第十二話「三州美洲津」
鷹原の国を出て十二日目、街道を出て川を下った俺達の一行は、ようやく三州公のお膝元、美洲津の町へと入った。
「このあたりで一番大きな町と聞いていましたが、流石に賑やかですね」
「一郎よ、驚くのも無理はないが、ここはまだ町の外だ」
「そうなのですか!?」
「我らの目指す瀬口の船着き場あたりは確かに美洲津のすぐ手前だが、町はもっと賑やかぞ。……子供の頃に来た折は、余も目を奪われたものだが」
訂正。
三州公の領国内ながら、まだ先があったらしい。
こちらに来てから地図を見たことがないので――それほど広くない鷹原の領国地図でさえ、門外不出とされていた――実際に旅をしてきたはずの俺でさえよく分かっていないが、鷹原を出て西に数日、南に数日、川船で更に南下すること三日半……美洲津は鷹原から見て『大体』南の方にあるとだけ、理解していた。
「お披露目の旅故な、南洋海道……ああ、教えておらなんだか、とにかく大きな街道にある関所にて挨拶言上を行わねばならんのだ。遠回りだが、まあ、これも亀千代の門出の儀式の一つよ」
「お殿様、方々! 岸に着けやす、座って下せえ!」
「うむ、ご苦労であったな、孫四郎」
船頭の孫四郎さんが平たい艪をくるりと操れば、船はすいと岸辺に寄っていった。
前日あたりから、人いきれというか、大河の両脇を通る道にも人や荷車が多くなったので、驚かされている。藁葺きの代わりに瓦を葺いた民家や旅籠も目立ち、人々の服装もどこかカラフルに見えていた。
いや、本当に色の数が多いか。道中の村々よりあか抜けていても、これだけ町の大きさが違うなら不思議はない。
まるで時代劇の撮影所かテーマパークのようだが……目の前にある現実なんだよなと、一人小さく頷く。
「孫四郎のお頭!」
「おう! 橋口屋の!」
挨拶一つで岸に綱が放り投げられ、さっさと数人がたぐっていく。皆上半身裸で、如何にも港の若い衆という感じだった。
「えいさ!」
「ほいさ!」
あっと言う間に船はぴたりと岸に着き、渡り板ががったんと渡される。
「どう、どう!」
「落ち着け、鷹誉よ」
屋形船から屋形を抜いたような平底の牛曳舟――川の下りは流れ任せだが、上りの運河堀は岸辺の道に沿って牛に曳かせるのでこう呼ばれる――と岸の間に渡された木の渡り板を嫌がる鷹誉号をお殿様と坂井殿が宥めているのを横目に、俺は荷物を背負って亀千代様の手を握っていた。
「亀千代、しばし待て」
「はい、父上。……一郎、荷物は?」
「もちろん、大丈夫でございます」
川を下っていた三日と半日、ずっと船上にあって牛と一緒に繋がれていたせいか、鷹誉号の機嫌はよくない。
百を数えるほども掛かったがどうにか地上に引っ張り上げた後、俺も亀千代様の手を引きながら岸辺へと足をおろした。
「ふらふらしたりしませんか、亀千代様?」
「うん、平気」
幸い、このあたりは川幅数十メートルはあろうかという大河だったが、船旅の途上は風もなく雨も降らず、心配した船酔いにもならなかった。旅程の半分ほどは狭い運河堀を進んできたので、波が殆どなかったせいもある。
「うわっ!」
「亀千代様!?」
「すっごい大きな船だ! 一郎はあんなに大きな船、乗ったことがある?」
「……ありませんねえ」
大きな驚きの声に、危険かと一瞬身がこわばったが、そうではなかった。
亀千代様の指さした先、船着き場になっている岸のすぐ向こうに、帆船……というか千石船ぐらいしか名前の知らない俺には、そうとしか表現しようのない和風の船が浮かんでいる。……最初に思い出した教科書の遣唐使船は、もっとごてごてとして角張っていたように思うが、まあ、異世界でそのまんまってこともないだろう。
「いっせいの……」
「せいや!」
船の上では、藁筵の帆や太い帆柱に数人のふんどし一丁の男達がとりつき、帆を畳もうとしていた。
船頭だけは小汚い法被のようなものを着て腰に短刀を差し、ふんどし男達にあれこれ指示を出している。時代劇の海賊っぽくもあるが、区別なんてない時代も……あったんだったか?
