第一話「飛ばされ者」
はっと気が付けば、布団に寝かされていた。
……昨日は山の中を彷徨って、疲れ果てて気を失うように寝た気がする。
残念ながら、あれは夢じゃなかったようだ。
ここは間違っても、俺の部屋じゃなかった。ベッドもステレオもパソコンもなかったし、造りが違いすぎる。
ログハウスってわけじゃないが、部屋の壁は焼き板張りで床も所々透き間のあいた板が敷かれていた。
寝ていた……いや、寝かされていた布団もいつものチェック柄の毛布ではなく、少々汚れが目立つ上に薄い煎餅布団だ。
ついでに、よくみれば俺の足がはみ出ていて、布でぐるぐる巻きにされている。誰かが治療してくれたらしい。痛みはもう無かった。
「……」
しばらく、ぼーっと部屋を見回す。
窓はガラスなどなく、木の板をつっかい棒で支えている。時代劇で見たような覚えがあった……かもしれない。すきま風が心地いいので、文句は言わないでおく。
「……はあ」
「おんや、起きたんかい?」
「うぇ!?」
人の気配など感じなかったので驚いたが、自分の家でないことはもうわかっていたので、よっこいしょと年輩の女性の声がした入り口の方を見る。
「たいへんだったんじゃぞ。
おんし、柄がでかい上に重うての……」
入ってきたのは小柄な婆さんで、人の良さそうな顔をしていた。
和服にもんぺ……野良着だろうか? いかにも田舎の農家の婆ちゃんといった風で、身長一八〇センチの俺を担げるとはとても思えない。
ともかく、見ず知らずの俺を助けてくれたのは間違いないと、しっかり頭を下げる。礼儀は大事だ。
「あの、助けて貰ったようで、ありがとうございます。
ここがどこか分かりませんが、お婆さんがこの家まで運んで下さったのですか?」
「ふぁっはっは、無理言うでねえ。
御山で見つけたのはわしじゃが、流石に若い衆呼びに行ったわ」
もう一度よっこいしょと腰を伸ばした婆さんは、何か食うかと笑った。
「あ、その前に!」
「んあ?」
「トイレ!
トイレ貸して下さい!」
すっかり忘れていたというより、急に催したというべきだろう。
人と話した安心感もある……かもしれない。
「といれ?
戸入れ……戸袋か?」
「あ、いや、えーっと……便所! お手洗い!」
「あー、手洗いなら表ん出て右じゃ」
「ありがとう!」
うん、限界だ。
鴨居に頭をぶつけそうになりながら、走り出す。
「うんむ。
あ、こりゃ!
そのまま出てく奴があるか!!」
「す、すんません!」
「そん足じゃ藁草履……は無理だで、ん、深靴貸してやるけえ、それ履いてけ!」
藁で作られた長靴を出してくれた老婆にもう一度礼を言い、玄関の右手に駆け出す。足の痛みは、もうなかった。
あれだと見定めて駆け込んだ便所は汲み取り式で……初めてじゃなかったが、それなりに強烈なインパクトがあった。
トイレットペーパーのロールがない代わりに、紙はカゴに入れられた『落とし紙』――今も時代劇を題材にしたテーマパークなどで使われているとTVで見たことがあったし、歴史の授業で習った覚えもある――だったし、水道の代わりに桶が置いてあった。
「へえ……」
一心地着いて建物などを見渡せば、俺が寝かされていた家はさほど大きくない藁葺き屋根の古民家で、庭には父の実家にあったのと同じ柿の木が生えている。
竹で出来た垣根の向こうには、同じ様な古民家や畑が幾つか見えた。山深い小さな盆地に数軒の家が集まっているだけの、小さな村である。
「……電話、しなきゃなあ」
それにしてもだ、どうやら本気ですごい田舎に放り出されたらしい。
家の前の道はアスファルトではなく、土の道だった。
「おんし、丸1日も寝とったでな。
腹、空いとろう?」
「いただきます!」
電話を借りるのは後にして、とりあえず出された飯を腹に入れる。
目の前に置かれると、とてつもなく腹が空いていることに気付いた俺である。
「……あ、美味い」
「ほう、ほう」
小さめの皿には握り飯、お椀の方は茸の味噌汁。横に漬け物の小皿が添えてある。
婆さんによれば残り物らしいが、これがお世辞でなく美味かった。
握り飯は麦と米の白握り――米粒が色違いで、明らかに二種類とわかった――で独特の噛みごたえと食味が素晴らしく、塩っ辛い大根の漬け物とこれまた相性がいい。
味噌汁はシンプルな具なのに握り飯と相性抜群で、すっすと喉を通って腹を満たしてくれた。婆さん、ありがとう!
