第三十話「通詞の功」
「松浦、何をそのように驚くのです?」
不審そうな女房殿に、俺が元は和子様――雲宮様の雇われ家人であり、その縁で図書頭様から使部の仕事を紹介して貰ったのだと、表向きのみを口にした。
流石に和子様を助け出して逃がしたいとまでは、口に出来ない。
「なんと、そのような縁が……」
暗い表情を浮かべた女房殿に、こちらが驚かされる。
「あの、どうかされたのですか、女房殿?」
「雲宮様が不憫なれば……。お相手はまだ公にされておりませんが、なんでも、草州の外れにある細国持ちの田舎大名なのだそうですよ」
草州は三州よりもまだ東、大倭で一番東の地域だ。
俺も行ったことはないが、都からは遠すぎる。
ついでに細国と言えば国の中でも最下段、世話になった橋本のお殿様の領国がそうだった。
「せめて清澤女御様が居られれば、このような愚行の止めようもあったかもしれませぬが、それは無理というものです。雲宮様に於かれては、お可哀想にと思うよりありませぬ」
清澤女御様とは、亡くなられた和子様の母上なのだそうで、俺も初めて名を聞いた。
そして……。
「常であればそのような嫁ぎ先、どこをひっくり返そうと、出てくるはずがありませぬ。
そも、内親王様の降嫁なれば家も絞られますが、どれほど低くとも中国以上の大名家が相場というもの。大昔のように、公家の上流か宮家でなくばならぬとまでは言いませぬが、これは目に余ります」
「……止められないのですか?」
「今上の御宣詞です」
「え!?」
今上帝は、もちろん和子様の実父であり、先の逃避行でも陰ながら支援されていたんだが……。
「……例えそれが、後宮の諍いをこれ以上荒立てぬよう、雲宮様のお命を無碍に散らさぬようと、気遣われたものであったとしても……覆しようがありませぬ」
手間の掛かることに、一度どこかに養子へと出されて臣籍とした後、改めて嫁がせるので、形式上は問題ないそうだ。
……もう駄目なんじゃないかと、俺は思った。
無論、和子様の事ではなく、後宮が、である。
「あの、女房殿。やはり……条宮様が?」
「松浦、やけに詳しいですね?」
「静子様の教えの賜かと」
「……あの気丈者が、松浦に!?」
「え!?」
思わず、女房殿と顔を見合わせる。
「あの、静子様はいつも懸命で……でも、時に冗談も仰いますし、物腰も柔らかなお方だったと思いますが……」
「薄小路家の静子と言えば、働き者で情に厚く、女房仲間からも頼りにされていたものの、方や、男子には辛辣なほどに堅物と有名であったのですよ。あの背丈と気の強さが揃っておりながら、実に良くできた女房として評判も高く、貰った懸想文や恋歌の数なら並の女房では及びもつかぬほどでしたものを……」
……静子様は、もてていたらしい。
必死で和子様の身を守ろうとしていたあの瞳や、船中で手間を惜しまず手紙をしたため続けておられた姿。
改めて考えてみるまでもなく、そりゃあそうだろうと思う。
それはともかくと、女房殿は顔を引き締められた。
「条宮様は、とにかく雲宮様を貶めたいのでありましょう。今更、何故、とは申しますまい」
「はあ……」
「静子には、私がお仕えしていた紗宮様が降嫁される前、大変世話になっておりました。
松浦、私や貴男如きでは何を出来るわけでもありませぬが……せめて、雲宮様の幸せを願いましょう」
女房殿と、再び重いため息を交わす。
……俺は一礼の後、無言で松見院を出て、宿直所へと足を向けた。
短い距離を歩きながら、状況を整理してみる。
考えたからとどうなるものでもないが、非常にまずい。
……あまり悪いことはしたくないが、嫁入り道中を襲って和子様と静子様を助け出すぐらいは、頭の隅に置いておくべきか。
無論、一番最初は御料地から行方をくらまして逃げると仰っていたぐらいだし、今も考慮に値する重要な選択肢の一つである。
だが、後宮は条宮様の一派が第一勢力であるにしても、生母の実家である武州は、姫の我が侭をそのまま表に出してしまえるほど、力が強いんだろうか?
