第十六話「女房静子の憂鬱」
「こちらです」
俺は静子様の後ろについて石畳の回廊を一旦戻り、三の丸と呼ばれる城の端の方へと向かっていた。
「ふう……」
物憂げなため息の静子様であるが、先導の小川様ももちろん、俺も表情が硬いままである。
「そうでした、女房殿にはもう一つお伝えせねばなりませんでした」
「はい?」
「女房殿が先に城へ走らせた忍でありますが、相当な深手を負っているとのこと、しばらくはこちらにて療養させると、忍屋敷の使いが伝えて参りました」
「重ね重ね、ありがとう存じます。あの者だけでも、よう無事で……」
幾分ほっとした表情で、静子様は微笑まれた。
朝霧はお姫様を影から守る忍、それもくの一だと聞かされ、俺は驚いていた。本物の忍者とか……ちょっと会ってみたいと思ってしまうのは仕方ない。
怪我をしたので城下町の中にある忍屋敷にて療養中だが、命に別状はないそうだ。
今更気付いたが、静子様の背丈は百七十近い。こっちの世界に飛ばされてから、男も含めて一番かもしれなかった。……などと現実逃避をしたくなるほど、憂鬱である。
「この中でございます」
「……はい」
小川様が見張り番に頷いて開けさせた扉の先は土間で、数多くの……人型に膨らんだ血塗れの藁筵が並んでいた。
「う……」
「……」
血の、臭いが、きつい。
嗅ぎ慣れているはずもないのにそれと分かる、とても濃い血の臭いが漂ってきた。
怯んだように一歩下がった静子様が、こちらに倒れ込んでくる。
俺は彼女の肩を軽く支え……一瞬だけ考えてから、ぽんぽんと、優しく、小さく、励ました。
「……ありがとう、一郎」
「いえ」
儚げな微笑みに、俺は困った顔を向けるしかなかった。
「こればかりは、姫様が一の女房たる私の務め。……ええ、もう、大丈夫です」
俺の手に、小さく静子様の手が重ねられる。
……かなりの無礼だったと気付いたのは、後になって、静子様に怒られた時だった。
遺体の確認とは言っても、静子様が顔を見て名前が分かればそれでよし、あるいは身分や役目だけでも記録していくという作業に終始していた。仮に『野盗』としてあるが、そいつらが犯人なのは明白なので、死因や傷跡の確認までは必要ないそうだ。
だからと、楽な仕事ではない。
「……この者は、荷車の牛を世話しておりました。名は知りませぬ」
都にて集められた一時雇いの者が大半で、残りも単なる舎人――お姫様や静子様の部下ではない、宮仕えの下級官吏たち――であったが為、静子様も名まで知る相手は少ない様子である。
先ほどと同じく俺は後ろに控え、静子様が倒れやしないかとだけ心配しながら立っていた。記録やら何やらは、小川様や他の下働きが手伝ってくれている。
実は……遺体を見ても、俺はそれほど気味が悪いとは思わなかった。
飛ばされる前に見たのは、父の知り合いの爺さまとか、幼い頃に亡くなった曾祖父さんとかそのぐらいで、あまり縁があったわけもない。
一応、静子様より先に倒れてなるものかと気合いを入れていたが、別段、どうということもなかった。ただ、皆と同じく手を合わせる時だけ、少し神妙な気分になっていただろうか。
「この者は……ああ……」
静子様は気丈な様子で遺体の確認を続けていたが、その中で一人だけ、顔色を失い声がかすれた相手が居た。
亡骸の主は女性で、年は俺より若い。
……この中でただ一人、一際綺麗な着物を着ている少女だった。
「……この者は、薄小路家の三女、清子、です」
「薄小路家!? では……」
「はい。……私の、妹です」
「おお……」
「……」
小さく息を吐いて目をつむった静子様に、俺は……流石に掛ける言葉が見つからなかった。
全ての遺体を改めて塩と酒で身を浄めた後、荷の確認は翌日にして、俺達は二の丸へと戻った。
葬儀などの手配は三川家が引き受けてくれることに決まったが、そちらもまた、気の重い話である。無論、放置するわけにいかない。
「一郎、遠慮せず口になさい」
「……はい、ありがとうございます」
俺は静子様と二人、畳敷きの部屋に通されて差し向かいで座り、用意して貰った夕飯を前にしていた。お姫様は別にお召し上がりになるし、うちのお殿様は三州公らに招かれてまた別に食べているそうで、あまり気にしなくていいらしい。