「ご、ごちそうさまでした!」
「うんむ、うんむ。
おお、そうじゃった」
「はい?」
「おんし、名は何という?」
はっと気付いて、もう一度頭を下げる。
……礼儀も何も、あったもんじゃなかった。
「俺は……っと、僕は」
「飾らんでええぞ」
「すみません。
松浦一郎です。
家は××県○○市の大学生で……」
「ほう、ほう! やっぱりお侍じゃったか!」
「侍!?
いえ、侍じゃないですけど……」
なんで、侍……?
「ほいじゃあ、どこぞの庄屋か商家の息子さんかい?」
「庄屋……?」
「名字の名乗りを許されとって、民草っちゅうわけが……うんむ?」
どうも話が噛み合わない。
婆さんも気が付いたのか、不思議そうな顔である。
「……おんし、国はどこじゃ?」
「もちろん、日本です」
「ふんむ……日本っちゅう国は聞いたことがねえのお……」
「え!?」
いやいやいや。
それは流石に……冗談にしても酷すぎる。
婆さんは一人頷いていた。
「じゃけんど、合点はいったわい。
おんし、遠国から飛ばされてきなすったんじゃろな」
「……はあ、そんな感じ……ですか」
「うんむ」
突然、元居た場所からどこかに飛ばされた自覚なら、あった。
だから、一つだけ……小さな望みを賭け札にして、聞いてみる。
「そうだ、お婆さん」
「うんむ。
おお、申し遅れたの、わしゃ山這いの幸じゃ。
婆さんでええぞ」
「ありがとうございます。
……その、電話って、借りられますか?」
「でんわ?
なんじゃいなそら?」
俺は……なんとなく予想していた答えに天井を見上げて、大きくため息をついた。
▽▽▽
「それにしてもなあ、飛ばされたって言ったって……」
「たまあにあるんじゃ。
力ある魔妖が悪戯半分にやりよることもあるし、神さんが信心深いもんを助けちゃろうて飛ばしなさることもある。
歩いて二、三日ん時もありゃ、昔語りにゃ言葉ん通じんほど遠い場所から来たっちゅう話もあるの。
おんし、まだ運がええ方じゃわ」
「そっか……」
確かに、言葉が通じるだけましかもしれない。
……現代だって、科学で解明できない謎がある。
とりあえず、今はそういうことにしておこう。
「まあ、二度三度飛ばされた話もあるで、おんしが剛運の持ち主なら、帰れはせんでも元ん場所の近くに飛ばされることもあるかんしれん。
それがいつ何時か……なんちゅうのは、神さんでもねえとわからんがの」
「……だよねえ」
「しっかしの、おんし、柄はでかいし力もありそうなんでな、絶対お侍じゃと思うたんじゃがのう……。
名字も名乗りよったし、作法は怪しいが態度はそこらの若者とちと違うたのに……むう……」
まだ本調子じゃないだろうから今日は休めと言われて半日、幸婆さんを話し相手にしながら俺はあれこれと考えていた。
婆さんが許してくれたので、口調も普段通りにさせてもらう。
「名字って、みんなにあるんじゃないの?」
「うんにゃ。
お武家かお公家か、庄屋か名主か大店の主人か……大凡そのあたりまでじゃの」
日本で庶民の間でも名字が使われるようになったのは明治維新の後だったと思うが、日本史の年表は大学受験からの開放と共に半ば忘れかけていた。
このあたりは、そのまんまなんだなあと一人頷く。
「へえ、じゃあ名字があるのは特別なんだなあ……」
「おんしの国では違うようじゃの」
「昔、皆に名字を名乗るようにって命令が出たらしい」
婆さんの本名は幸で、名乗った『山這いの幸』は村の外や初対面の相手に名乗る場合の通り名らしい。
ついでに……この家には名字どころか、電話はもちろん、電気ガス水道は見あたらなかった。
代わりに土間には竈があって、隣の大部屋には囲炉裏まで備わっている。
これは飛ばされたと言っても、場所どころか時代を飛んでいそうだと、俺は小さくため息をついた。……これ、元の日本に戻れるんだろうか?
「お婆、おるー?」
「おるぞー。
入ってこ」
若い娘……いや、子供の声だ。
婆さんの知り合いなのは間違いないから、戸口の方を見ながら大人しく待つ。
「あん人起きた?」
「おう、起きとるぞ」
入ってきた少女は、小学校の高学年ぐらいに見えた。
地味な着物に髪は長めのストレート、手には野菜の入った篭を提げている。
「あ、こんにちは。
お邪魔してます」
「……お兄さんって、お侍さん?」
「ふぁっはっは、わしも同じ事聞いたわ!」
きょとんとする少女をよそに、幸婆さんは大笑いをしていた。