それに反武州派もいるようだし、中立……いや、弱小の各派だってあるだろうに、その噂は聞こえてこない。
本当にどうなってるんだろうと、首を傾げる。
これでよく国が保っている……いや、九大大名家がそれぞれの地域を従え、京を一つの武装中立地帯だと考えれば、安泰とは呼べないものの全体では辛うじてバランスが取れているのか。
聞いたことをそのまま鵜呑みにしていいものか分からないが……ニュース番組やネットなどあるはずもなく、出歩けないので噂話も限られた範囲でしか聞けずと、今ひとつ世情に疎い俺だった。
「松浦、起きろ! 急いで着替えい!」
翌日、俺は出仕前どころか、着替える前にたたき起こされた。
「さ、左衛門佐様!? はい、すぐに!」
ただ事ではない。
……当たり前だが、大事な用があって俺をたたき起こすにしても、信彬様と同じ従五位下の貴人が俺の寝床まで自分で来るというのが先ず、おかしかった。
ふんどし一丁の寝姿から、さっと小袖を羽織って細帯を締め、袴を履き、ぱんと頬を叩いて目を覚ます。布団は……それどころじゃない。
「ついて参れ!」
「はい!」
驚きのお陰で、頭はもう冴えていた。
小走りに表に出る。
「急なことだが、先ほど内裏の使いが、今上の松見院行幸を知らせに参った」
「……え?」
「浅沙の姫君を見舞われるとのことで、こちらも至急人を走らせているまっただ中だ」
左衛門佐様を先頭に、松明を掲げた数人の武士に囲まれて連れて行かれた先は、式部省だった。
「これに先だって、お主は従八位下に叙せられる。お主がおらぬでは姫君と話も通じぬが、今上の御前に初位の者を侍らせるわけにも行かぬからな」
とにかく叙位の儀を済ませよと、こちらも慌ただしい様子の式部省の入り口すぐで、式部少輔殿がこちらを待ちかまえていた。
簡易というか至急なのだろうが、以前、下式司で官位を授けられた時より、神職らしき人や盆にのせられた書状を持つ人がいる分、多少豪華である。
「図書寮使部、少初位下松浦一郎和臣。この者を従八位下に叙す」
懐に入れっぱなしだった黒塗りの札が新たな朱塗りの札と交換され、祝詞を授けられて儀式は終了した。
「表向きは、龍神の御加護を授かりし浅沙の姫君との通詞の功を賞す……となるが、こちらも困り果てておった故、役得というよりは正当なる評価、胸を張れい」
「はい、ありがとうございます」
「左衛門佐様、お急ぎと伺っております。我らのことはお気遣いなく」
「うむ、ありがたくご厚意をお受けする。では方々、失礼致す」
そのまま一息入れる間もなく、足早に松見院へと向かう。
こちらも大きな騒ぎになっていて、新しい畳が運び込まれていた。
「女房殿!」
「左衛門佐殿、お待ちしておりました! 松浦、すぐにこちらへ!」
「はい、ただいま!」
左衛門佐様へと挨拶を返す暇さえ与えられず、そのままいつもの部屋へと向かう。
すぐに若干不安げな様子のアンが飛びついてきて、俺を見上げた。
「Ichiro! What happened?」
「あー……っと、とぅでい、えんぺらー・かむ・ひあ」
「Oh!
.....What should I do?」
「そうだな……」
……ほんと、どうすればいいんだ。
俺はアンの頭を撫でつつ、背後の女房殿を振り返った。
「あの、俺はともかく……いや、俺だって作法はまだ怪しいのですが、アンの作法はどうすればいいんでしょうか?」
「未だ挨拶すらも数手の段階が必要と、伝えてはおりますが……初手の座礼だけは、必ず伝えなさい」
「……あの、見本をお願いしてもよろしいですか?」
「ええ、その為の私です。それから、松浦も用意を」
「はい?」
「その裸足、流石に無礼どころではありませぬ」
もう、帝の訪問までたった半刻――一時間もないという中、俺は……俺に履ける白足袋はないだろうと、女房殿の連れてきた針子二人が二足の足袋を潰して一つの大足袋を作る横で、女房殿を手本にアンへと挨拶を教えていった。