も、柵の板挟みにて、苦しいところであられような」
女房殿の名前は初耳だった。
茶で口を潤した信彬様が、顔を顰める。
「反武州や中立の立場にあって、暇を願う女房や女孺は後を絶たぬし、武州派の係累でない姫皇女様で降嫁しておられぬお方はもう、雲宮様ただお一人。女御様方も、やはり内裏から市中の別院などへと移られることも多いのだ。……皮肉なことに、今や後宮は見事に一枚岩であるわ」
やっぱり、後宮はもう駄目らしい。
そう言えば、俺の覚えている高校で習った日本史でも、帝に自らの娘を嫁がせ、外戚として権力を握る方法を実行した家があったように思う。
あれは公家だったがこちらは武家で、なお始末が悪いかもしれない。
……そのうち、こちらの歴史も一度ぐらいは聞いておきたいものだ。
「雲宮様の嫁ぎ先は、草州と聞きましたが、もう国まで決まったのですか?」
「いや、嫁ぎ先については草州でなくともよくなった。都より遠かろうと、条宮様が勝手に申されていただけと知れたのでな。
……だが、こちらでも未だ決めかねておる。のうのうともしておられぬが、立身や係累を目当てに名乗りを上げるような虚けに嫁いでいただくなど以ての外、しかしながら、それなりの器量を示していようとも、小国以上の国主では今上のお宣詞に反するだけでなく武州もまた文句をつけてこようからこれも却下と、頭を悩ませていたのだ」
そもそも細国の詳しい内情は、近隣にでも人を送らねばよく分からないことが普通だという。
良かれ悪しかれ、目立つ噂があるなら、それだけでもう候補から外していいほどらしい。
悪い噂は論外だが、良すぎるなら疑ってかかるべきと、信彬様は一度言葉を切り、面白そうに俺の方を見た。
「だが、今上の御製を拝見して、奇手ながら妙案が浮かんだ。
吾は先ほどまで、お主には静子を娶らせ、雲宮様の支えとして降嫁に付き合うて貰うよりあるまい……と考えておったのだがな」
「の、信彬様!?」
ちょっと、待ってくれ。
いや、静子様のことは嫌じゃないが……え!?
「うむ?
女官としての評判も良いし家族思いの優しい娘だが、選り好みの激しさに加えてあの背丈と気の強さ、男共の懸想文にもつれない返事ばかりと、吾も妻も半ば嫁に出すのは諦めておったからな。まだ軽く問うてみただけだが、まんざらでもない様子であった。お主で頷かぬなら、吾は今度こそ尼寺の伝でもあたろうかと……」
「お待ち下さい信彬様、何故突然、そのような話の流れに……?」
「突然ではないぞ。静子の文を読んでより、折につけ考えておったのだ。
これはもしやあらん、人柄を見知り真偽見極めるべしと、吾自ら案内もして図書寮でも傍らに置き、常に見ておったが……体つきに似合わず細やかな気遣いもできる働き者であると、よく分かった」
あれこれ付き合わされるなあと思っていたら、そんな理由だったのか……。
「しかも、元より飛ばされ者と聞かされておれば、血筋の貴賤などあってなきようなもの、これならばと決めた矢先、思わぬ理由なれど、従八位下となりて松浦家当主と認められたのだから、父としての吾だけでなく、薄小路の当主としての吾にも文句はない。
……清子のこともあった故な、せめて静子には幸せになって貰いたい。そう思っておるよ」
亡くなられた妹さんの事を言われると、俺としても迂闊な反論は出来ない。
「だが、それはもう、良いのだ」
「え?」
「今上の御製を前に、吾も腹を括った」
信彬様は、妙にすっきりとした顔である。
これは……とんでもないことを言われそうだ。
「松浦一郎和臣、国盗りを致せ」
「……は!?」
こちらに来て、成り上がれとはよく言われたが、今回は極めつけである。
下克上でもしろというのか、この人は……。
「いや、あの……」
「吾も力を尽くそうが、清澤家にも御製を由として助力を願い出る。兵は……ふむ、お主がおれば、備の一党から数人融通させるだけでよかろうか」
「戦を、するのですか?」
流石に聞き流せず、俺は信彬様の言葉を遮った。
「一郎、吾はなにも世の太平を乱せと言うておるのではない。表向きは細国大名ながら、人さらいに野盗海賊、賄賂の行きすぎに悪政三昧……不行状故に御成敗の許状が得られそうな者なら、雲宮様の嫁ぎ先を選ぶ中、幾つも名が上がっておった。これをお主に潰させ、国主に据える」
なるほど、悪い大名を潰して、成り代わるわけか。
……俺が。
ただ、いきなりどこかの誰かと戦ってこいなんて言われたら流石に抵抗感が強すぎると思うが、この理由なら……良心の痛みはほぼなく、納得は出来る。
案外、この短いつきあいの中で、メンタルまでしっかり見抜かれているんじゃないかと、俺は信彬様の方を見た。
……いや、ちょっと待て。
「あの、信彬様。俺が大名に、と言うことは、まさか……」
「うむ。雲宮様の嫁ぎ先に、吾はお主を推すと決めた」
さっきまでは静子様を嫁にと言ってたその口で、信彬様は何てことを言うのか……。
「静子は……ふむ、側室にどうだ? どちらにせよ、あれは当面雲宮様の元に居続けようし、下手な家に縁づけて押し込むよりは、余程よいわ」
「……」
悪びれた様子もなく、信彬様は静子様を側室にと……ああ、うん。そうだった。
この大倭は、一夫一妻を法で定められた現代日本じゃない。
そして、いつだったか幸婆さんが庄屋さんのことを笑い飛ばしていたように、お妾さんの存在は大っぴらな世界だった。
和子様だって、母上は女御――帝の側室である。
だからと大倭では愛情が無視されている、というわけではなく、多くの妻を抱え養える度量も、いい男の条件と数えられている、ただそれだけなのだ。
では、女性が酷く虐げられているのかと言えばそうでもない様子で、並の男の正妻や正室になるよりは、いい男の妾や側室になる方が幸せな価値観なのだろう。
俺は不思議に思ったが、谷端の庄屋では正妻である奥さんとお妾さんは仲良しだった。
現代日本でだって、二号さんだったり浮気だったりがゴシップとしてニュースで取り上げられることもある。古い価値観ながら、浮気は男の甲斐性、なんて言葉が未だに残っているぐらいだ。
つまりは、金を持ってる男、権力を持ってる男は、モテる……。
加えてこちらじゃ、武力なんてものも含まれるのか。
なんだかなあと思いつつも、全く理解できない、とまでは言わないし、言えない。現代でだって、金持ちはそれだけでモテる。
ここは少し、時間を貰って考えたいが……そんな余裕はないか。
割り切れないものはあるが、間違いなく、今は俺の気持ちより和子様の命、だろうなあ……。
それにここで見捨てたら、後悔するに決まってる。
「……一つ、ご相談があります」
「申せ」
「浅沙殿のことを、どうしようかと……。従八位下の官位も彼女から貰ったようなものですし、今上からは御製をいただきました。俺が今、都を離れると、かなりまずいことになると思います」
「ふむ……」
少しだけ思案した信彬様は、いかにもこちらの世界らしい返答を俺にくれた。
「浅沙殿のことならば、直に龍神へとお伺いを立ててはどうか?」
「……ええ、はい。近日中に参詣の予定で、俺も一緒に行くはずです」
「ではその間に、吾も根回しと手配を終えておこうぞ」
流されているなあと思いながらも、他に名案が浮かぶはずもなく、信彬様を見送ってから、途方に暮れて頭を抱えた俺だった。