朱と黒で塗り分けられた膳に並んでいたのは、冷えた白飯に大きめのアサリが二つ入った潮汁、白身魚の焼き物と菜っぱのお浸しである。それに漬け物と、にごり酒の徳利がついていた。……こちらに来てから、一番豪華な夕食だ。
一度は身分の差もあって迷惑だろうと断ったが、静子様は姫様と自分を救ってくれたせめてもの礼と、小川様に俺の武勇伝を話してまで頼んでくれていた。
だが……味がしないとまでは言わないが、楽しくあるはずもない。二人、黙々と箸を動かすだけになった。
「……優しい子、だったのです」
「……」
「都に帰れるかどうかも分からぬこの御料地行きにも、厭な顔ひとつせず、付き従ってくれました」
「……はい」
「そうして……姫様の身代わりは、姉上の背では務まらぬ、と……」
「……」
でも、本当は。
静子様も、こんな日に一人で食べたくなかったのかもしれない。
そう気付いたのは食後、酒が入ってからのことだった。
▽▽▽
三川の城に泊まった翌日。
幸いにして寝過ごすこともなく、呼び出された時にはもう身支度が出来ていた。
洗濯こそ出来なかったが、昨夜は湯の張られた風呂も借りている。下働き用の大風呂だったが、実にありがたい。
朝飯は一汁二菜、ただしご飯は湯気が立っていた。漬け物の代わりなのか、小皿にはちりめんじゃこが盛られている。
「一郎、よく眠れましたか?」
「はい、ええ……普通です」
「よろしい。今日は本当に、あれこれと働いて貰わねばなりませんからね」
「はい」
吹っ切ったというには目元がまだ赤い静子様に気遣いつつ飯を済ませ、昨日と同じく先導されるまま、また三の丸の別棟に向かう。
朝からの仕事は、荷物の検分だった。
「牛車などは見あたらなかったと、御始末にあたった者は申しておりました。根こそぎ持ち逃げされたのだと思われます」
「これは……。改めて確かめるまでもなく、少のうございますわね」
小部屋に並べられた荷の方は、四十人もの付き人が従っていたにしては随分少なかった。
上等そうな箪笥の引き出しのみ、大きく傷の入った六尺棒、他には蹴り跡のついた小さめの行李――衣装箱ぐらいしか目立つものはなく、後は歯の折れた櫛や破かれた衣服など、小物ばかりである。
静子様が中身のない衣装箱に手を伸ばし、ため息をついた。
見れば、俺にも何となく見覚えがある菊の紋が光っている。これは同じなんだなあと、少し驚いた。
「……ですが、よくぞこれだけでも手元に戻して下さいました。方々にも御礼を」
「いえ、お力になれなかったこと、詫びようもございませぬ」
なんとなく、他にもどんな荷があったのか気になりながら、俺は静子様を手伝って小物を衣装箱に片づけ、それを手に持った。
「戻りましょう、一郎。
朝霧のことも気になりますが……取り急ぎ、付き人の弔いについて姫様にお伺いを立てねばなりません」
「はい、静子様」
再び二の丸へと歩きながら、この騒動の根幹について聞かされる。
幾度も混じる静子様のため息に、俺までため息をつきそうだ。
「きっかけは……何でしたか、他愛のないことだったように思います。
和子様がお父上より賜った手鞠だったようにも、ご実家からお持ちになられた読み本だったようにも……それを欲しいと、一の姫様――皇后である陽子様の娘、月子様がわがままを仰ったのです。貸すだけならばと和子様は頷かれましたが、一つとして戻ってきた物はなく……」
静子様の話をまとめれば……月子様とやらのわがままは、よくある子供のわがままだったのだろうが、相手は自分より立場が上の姉姫で和子様も逆らえるはずがなく、徐々に要求がエスカレートしていったようである。
教育係というか、誰か注意したり教えたりする人はいないのかと俺などは思ってしまうが、注意イコール失職が大手を振ってまかり通るのが後宮であり、高貴な方々の住むの世界だという。姫君にもまともな人はいると静子様も言われたが、大抵は立場が弱いので、嫁いだ後に幸せをつかめればまだましと嘆息されていた。
だが、手鞠や読み本だけでは済まず……。
