第二十二話「出世の仕込み」
水元殿が釣った青海梭魚は早速捌かれ、夕食の汁物にされた。
残念なことに、刺身には向かないそうである。
「食えなくもないが、わざわざ食う奴はおらん」
「……確かに」
石敷きの上に竃の並んだ台所で腹身の端っこを一切れ貰ったが、脂の生臭みが強烈だった。これは相当に好きでないと食えないだろう。
だが汁物の方は身も柔らかく、味は淡泊でさっぱりとして美味かった。
作る過程で、これでもかと浮いてくる脂を玉杓子ですくっては油壷に捨てていた賄いの少年は大変そうだったが……。
貯めた脂は魚油として、行燈などに使うそうである。ただ、魚油は元よりにおいが強烈なのに青海梭魚のそれは輪を掛けて臭く、貧乏長屋でも今ひとつ好まれないほどだという。
焼き物の方も、脂を落としながらじっくり焼くと美味いそうだが、船の上では脂垂れのお陰で火事にでもなると困るという理由から、水元殿が自ら禁止にしていた。
「実に美味いのだが、沖の上で船頭自ら禁を破るなど……うーむ……」
「へえ、機会があれば食べてみたいですね」
無論、焼いたのも食いたいからと、船の安全を無視するような船頭は困るが、当人もかなり不本意ではあるらしい。
幸いにして姫様方にも好評で、瑞龍丸での航海中、俺も幾度か普通の竿を借りて魚釣りに励むことになった。
時に魚を釣り、時に帆綱の手入れを手伝い、また、姫様や静子様から世の常識を教わり……。
二、三度、小さな魚港で清水のたっぷり入った樽や食材を積み込んだ他は陸地に寄ることもなく、相変わらず右に左にと舵を切って瑞龍丸はじわじわと進んでいた。
▽▽▽
三州美洲津の港を出て二十日。
ようやくのことで第一の寄港地、蓮州泥谷口へと到着したが、やはり上陸は許されなかった。
入港前は何か買い物でもしたいなと財布を確かめていたが、そのような雰囲気ではない。
……何のために足の速い瑞龍丸を使って都まで行くのか考えれば当然なのだが、かなり残念だ。
寄ってきた手漕ぎ船――曳船に曳かれて着いた先は、港でも端の方にある一角だった。
「ここは三州が丸借りしている桟橋でな」
「へえ……」
美洲津以上に多くの船が行き来するこの泥谷口の港だが、流石は大大名である。借りている場所が中心部ではないにしても、この港の混み具合だとさぞやいい値段になるはずだ。
「都行き! 急ぎだ!」
「へい!」
「お頭ー!」
「おう! ともかく積んじまえ!」
岸壁から伸びた桟橋に水元殿が一言二言声を掛け、懐から取り出した書状を掲げると、あっと言う間に荷を担いだふんどし一丁の人足が大勢やってきて、それを受け取ると瑞龍丸はもう帆を張ってしまった。
「旦那、こいつも奥に頼みやす!」
「はいよ!」
まあしかし、荷運びや釣りが暇つぶしになる俺の事はいい。
姫様達が、少し心配だった。
頭では分かっていても、狭い船室で何日も過ごすのは苦痛だろう、とも思う。
だが、荷物の整理が一段落ついてからこっそりと静子様に聞いてみたところ、思わぬ答えが返ってきた。
「今上の御詞でのお召しですから、私もしばらく……数日は、姫様の身も安心と見ています。ですがその後の仕込みを今の内からしておかねば、立ち回りどころではありませんもの」
「……」
「朝霧だけでなく、一郎にも仕事を振りますからね」
「はい、もちろん」
したたかというには悲壮感すら漂っているが、静子様の静かな迫力に押され、俺は知らず頷いていた。
▽▽▽
蓮州を後にして十日、豊州に差し掛かったあたりで、潮と風が明らかに船を押すようになり、ジグザグの間切りがなくなった。
一日に進む距離が長くなり、船の軋む音も少し小さくなっている。
このひと月、日々変わらぬように見える船上の暮らしも、時が経てば、多少は変化がつくというものだ。
「もう怪我は大丈夫そうだね」
「……はい」
多少警戒されながらも、朝霧がまともに口を利いてくれるようになったのは幸いだろうか。
無論、理由の大半は静子様とお姫様による懐柔の結果であって、俺自身は大して何もしていないが、船の上でも出来ること――夕食のおかずを一品増やそうと、日々船尾で水元殿と釣り糸を垂れていることだけは認めてくれたらしい。……身分は若干俺の方が上らしいが、浪人者と忍者では、大した違いもないのだろう。
今も台所から盆に載せた刺身盛りや飯椀を、二人で運んでいた。
「松浦殿」
「何かな?」
不思議そうに俺を見上げる朝霧のポニーテールが、船に合わせて揺れる。
忍者だとは聞いているが、時折目つきが鋭くなる以外にそれっぽいところは一つもなく、服装も姫様達が野盗に襲われそうになった時のそれと大差ない。
