挿話の一「三州公の嘆息」
ところ変わって三州美河城、本丸御殿。
「大殿……」
「うむ……」
本来は急ぎであるはずの政務を放りだした三州公――三川美河守は、小姓に命じて煙草盆を取り寄せていた。流石に気疲れが過ぎたのである。
側に控えていた家臣河内島藤治にも喫飯を許し、二人してだれていた。
九大大名家の当主たる威厳など、どこにもない。
『何だと、雲宮様が!?』
『行列は襲われ、供廻り諸とも皆殺しとのこと!』
雲宮こと和子内親王殿下襲わるの一報が、三州公の元に届けられたのがほぼ二刻前。
『おお! で、では、雲宮様はご無事で……』
『は! 身代わりを立て、女房殿とともに落ち延びられたと申しております!』
その殿下の忍が三州と縁のある忍屋敷に渡りをつけ、殿下の無事を伝えてきたのが一刻前。
『瀬口の旅籠に身を隠しておられます!』
『うむ! 早速迎えを出す故、案内せよ!』
更に橋本家の使いと名乗る足軽が半刻前、早馬で殿下の居所を知らせてきた。
使いの足軽に騎馬武者の一隊を付けて送り出し、迎えの駕籠に後を追わせてようやく、額の冷や汗を拭うことが出来た三州公である。
「首の皮一枚、危うく繋がったというところか」
「不覚でありました」
「よい。……余も領内は平穏と高を括っておった」
ぷかりと吐いた煙を眺め、三州公は嘆息した。
襲撃はあっても御無事であればまだ善後策の検討も出来るが、自分の領国内で内親王殿下が命を落としたなどとあっては、流石に言い訳のしようがない。
現況はと言えば、運悪く襲撃はあったが、運良く御無事。
正に首の皮一枚、橋本家様々である。
千石大名とはいえ武家の端くれ、その意気やよし。よくぞ殿下をお守りしてくれたと褒美でもくれてやりたいところだが、そちらは後でいい。
雲宮に対し、こちらは一切、含むところはなかった。ましてやその父君たる今上には、三州公も敬意と忠節以外に抱きようがない。
雲宮もまた、三州に対しては中立あるいは好意的と見ていいだろう。つい昨日、この城に迎え入れた折の歓待時に、返礼の必要もないところを一首詠まれている。
生母の実家は中流の下あたりに位置する公家だが、政治的には中小の大名家以下の影響力すらもなく、今上の側室の中では目立たぬ存在だった上、既に病没していた。
故に宮中の位階や席次ではともかく、力関係としては三州の方が余程上位に位置する。
つまるところ、血筋以外にはそれこそ政治的に無価値な娘の筈なのだが……。
「しかし、藤治よ」
「はっ」
「宮中の内情は余もそれほど詳しくはないが、雲宮様を害して何の得があるのであろう? 失礼ながら、それほどの脅威になり得るとは到底思えぬのだが……」
「……分かりませぬ。ご母堂のご実家も権勢のある家でなし、ご本人の才気、器量などについても噂一つ聞こえてきませぬし……由が見えませぬな」
これは武州の仕業と、三州公は断定していた。
そも、他家では都から遠い三州まで、手を伸ばすには無理がありすぎる。……いや、全くの無理かと言えばそうでもないが、理由が立たなかった。
野盗がたまたま見かけた金持ちを襲ったとするにも、少々疑問が残る。余程の阿呆でもない限り、帝家の紋が入った列を襲うことなどないだろう。
それに、同日に『二度』の襲撃である。偶然は考え難かった。
だが。
その武州の仕業にしても、全く以て整合性がない。
そこが分からぬと、心底首を捻った三州公であった。
この大倭で一番大きな派閥は、大倭最大最強の領国を有する武州公と彼に近しい一派である。
宮中の力関係にもそれは現れており、筆頭はもちろん武州公を父に持つ皇后陽子、それに第一位の側室として武州公と懇意でしられる蓮州公の娘初子が従っている。
陽子の産んだ子は内親王が二人で、武州公直系の帝は次代に譲ることになりそうだが、初子は親王――皇子を産んでおり、派閥、あるいは血筋から考えても、太子として擁立されることはほぼ間違いなかった。
