第二十九話「浅沙」
アンと出会った翌日、俺は新たな職場となった松見院へと向かった。
日が出ていれば、通行手形代わりの武士がいなくても大丈夫らしい。
何やら、内裏の建令門の方が騒がしい様子だが……俺には関係ないか。
下手に近づくと酷いことになりそうだし、気にはなるが、首を突っ込まない方がいいだろう。
大人しく松見院に向かい、女房殿に挨拶をする。
「おはようございます、女房殿。アンはもう起きていますか?」
「ええ。一郎、一郎と、貴男のことを待っておりますよ」
中に通して貰い、握り飯の朝食を彼女と食べた後、辞書を作りたいことを、身振り手振りと、その場で用意した単語が五つしか書かれていない見本で理解して貰う。
「うぃー・めいく・でぃくしょなり」
「Yes, I understand」
俺の知っている限りを並べ、アンに確認を取っていくと、午前中だけで簡単に百を越えた。
無論、まだまだ日常会話は成り立たないわけで、これは想像以上の難事になりそうである。
「Ichiro, “Mizu hosii”」
「はい。ちょっと待っててね。……じゃすた・もーめんと」
本当は、『飲みたい』と教えるべきなんだろうが、『欲しい』一つを覚えれば、他の事柄にも応用しやすい。
それに、一度に多くを覚えようとしても、覚えきれなくて混乱するだろう事は、身をもって知っていた。
「はい、どうぞ」
「Thank you, Ichiro」
休憩のついでに、アンを助けたのが龍神だと伝える。……伝えようと努力をしてみる。
「Ryu-Jin?」
「あー……っと、りゅうじん・いず・ごっど・おぶ・どらごん、せーぶ・ゆあ・らいふ、あふたー、ゆー・けいむ・でぃす・わーるど」
……単語すらあやふやなのに、文法とか、もう知らん。
とにかく、懸命に教えて貰った限りを伝える。
「......Here is the another world?」
「いえす」
「Do I go home ?」
「……そーりー、あい・どん・のう」
「Oh......」
流石にアンは、下を向いてしまった。
出来るだけ、優しく声を掛ける。
「ばっと・せいむ、せいむ」
「Ichiro......?」
「あいむ・ふろむ・あなざー・わーるど、とぅ。……せいむ、あい・くどんと・ごー・ほーむ。せいむ、あん」
本当は、一人じゃないよと、声を掛けてやりたかったが、生憎俺の英語力では無理だった。
少し寂しげな様子のアンを気遣いながら辞書を作っていると、昼前にまた女房殿がやってきた。
「松浦、入りますよ」
「Ichiro, Who are the other side of the door ?」
「はい、大丈夫です。……女房殿だよ、アン」
「Nyo......? Oh, is yesterday's Mrs.」
今度は数人の女官を連れている。
俺は名を教えて貰っていないので、左衛門佐様を真似て女房殿と呼ばせて貰っていた。
「松浦、先ほど内裏より使者が使わされ、今上の思し召しにより、この娘には浅沙と名が贈られると報せてきました」
「浅沙?」
「この娘が現れた池に咲いていた、黄色く美しい水花ですよ」
アナスタシアやアンは本名であろうからと、気を使われたらしい。
俺も和臣の名は何か重要な場合でもないと名乗らないし、信彬様も『従五位上 薄小路図書頭信彬』で間違いないものの、薄小路図書頭○○信彬か、信彬△△のはずだった。
もちろん、もっと長い可能性もあるし、特に身分の高い人はもっと長かったり、公に知られている普段の名乗りとは全く外れた別の本名をもっていたりするそうだが、俺が知っておかなければならない約束事は、大体このあたりまでで済むらしい。
「水花……えっと、蓮の花ようなものですか?」
「見た目も色も違いますが、水の上に咲く花というところは合っています」
ついでに……実はこの女房殿、偉い人なのかもと、今日になって気付いた。
単なるアンの世話係かと思っていたら、内裏に近い位置にあるこの松見院の一切を取り仕切っていらっしゃる。
「それから、こちらにいらした時のお召し物が、ようよう乾いたのです」
「Wow! That's the clothes I wore. Thank you, Mrs.!」
畳まれたそれを受け取ったアンが嬉しそうで、何よりだ。
