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第二十八話「言葉の壁」

 泣き疲れたのか、気を失うようにして眠ってしまった少女にしがみつかれたまま、俺は詰め所に運び込まれた椅子に座らされていた。


 周囲には、信彬様をはじめ、偉い人ばかり。

 多少の緊張と遠慮ない興味のない交ぜになった視線に晒され、実に居心地の悪い状態である。


 ともかく、こちらの事情を説明するので、よく飲み込んで時期を見て彼女に伝えるようにと、俺は命じられた。


「先だって、今上の夢枕に龍神が立たれてな……」


 龍神は水や動物の神様で人々の信仰も厚く、同時に、帝家とも縁浅からぬ神様であるが……異界より救い出した小さき者を送るので、これを助けよと、お告げがあったのだという。

 

 だが、人助けのお告げなど前代未聞だったそうで、帝より勅が出されてしばらくは内裏の内部も緊張していたが、一昨日になって庭園の池に突如大きな水柱が立ち、気を失った彼女が残されていたそうだ。


 しかし少女は泣くばかりで言葉も通じず、一同揃って途方に暮れていたところ、園乃木少輔様と懇意にしていた信彬様を通じて、たまたま誰も知らぬ随筆の名を知っていた飛ばされ者――俺のことが知れ、試すだけは試してみようと今回の呼び出しに繋がったらしい。


 もちろん、同じ夢でも龍神が帝に見せた夢、これだけの騒ぎになっても不思議じゃないが……。


「家へと帰してやりたくとも異界では元よりどうにもならぬが、言葉さえ通じぬので、世話のしようもなくてな。いや松浦、大手柄ぞ」

「今上もお気に掛けていらっしゃいまして、ようよう肩の荷が下りました」

「図書頭殿、かような仕儀にて、この者をしばらくお預け願いたいが、宜しいか?」

「それは構いませぬが……」


 わずかに思案した信彬様は、俺のために頼み事を切り出してくれた。

 まあ、帝のお言葉が絡むのでは断れるはずもないかと、少女に目をやる。


 アイドルでも十分通じそうな顔立ちに、スタイルも良さげなら肌も綺麗で……。

 現代日本でなら、どう間違っても知り合いになれそうもないほどの美少女だ。


 左衛門佐様らの話を聞けば、龍神様が助けた、つまり彼女は何か危ない目にあったのだろうと想像が付いたし、なんとかしてやりたい、と思う。


「この松浦、勤めを疎かにせず真面目に役目をこなしておる事も相違ありませぬが、召し上げて半月、元は飛ばされ者の浪人にて、仕事どころか礼儀作法の仕込みさえ間に合っておりませぬ。それでも、宜しゅうございますかな?」

「そのような理由であれば、是非もなし。こちらでも配慮致そう」


 左衛門佐様が頷いて、俺は図書寮使部の立場はそのままに、左衛門府預かりとなった。

 しかも、宿舎まで御所内の宿直所に用意されるという。


 当分は街にも出られないようで、姫護正道は信彬様にお預けすることになり、了承も得ているが……。


 せっかく内裏に近い場所にいるというのに、和子様や静子様の名前は出なかった。




 次の日……ではなく、その日の内に、通訳の仕事が始まってしまった。


 場所こそ詰め所から、同じく内裏の近くにある松見院(しょうけんいん)という別の建物に移っていたが、それはともかく……。


 まったく酷いことに、やはり俺の英語力はそんじょそこらの駄目さ加減では済まないらしい。


「ぷりーず・てる・みー、ゆあ・ねーむ?」

「I'm Anastasia. Anastasia Clarice Steuart, and please call Anna」


 一応、帝の勅の絡む真面目な仕事だし、俺の向かいには彼女を連れてきた女房殿も向かいに座っておられる。


 ただし、俺の左腕はがっちりと少女にからめ取られていた。……たまにと言わず胸が当たるので、役得ながら若干申し訳ない気分でもある。


「あー、そーりー。えっと……もあ・すろうりー、ぷりーず」

「Then, I'll do this.

Anastasia. And Anna.

 ......Is it all right?」

「あー、アナスタシア? ……アン、でいいのかな!?」


 うん、やっぱり笑うと可愛い。

 詰め所での無表情が、嘘のようだ。


「Yes, Ichiro!」

「ん、アンね。女房殿、名はアナスタシア、あるいはアンと呼ぶそうです」

「アナ……?」

「正しくはア・ナ・ス・タ・シ・アですが、必要な場合以外はアンでよろしいかと」


 女房殿にも告げて、名前はアナスタシア、愛称はアンと手元の紙に書き入れ、次の質問を考えてから話す。


「じゃあ……アン」

「Well?」

「うぇあ・あー・ゆー・ふろむ?」

「I'm from the Magic Kingdom of Great Britain」

「グレート・ブリテン? ……ああ、イギリスね」


 ……とまあ、万事この調子である。


 大事な模試でさらけ出してしまった偏差値二十五の英語力は、数年越しに見事俺をぶっ飛ばしてくれたわけだ。

 本当に酷くて、自分でも頭を抱えたくなる。


 あの時も、流石にこれはまずいだろうと英語を集中的に勉強したのだが……受験こそ何とかなったものの、今更ながらにあの時もっともっと根性を入れて勉強していればとの情けない思いを胸に、俺は少女――アンへと質問を重ねた。




