第十八話「茶と琵琶酒」
浪人にして雇われ家人となったその日。
腰の打刀も誇らしく……とは行かず、太陽のある内は、本当に忙しく城内のあちこちを動いていた。
殺された一行の葬儀の手配は三川家の人達が仕切ってくれたが、通夜は明日、葬礼は明後日と決められている。棺桶の調達にもこの数では時間が掛かるし、お坊さんではなく神主さんを呼ぶことになったから仕方がない。俺も小川様と一緒に城下へと下り、神社で挨拶してきた。
なんでも、宮中の人が直接関係する場合――今回なら一行の主人は和子様――は主に神式の葬礼を行うものだそうで、公家は半々ぐらい、武家では仏式が多く、市井の人々はてんでばらばらなのだという。『お寺』が鳴らす除夜の鐘を聞きながら『神社』に初詣……ってぐらい混じってた現代日本と大差ない、と思っておけばいいのか微妙だが、流石に教会はないようである。……この混じりようなら、隠れキリシタンぐらいはいるかもしれないが。
他にも、俺自身の挨拶回りも行うように――顔を売ってくるようにと勧められた。
姫様の御用で城内を行き来することもあるし、一度は下士足軽として三州公の『家臣』になった俺である。礼儀を通しておくのも大事だろう。
ただ、体が大きいというだけで向こうが俺の姿を覚えてくれるのはありがたいのだが、俺の方は似たような挨拶が続き、今ひとつ相手の名と顔を覚えきれないので困っていた。
夕方になる少し前、お姫様の部屋に戻った俺は、静子様に引き留められた。
休憩のお茶さえ仕事になるとは、つらいところだ。……お作法的な意味で『茶を飲む』のが初めてという緊張も、多少ある。
「私が必ず姫様の御用をお預かりするとは限りません。別の用を既に承っていることもありましょうし、危急であれば一郎の方が足も早いでしょう?」
「はい、たぶん」
静子様の手元で、茶筅がしゃかしゃかという小気味よい音を立てている。
お姫様は気疲れもあってか、昼寝をされていた。
「その出先で茶などを勧められた時にも、断るべき場合と受けた方がよい場合があります。当面、その判断は予め言い含めることにしますが、一郎が作法を知らなければそれも選べません」
半日走り回って、やっと肩の力が抜けると気を抜いたのも束の間、何故、借りた扇子を手元に置いて正座させられているんだろうと思わないでもないが、姫様に恥をかかさぬ為ですと言われれば、これからの仕事に必要な技術の訓練だと思うしかない。
「茶席の主人たる心得まで覚えなさい、とは言いませんから、早いうちにお茶の戴き方の作法だけでも覚えて下さいまし」
「は、はい、静子様……」
正座のまま身体の向きを変える作法やら、茶碗の扱い、菓子の食べ方……。
静子様のお手本通りに真似をしつつも、でもなあと、思うこともある。
「あのう、静子様」
「なんです?」
「いくら姫様の御用でどなたかの家に伺ったとしても、雇われ家人でしかない浪人が、そこまで気を使われたりするんでしょうか?」
「……え!?」
俺の疑問が的外れだったのか、静子様はぽかんとした様子を見せた。
ちょっと油断した素の表情は、目尻が少し垂れて優しげだ。
普段は凛と張りつめた表情が綺麗な静子様だが、これは……可愛いと思ってしまっても仕方ないだろう。
だが、思わぬ反撃を受ける。
「一郎が市井の一浪人で終わるはず、ありません」
「……え!?」
ゆっくりと口元に手をあて、ふふふと笑った静子様は断言した。
「だって、そうでしょう?
貴男は……鷹原守殿に脇差しを預けた時は心底残念そうで、河内島殿に士分取り立てを告げられた際にはそれはもう嬉しそうに、美河守殿から『姫護正道』を賜った瞬間など目が輝いておりました。
身を立てようとしているからこそだと、私は思いましたが……将来、その出世故に、貴男が茶席や茶会に呼ばれることは増えるでしょう。
今の貴男は浪人の身、さほど気にされないどころか、からかいの種にされるのがせいぜいでしょうが、公家よりは礼法の緩い武家でも、それなりの地位にあるなら必要な教養とされます」
悪戯っぽく微笑む静子様に、なんだかなあと頭を掻いて誤魔化す。
感情のだだ漏れというか、隠そうなどとは思っていなかったせいもあるか。
ずっと見られていたとは考えもしなかったが、あの場の主役は確かに俺で、注目されていても不思議はない。
「ふふ、今のうちより頑張って下さいまし。将来必ず、覚えておいて良かったと思う日が来ますわ。
立身栄達を望む男子は、貴男の他にも沢山居ります。いいえ、望まない者の方が少ないでしょう?」
「……はい」
「ですが、その中で貴男ほどの怪力を持つ者は、幾人いますか?