帝も後宮――よく想像されるような男主人ありきのハーレムではなく、大奥のように内情と独特の約束事が多く今ひとつ口出しのし難い場所らしい――のこと故に手を差し伸べられず、その内にかばい立てしてくれていた生母も病で亡くなり、命の危険を感じた和子はほぼ唯一の味方であった薄小路家の静子・清子姉妹と共に、後宮を逃げ出したらしい。
なんでも、武州派を後ろ盾に持つ自分たちの言うことを聞かない和子様の方が悪いことになっており、それがそのまままかり通るのが、今の後宮なのだそうである。
「帝にあらせられては、全て、ご理解なさってらっしゃるようでした。
姫様が御料地に向かうと……表向きは御料地をご自分の目で見てみたいのだと仰られたときも、舎人に人足をつけて旅支度の全てをご用立て下さったばかりか、忍さえつけてくださったのです。……舎人らは御料地に着いた後、都に返す予定でしたが、忍は今後も身を守るに必要であろうとそのまま姫様付きとなるよう計らわれておりました。
ですが、それを聞きつけた月子様は旅なぞ許せぬと騒がれまして、談判という名の圧力を掛けてこられたのですが、ほぼ内親王の立場を返上するも同然の都へ帰らぬ旅とお知りになったところ……」
天井を見上げ、ふうと大きく息を吐いた静子様である。
「同じ戻ってこないならあの世でも同じであろうと、月子様ははっきり申されました。……それは流石に不味いと気付いたあちらの女房殿の取りなしで、その場は収まったのですが、後は逃げ出すにしても表からとは行かず、数日後、早朝の開門と同時に後宮を抜け、手はず通り私の実家と懇意にしていた商家にて最後の旅支度を済ませ、都を旅立ったのです」
和子様は本当に内親王の位を返上し、御料地でしばらく過ごされてから、行方知れずとなられるおつもりでしたからと、静子様は小さく笑みを浮かべた。
なかなか度胸が据わっていらっしゃるというか何というか、大したお姫様だ。
「どうかしたのですか、一郎?」
「いえ、あの……もしも、内親王の位をお返しになったとしたら、その後がとても大変なんじゃないかなと……」
「一郎は知らないでしょうが、身を隠すなら、遠国のお社や尼寺などもありますし、寺子屋などを開いても良いでしょう。姫様に贅沢はさせてあげられなくなりましょうが、生きて行くだけなら、なんとかなるものですよ」
それもこれも命あっての物種、少なくとも命が狙われぬだけ、後宮より気は楽でしょうと、静子様は俺に笑顔を向けた。
▽▽▽
「え!?」
「済まぬな、一郎。
……まあ、事の次第は後ほどたっぷり語ってやる故、それをこちらに寄越すのだ」
「……はい」
静子様と訪ねた先、姫様に用意された奥の間にはうちのお殿様もいて、何故か脇差しを取り上げられてしまった。
なんでも証拠としてひとまとめにしておく必要があるので、他の刀や巻き上げた財布と共に三州公へと預けることに決まったらしい。
昨日は全く気にしていなかったが、俺が倒したまま表に放りだしてあった悪党共は、お姫様を迎えに来た三州公の侍達が捕まえて今は城の牢に入れてあるという。坂井殿も俺も、本物のお姫様を狙っていたとまでは知らなかったから、これは仕方がない。
……せっかく木刀からレベルアップして格好良くなったのに、少し残念だ。
「それでの、一郎よ」
「はい」
奥では姫様も見ていらっしゃるが、お殿様は俺の知る普段通りか、それ以上の上機嫌だった。少し違和感を感じたが……まあ、堅苦しいよりはいいだろうとしておく。
「直こちらに三州公が参られる。お主はこれを、ご同道の家老河内島殿にお渡しせよ」
「お預かりします」
手渡されたのは封筒……じゃない、書状とでも言えばいいのか、畳んだ手紙を厚めの紙で折り包んだものである。表書きはないが、裏にぐにょぐにょとした殿のサイン――花押が書かれていた。
それからなと、真剣な目を向けられたので、姿勢を正す。
「……お主に受けた恩、余は生涯忘れぬ」
「はい?」
「では一郎、お主はこれにてお役御免とする」
「……へ!?」
息災になと肩を叩かれるも、何がどうなっているのか……解雇されたと気付いたのは、殿が部屋を辞してからのことだった。