 夕方、風呂の方でも悶着はあったが、俺が湯殿の手前の廊下に女房殿の見張り付きで座り、どうにかこうにか済ませている。


 ……トイレだけは昨日の内に無理矢理にでも教わっていたようで、俺はそっとため息をついて胸をなで下ろした。


 暗くなって高燈台――灯心のついた油の皿に、長い脚がついた照明具――に火が点され、いい時間だと食事が運ばれてきて聞き取りは一旦翌日となったが、もちろん、通訳の仕事は続く。


「Ichiro, What's this?」

「えーっと……いっつ、みそ・すーぷ。そい・びーんず・ぺいすと・すーぷ、あんど……蕪って英語で何て言うんだ!?  うー……べじたぶる、あんだーぐらうんど、ほわいと……」


 手を使って、こんな形をして地面に埋まっている、などとボディランゲージ……にもなっていないジェスチャークイズを交えつつ、アンにも一緒に考えて貰うのである。


「......Radish?」

「ラディッシュ! そう、それ! へるしー・あんど・ぐっど・ていすと、ぽぴゅらー・べじたぶる」

「Is it really so?」


 ちなみに……当然の如く箸の使えなかった彼女は、あぐらを掻いた俺の上にちょこんと座り、あーんと口を開けて、俺が食べさせるのを待っていた。


 説明、いや、釈明こそしたが、向かいに座る女房殿は笑いをこらえる表情である。


『はう・おーるど・あー・ゆー?』

『12 years old』

『……え!?』

『Ichiro, and you?』

『……とうぇんてぃ・わん』


 アンは背もそこそこあるし高校生ぐらいかと思っていたら、先ほど聞いてみたところが谷端の若菜と同い年の子供で……驚いたが、その年頃なら甘えるぐらいはまあしょうがない。


 こちらに飛ばされてからは言葉も通じず不安続きだったろうし、スキンシップはともかく、不安げな表情を見つけると、やはり放っておけないだろう。


「女房殿、彼女のお膳のご飯は、握り飯にしていただけると助かるのですが……」

「ふふ、ではそのように致しましょうか」


 とりあえず……次からは握り飯にして、粥を食べるときに使う匙も一緒に用意して貰おうと、俺はその場で女房殿に願い出た。




「じゃあ、おやすみ、アン。えーっと……ぐっない、アン」

「Good night. See you tomorrow, Ichiro」


 彼女の寝所が用意される頃になって、迎えに来てくれた武士に連れられ、松見院から三棟向こうの宿舎へと移動する。


 正しくは迎えではなく、通行手形になるのか。

 俺がこの時間に一人で御所内をうろついていれば、例え命じられたお役目であっても問答無用で斬られるそうだ。


 宿舎は左衛門府の宿直所で、中では左衛門佐様が俺を待っていた。


「待ちかねたぞ、松浦。どうであったか?」

「今は落ち着いています。女房殿にも笑顔を向けていましたし……」

「そうか。それから、彼女のことだが……」

「はい、女房殿にもご報告いたしましたが、彼女――アンは、船旅の最中、悪魔……悪い魔物に襲われたそうです」


 オーシャン、トラベル、ガレオン、デビル、ストライク……。


 何度も根気強く話しかけて聞き取り、辛うじて意味の分かった単語をつなぎ合わせて、無理矢理解釈したことを付け加える。

 アンが幾ら詳しく覚えていて、それを全部話してくれていたとしても、俺の英語力がついていかない。


「ただ、その後は気付けばここに居た、という感じで、どうやってここまで来たのかは彼女も分からないと言っています」

「ふむ……。場所までは、分からぬか?」

「はい。言葉こそ通じましたが、私が飛ばされる前にいたのと同じ国……世界であったとも言い切れませんでした」


 アンの話を信じるならば、彼女は船旅の最中、『ガレオン』船に乗っていて、『悪魔』に襲われた、ということになる。


 グレートブリテンは、多分イギリスで間違いないだろう。悪魔もダイオウイカのような実在に極めて近い存在と見間違えた可能性も否定できないし、ガレオン船だって昔はあったはずだ。


 そう、昔。

 俺の知る、現代じゃない。


 その上、アンが飛ばされてきたここ大倭は、改めて言うまでもなく、小鬼が人を襲い、神主が神通力を使い、龍神も……多分実在する世界だった。


 それに大倭と繋がっている世界なら、必ずしも同じとは限らない。

 少なくとも俺と同じ時代の少女じゃないことは、明白だった。


「では……松浦よ、主もただの飛ばされ者ではなく、世渡りをした渡り人なるか?」

「はい、おそらく。世渡りという言葉も、つい先日教えて貰ったばかりですが、そうなのだろうなと思えてきました」

「ふむ、主も主で厄介よのう。……まあよい、今日はご苦労だった。もう休め。明日も頼むぞ」

「はい、ありがとうございます」


 明日からは、少しでも言葉の壁を乗り越えるべく、辞書でも作っていこうと思う。


 例えば、水とwater、そして『mizu』。

 欲しいとwant、『hosii』


 たったこれだけの、単語が二種類しか載っていない辞書でも、彼女は水が欲しい時、誰かにそれを伝えることが出来るようになるのだ。

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