抜き身の刀を持った五人の侍崩れに木刀一本で向かって行ける勇気の持ち主が、どれほど希なるか……。
ましてや、瞬きする間にそれを打ち倒してしまえる強者など……如何に天下の大倭が広いと言え、そうはおりませんよ」
えらい持ち上げられように、照れの方が勝る。
だが、静子様の表情は意外にも真面目なものだった。
事実だけ並べればその通りだが、怪力の不思議もよくわからないし、他人事のようにも思えてしまうのだが……。
「ですから貴男が役目のない小物の雑兵だと聞いた折、失礼ながら鷹原守殿はうつけなのかと思いました。後ほど、時と懐の事情であることが知れましたので、私も口に出すことなく済んだのですが……こら、一郎!
このお話は、皆には内緒ですからね!」
うつけ者と怒られるお殿様を想像してしまい、俺が怒られた。
……可愛い怒り方だったので、こっちが困る。
「でも、静子様で何人目になるのか……」
「どうかしたのですか?」
「皆が出世を勧めてくるから、俺もその気になったのかなと。
最初に俺を拾ってくれたお婆さんは、山村に埋もれさせておくのは惜しいと、庄屋さんのところに連れていってくれました。橋本のお殿様は、小鬼退治の働きだけを見て俺を雇うと言って下さったし、今度は静子様です。
言われるまま流されているようにも思うし、でも、流れに乗って出世するのも悪くないなあとも思うんですよ。
……自分でもまだ、よく分かっていませんけどね」
今までなんて、串団子一本食べるのにもお小遣いを貰わないと食べられなかったので、せめてそのぐらいは何とかしたいところだった。
お殿様になろうとまでは思わないが、住むところと食べる物……そうだった、今の俺は俸禄なしの雇われ家人、三州公から戴いた慰労金の十両が全財産である。大金には違いないが、使い切ったら補充するあてがなかった。
「ではせめて……和子様が苦労されることのないぐらい、出世の道を登って下さいませ。
私も心休まります」
「簡単に言わないで下さいよ……」
くすくすと笑う静子様だが、翳りの色は少し薄れたか。
昨日妹さんが亡くなったばかりで明るく……というのも無茶だが、俺が道化師になることで多少でも気が紛れるなら、まあいいかと思うことにする。
「姫様が内親王位を返上されれば、私も女房ではなくなります。
通例ならば姫様も、返上に合わせてどこかの御家に降嫁されるか、一時的ながら帝よりの許しで宮家を興されるでしょうが、おそらく邪魔が入る……どころか、これ幸いと酷い仕打ちを受けるでしょう。
私は……実家には今更頼れませんが、生きていくだけならば如何様にもなります。でも……」
「でも?」
「その時までに一郎が出世していれば、また別の道を選べるかもしれません」
「はあ……」
葬式が済み、野盗どもが捕まって当座の安全が確保されれば、お姫様の領地――三州長谷部御料に向かうことまでは決まっていた。
その後は流浪の旅になるのか、はたまたそのままのんびり暮らすのかまでは、今のところ宙に浮いているのだ。
「……って、姫様が内親王の位をお返しされるのって、ほんのすぐ先ですよね?」
「ええ。ですから頑張って下さいましね」
どこまでが冗談なのかわからないが、静子様は意地悪そうな微笑みで俺をからかってから、作法の続きを学びましょうと、道具の扱いについて話し始めた。
▽▽▽
「おお、よい飲みっぷりであるな!」
「はい、とても飲みやすくて美味しいなと……」
いや、ほんとに飲みやすい。
日本酒ってこんなに美味かったかと首を傾げながら、おかわりを戴く。
昨日と違って透明な日本酒――澄酒が供された酒宴で杯を手にしていたのは、三州公や御家老様をはじめとした美河衆と、橋本のお殿様と坂井殿など、およそ十人。男ばかりの宴……というより、このようなくだけた席には、余程特別な場合しか女性は呼ばれない様子である。
「そうだろうとも! これは毎年都から取り寄せておるのだ!」
ちなみにお膳には刺身もあったので、俺は坂井殿と目を見交わして頷いた。
タコと鯛はすぐ分かったが、種類までは分からない貝と赤身、それになんと、ウニが鉢に盛られている。ちなみワサビはなく、醤油の他に胡麻の入った味噌だれと、『煎り酒』――酒に梅干しと鰹節を入れて煮詰めたものが用意されていた。これはこれでさっぱりとして美味い。
「おい、氷室より『あれ』を持て」
「はい、ただいま!」
上機嫌の三州公が一声掛ければ、控えていた小姓が走り出した。
氷室って、昔の冷蔵庫だったか。洞窟に氷を入れておくような大仕掛けだったと思うが、お世話になると考えたことなどなかった。
「ところで一郎」
「はい、美河守様?」
「このように楽しい酒が飲めるのも、真実、一郎のお陰なのじゃ。
お主、政のからくりは存じておるか?」