第二の派閥と辛うじて言える反武州派は、第二位と第四位の側室を送り込めてはいるが、それだけである。皇子もいない。
ではそれ以外の側室はとなると、雲宮の実家も含め、政治色の弱い公家や小大名家から嫁いできた者ばかりで、序列をひっくり返しようもなかった。
だからこそ、分からないのだ。
放置しておいても、権勢に揺らぎはない。帝の寵愛だけで妃の実家の宮中序列が入れ替わっていたなど、それこそ大昔のことである。
皇子であればまだ、理解は出来た。将来、帝位を争う可能性のある対抗馬を、芽の内に摘み取ろうとしても不思議はない。
だが、降嫁が一世一代の役どころとさえ揶揄される妾腹の内親王、それも、生母の実家が後ろ盾として宮中内でさえ機能せぬほど立場の弱い者を害したとして、何の得をするというのか。下手に排除するより、ゆるゆると端に追いやり力を削ぐ方が風聞も良かろう。わざわざ危ない橋を渡る必要はないのである。
無論、何か特別な背景や理由でもあるのなら目障りとされるだろうが、三州公の耳に入ってこないほどの小さな話なら、害する理由には少々足りなかった。
では宮中の事情を離れ、世間の力関係から理由を考えてみようとしても……やはり解せない。
後ろ盾のない内親王が、ここ三州にて害される理由が三州への嫌がらせなら……と考えてみるも、やはり納得できるだけのものがなかった。
世間では、武州派が我が世の春を謳歌している。
中立の三州は中央の政治と距離を置いているが、武州派とも反武州派とも、特に争うような理由もなければ、何か新たな問題が起きたということもなかった。
喧嘩を売られる謂われもなく、売るつもりもない。三州の中央への影響力など、それこそ院に直接出入りしている中小の大名家や公家の方が大きいだろう。
それに、武州より小さいとは言えども、九大大名家に数えられる三州ほどの大きな相手なら、潰すよりも取り込みの方が余程楽だった。
他にもあれこれと、関係しそうな噂話や他家の絡む利害について検討してみるも、やはり理由としては弱い。
しかも、雲宮が三州に立ち寄った理由も、下賜された御料地――三洲長谷部御料という名ばかりが立派な帝室領の飛び地――への転地の道中、挨拶に訪れただけのことである。以前よりの繋がりなどなく、三州公にしても雲宮と挨拶を交わしたのはこれが初めてだった。
ちなみに長谷部御料は石高百二十石の小さな荘園領で、都との距離を考えれば実質は島流しに近い。そもそも、化粧料として側室や内親王に御料地が下賜されたとて、直接現地で暮らす必要などまったくなかった。現地を代官に任せ、収入だけを都で受け取るのが一般的な御料地の使い方である。
そこが少々見えてこぬ裏の事情に絡むのかもしれないが……四十名余いたお付きを女房以外全て殺害し、更には落ち延びた先でも襲うという念の入れように、これはいよいよご当人にお尋ねするしかないかと、半ば匙を投げたい三州公だった。
「大殿、武州に罪をなすりつけようと、反武州派が画策した可能性は如何でありましょうや?」
「武州がそれを許すであろうか? 反武州の耳目が武州のそれより長いとは、到底思えぬ」
「はっ……」
長煙管の灰を捨てた三州公は、冷茶に手を伸ばした。
「だが、なりふり構わぬとなれば、無くはない、か」
「武州の領国内で事を起こすよりは、この三州の方が楽ではありましょう」
「……で、あるな」
「大殿!」
「よい、申せ」
ばたばたと足音を立て――火急の場合はわざと音を立てるのも仕込みの内――、城の門外まで送り出していた小姓が戻ってきた。
「迎えに出した駕籠が戻って参りました。雲宮様は今し方無事、城に入られましてございます」
「うむ。余もお出迎えに上がる。藤治、歓待の差配を任せる」
「ははっ!」
三州公は、流石にこの城内では無法もあるまいと嘆息し、小姓に挨拶支度を命じた。