……少し前に、忍術を見てみたいと頼んでみたが、秘密だと断られてしまったのは少し残念である。
「貴殿の腕が立つ、とは聞かされていますし、それはおそらく事実でしょう。
ですが……」
「うん?」
「その腕は、何処で身につけられたのですか?」
珍しく朝霧から質問されたことに、俺は多少気をよくした。……なかなか懐かない余所の家の飼い猫が、ちょっとだけこちらに興味を示したような、そうでないような。
「何処で、と言われると困るなあ……。
飛ばされてからかな、確かに妙に力が強くなったとは思うけどね」
だが……こっちに来てから、と答えてはみたものの、俺自身納得のいく答えを持っているわけではなかった。困り事ではないから放置している、というのが正直なところである。
「では……。
!?」
「どうしたんだろう?」
続けて何か聞こうとした朝霧も俺も、甲板の騒がしいことに気付いた。
「……何かあったら呼ばれるか」
「はい」
すれ違った向かいの部屋の小屋原様一行の賄い当番に挨拶しつつ、姫様方の元に戻る。
「今日の夕餉は、鰤の刺身と鯖の塩煮でございます」
「ご苦労でした」
「酢は切らしてしまったそうです。……酢〆の方が好きな水元殿は、不機嫌でしたが」
「ふふ、先日のあれは、大層美味でしたものね。
さ、戴きましょう」
床に筵の敷物を広げ、飯の茶碗と刺身盛りを並べていく。
一昨日釣った鯖は酢〆――〆鯖にして食べていた。飛ばされる前に食ったどの〆鯖よりも脂がのっていてもちろん美味かったが、酢はあまり沢山積んでいなかったようである。
「この旅も後少し、気を抜き身体を休められるのも今の内ですからね、一郎、朝霧」
「承知しております」
「はい、もちろん」
ちなみに塩煮の方は塩と昆布の出汁だけで煮たものだが、味噌煮ばかり続いては皆も飽きるだろうと賄いの親父は頷いていた。
ついでに出汁を取った昆布は更に刻んで醤油煮にされ、漬け物代わりに盛られている。
「都に到着したならば、姫様と私は何を置いても宮へと登らねばならないでしょう。
朝霧には、動けなくなる私の代わりに、各所へと繋ぎをつけて貰わねばなりません」
「はい、静子様」
「一郎、貴男には官位を得て貰います」
「官位!?」
俺も流石に箸を止め、静子様を見た。
だが冗談ではないようで、真面目な表情のまま頷かれる。
「内裏はともかく、官位なくば宮に立ち入ることすら出来ません。
姫様の新たな舎人として官位を得るか、それが無理ならば、私の父を頼り図書寮の下働きとして登庸されるなら、それほど難しくはないはずです。……このぐらいならば、頼った内には入らぬでしょうか」
一番下の官位なら、無理をすれば小さな店の店主でさえ買えなくはない金額なのですよと、苦笑を向けられる。
地位を金で買うと聞けばあまりいい気はしないが、その収入が朝廷ひいては帝家に無視できない金額であり、商店主にとっては素行の悪い官吏や侍らの横暴に対抗する手段ともなるそうだ。……官位を持つからには宮中へと出入りが出来るということ、鼻薬の効いた番所では受けて貰えない訴状を直接出せる『可能性』に繋がるから、実際にはそこにまでは至らぬともなかなか効果的らしい。
「私は姫様のお側に守り役として控える傍ら、使える伝をあたります。何も宮中の皆が皆敵手でもありませぬから、時を稼いで準備を整え、再びの離京に備えようかと思います」
「静子にはいつも苦労を掛けるわね……」
「私は知恵者というわけではありません。もちろん、力もございません。手間を惜しまず、出来ることをする、それだけでございますわ」
波切崎を抜けて潮の流れと風がよくなれば都までは半月、もう時間もあまりない。
たった四人の主従だが、運命共同体でもある。
俺達は互いの顔を見て、頷いた。
姫様の未来を決める選択肢は、元よりそう多くなかった。
どこかの大名家か公家に降嫁する、帝より宮家、あるいは一段落として新たな公家の創設の許しを得て家を立てる、巫女として大社や神宮に赴く、尼僧として出家する、全てを捨てて逃亡する……。
このうち一番現実味を帯びているのが逃亡で、後ろ盾のなくなる危険性と行方をくらまし捨て置かれることで生まれる安全、この天秤がどちらに傾くか見極めた上でなら悪くはないそうだ。
もちろんこの旅の前、一番最初に姫様方が選んだ選択肢でもある。残念ながら行方をくらます前に襲撃があり、振り出しに戻ってしまったが……。
帝家の姫にとり一番『普通』である筈の内裏で暮らすという選択肢は、安全の上からも気持ちの面でも最初から除外されていた。