アンがお礼を言ったらしいと気付いた女房殿も、笑顔を返している。
……そういえば、俺の服は幸婆さんに預けたままだったと思い出す。
あれもそのうち、取りに行きたい。ふんどしも借りたままだ。
「そうでした、アンがこちらに現れた時、池に大きな水柱が立ったと聞きいていました。地面の上なら、大怪我になるところだったとか……」
「ええ、ええ。龍神様のご加護でありましょう」
「確かに。……え、アン!?」
「What?」
アンが広げたそれは、明らかに普段着の域を大きく越えたドレスで、俺は頭を抱えた。
最低限、どこかのお嬢様だ。
「参ったなあ、コスプレじゃないよなあ……」
アンと女房殿に断りを入れて筆を持ち、穴埋め問題にもなっていない表を作る。
王――King
公爵――
侯爵――
伯爵――Earl
子爵――
男爵――Baron
騎士――Knaight
男爵のバロンはともかく、伯爵を覚えていたのはフィッツジェラルドと母親の飲んでいた紅茶の銘柄のお陰だ。
「アン、ゆあ・ふぁーざー、うぃっち・くらす?」
「......You're wrong」
彼女はくすっと笑って俺から筆を取り上げ、騎士――knaightに線を引いてKnightと書き直した。……aはいらないらしい。
ついでに、Earlのところに○が描かれ、俺はもう一度ため息をついた。
「いず・ゆあ・ふぁーざー、……あーる?」
「Yes. My father is Earl of Ashfield」
「……おーけー、あい・あんだすたん」
「And so...... Younger brother of the king」
父親は伯爵にして、王様の弟。
ならば彼女は、王様の姪になってしまう。
アンはお嬢様を通り越して、お姫様だったらしい。
「女房殿、その……衣装が豪華すぎておかしいなと思って尋ねてみたんですが、彼女はこちらで言えば、かなり大きな大名家か公家の娘になるようです」
「まあ、なんと! こちらでも、民草の娘ではないだろうとは話をしていたのですが……」
王様の姪であることまでは言わないでいいだろう。話がややこしくなりすぎる。
ふうと一度ため息をついた女房殿は、気を取り直した様子で笑みを浮かべた。
「今上の勅により、この松見院を浅沙の為にと用立てましたが、正に、正に。龍神の加護も頷けようものです」
「ですねえ……」
「Ichiro」
アンにくいっと袖を引かれる。
「えーっと、アン?」
「Where is my magic wand?」
「マジック……え!?」
「Magic wand. Well......so, white stick, one and a half feet long.....」
本当に何でもありだなあと、俺は天を仰いだ。
アンの一生懸命な身振り手振りとマジックという言葉で、大体の想像がついてしまったからには仕方がない。
彼女は魔法を使えるらしい。
アンのいた世界が、俺のいた現代日本とは繋がらない別の世界だと、はっきり分かった。
「あー、おーけー、あい・あすく・はー。……女房殿、彼女はこのぐらいの長さの、白い色をした棒を探しているようです」
「棒……?」
「ここに飛ばされる前、持っていたようなのですが……もしかすると、彼女が現れたという池に落ちているかもしれません。一緒に飛ばされておればよいのでしょうが……」
見つかってくれるといいのだが……海で悪魔に襲われて助けられたということであれば、望みは薄いかもしれない。
彼女の幸運を信じたいところである。
「……ええ、内裏の者に伝えておきましょう」
「ありがとうございます、女房殿」
さて、昼餉に致しましょうと言われ、俺は作りかけの辞書を片付けた。
「Good-by Ichiro."Sayounara, mata-ashita"」
「うん、また明日、アン」
夕方の帰り際――今日からは、日のあるうちに帰れと言われていた――、朝以上に建令門の方が騒がしいので、やはり気になって女房殿に尋ねてみる。
「ああ、あれは……。雲宮様のお輿入れが決まりそうとのことで、人の出入りが増えているのですよ」
「ええっ!?」
これは……かなりまずい事態じゃないだろうか。
状況も何も分からないが、アンと過ごしている間に、和子様の方がとんでもないことになっていた。