「いえ、全然分かりません」
食べて飲んでばかり、とはいかないらしい。
政治のこととか、正直言って真剣に考えたことなんかなかった。
選挙の投票は票数の多い方が勝ち、国会の決議は議員の賛成と反対を比べて多い方が勝ち……ぐらいはわかるが、それ以外となると、授業で出てきた単語とその意味がなんとなく思い出せるか出せないかという、ぎりぎりのところである。
二十歳になってしばらく、市長選挙があった時はよし投票に行くぞと意気込んでいたら、候補者が一人だったので、俺はまだ投票所に行ったことがない。
「ふむ、平易に言えば、政にも表と裏があっての。
今ならば、表は雲宮様のお命が無事であったこと、これに尽きる。宮中に参内して釈明なぞする羽目になっておれば、手間どころでは済まなかったであろう」
同じ政治でも、ちょっと違う話のようだ。
頷いて続きを待つ。
「裏面は、九大大名家の均衡が保たれたことが一番であろうか。
当家が力を失えば、その分どこかの家が必ず台頭しよる。それが避けられた故な、各家の息が掛かった中小国同士の争いも起こらず、世の太平が守られた。鷹原守への官位の奏授は、その礼よ」
「ありがたき幸せ」
お殿様は三州公に一礼してから、俺に目を向けた。
「一郎、我が橋本家は、初代が授けられた従七位下のまま官位を進められず歩んできた。
我が国は山がちの狭い領国にて冬は雪降り積む田舎、そのような余裕は元よりなかったが……先祖代々の悲願であったのだ」
橋本のお殿様は絡み酒なのだろうか、聞いてもいないお国事情を俺に語りだした。
鷹原国は表高一千石、大・上・中・下……と順がある国――領国の格式では更にその下、細国とされている。
国の長である守職の格は従七位上を最上とするが、都で言えば、市場や通りあたりをうろうろしている警邏の下っ端でさえ、授けられていることがあるという。……ちなみに九つしかない大国の守である三州公の正三位はともかく、女房として宮中に出仕していた静子様は従五位下と、お殿様を大きく上回っていた。
……頭に正または従、数字があって後ろに上か下がつくだけなので、官位の上下は意外と分かり易いようだ。
「田舎大名では大きな出世どころか戦も望めぬが、時には功や善行により恩賞が与えられることもある。その時に官位が高ければ、期待度も変わるのだ」
飛び地でも与えられれば万々歳なるぞと、お殿様は一献呷った。
「それにな、一郎。
あの木刀での五人抜き、あれを見て流石に余も考えた。
お主の出世を考えるなら、我が家ではあまりにも小さすぎる。五寸の金魚鉢で一尺の鯉を飼おうとするようなものだ」
一尺がだいたい三十センチで、十寸が一尺、五寸はその半分になる。
まあ、入れ物が小さいという意味だろう。
「鷹原では御し切れぬと思うたし、雲宮様のお申し出は、よくよく考えれば渡りに船であった。
……お主、妙に義理堅いからの。何もなくば、ずっと鷹原に居続けよう?」
「はい、たぶん。お城の居心地も良かったですから」
「あの小さき城に、そう言うてくれるのか。
……おほん、余はそのようなお主であればこそ、羽ばたく姿を見てみたくもあるのだ」
気楽さではこの美河城に勝るし、力仕事や子守が主な仕事だったが、聞く物見る物全てが興味深く、お城勤めの数日はとても楽しかった。
小さく杯を交わし、互いを言祝ぐ。
「大殿、『琵琶酒』を運んで参りました」
「うむ、皆にも回せ」
大きめの徳利を持った小姓が、皆の手元、新たに配られた湯飲みに注がれていく。
先ほど氷室がどうのと言っていたから、そのことなのだろう。
「美河守様、琵琶酒なるものは初耳なれば、如何様な酒でありましょうや?」
「鷹原守は知らぬか?
都の北、寒州の酒でな、田舎の方で作られておる酒なのだが……暑気払いにも良いし、妙に癖になるのだ」
「ほほう……」
「ただ、寒州より暑い三州ではすぐに『気抜け』するのでな、冬の間に運ばせ、しっかりと栓をして氷室に保管するよう命じておる」
……気抜け?
もちろん、小姓は俺にも注いでくれたが……。
「泡!?」
「うむ、その泡がまた格別でのう。
おお、皆も飲め飲め! 琵琶酒は冷えておるうちが華よ!」
黄みがかった茶色い酒には、白い泡が浮いていた。
いや本当に、なんでこんなもんが……。もちろん嫌いじゃないが。
一口飲んで、間違いないと頷く。若干炭酸が微かで、苦みは濃いが間違いないだろう。
随分久しぶりだったし、量も湯飲みなら多くはないので一気に飲み干し、喉ごしを楽しむ。
「おお、一郎は気に入ったようじゃの」
「はい、とても……」
しかし、本当にここは異世界なのかと疑いたいところでもある。
ああ、『琵琶』で『びわ』、ビア……名前はビールそのままなのかと気付いたのは、二杯目をおかわりしてからのことだった。