「どうじゃ亀千代、驚いたか?」
「はい! すごいです!」
「ふむ、一郎も船に興味が湧いたか?」
「まあ、そこそこには。あれが千石船、という船でしょうか?」
「名を知っておるだけ上等だが、そうではない。千石船はもっと大きいし、第一、禁じられておるので川上には入って来られぬな。あれも同じ廻船だが、せいぜい百石積みというところか」
廻船……樽廻船や菱垣廻船なんてのがあったなあと、お殿様の言葉を聞いて思い出す。
TVや映画でなら、それこそ何万トンもあるような戦艦に空母、巨大なタンカーまで見たことはあるが、この三日ほど乗ってきた牛曳舟の他は、中学の臨海学校で乗った八人乗りのボートしか乗ったことのない俺である。民家より背が高いなら、十分に大きい船だった。
「荷を運び商いをする船は廻船、戦に使うのは軍船とさえ覚えておけばそれでよかろう。鷹原にはそもそも船が通るような川がないからな」
ちなみに漁船は大小こそあってもそのまま漁船だが、その他にも形状や用法、地域によって言い回しが違ったりしてややこしいらしい。
「どうじゃ亀千代、満足したか?」
「はい、すごかったです!」
「帰りにも寄るので、このあたりにしておくのじゃ。明日からは忙しくなるからの、今日のところは旅籠で旅の疲れを癒そうぞ」
では行くかと、お殿様は鷹誉号の鐙に足をかけた。
もう少し港の風景を見ていたい気もするが、これも仕事と頭を切り換える。
とにかく俺と鷹誉号が荷物を運ばなければ、この旅は止まってしまうのだ。
「ぱりっと美味い大根漬け、大根漬け! いらんかねー!」
「蜆の佃煮、一皿四文、さらしもん!」
港も賑やかだったが、町の中もたいそう賑やかだった。
夕方に近いが、天秤棒に桶や箱をぶら下げている行商人――棒手振や、荷車も行き交っているし、買い物客なのか籠を手にした女性達も多い。
何よりも、こっちに飛ばされて以来、商店街なんて見るのは初めてだった。
見て分かる魚屋や八百屋はともかく、浮世絵だけを並べた店や、店先に座布団が並んでいて客にお灸を据えている店なんてのまであって面白い。
「おう、ここだここだ」
「うわ、おおきい……」
亀千代様がぽかんと見上げるほど、今日の旅籠は大きかった。……具体的には、鷹原のお城の倍はある。
宿は大通りの中央付近から少し外れた場所で、入り口の正面右に『三州美洲津之北』、左手に大きく『竹田屋』と、俺にも何とか読める字体の大看板がそれぞれぶら下げてあった。正しくは美洲津の町の北隣、瀬口の町になるが、一括りにされているらしい。おそらく、瀬口と書くより名の通りもいいのだろう。
「孝徳」
「はっ」
こちらの世界の旅籠――宿というものは、造りも作法もだいたい現代と同じ、和風の旅館とそう変わりない様子だった。もちろん、按摩椅子や卓球台はないし部屋の床は板張りだが、雰囲気がそのままなのである。
ちなみに寝ずの番は『振り』だけでいいとあらかじめ言い含められているので、お殿様や亀千代様と同じ部屋の入り口と窓際すぐに布団を敷いて、坂井殿に教えられるまま身体をつっかえ棒代わりにして寝ていた。……でなければ、二人交代で身体が持つはずもないのでこれは仕方がない。
「御免」
「はい毎度、ようこそのお越しで。……っと、もしや、橋本のお殿様で!?」
「ほう!?」
「そういうお主は……桶持ちの竹一か!」
「はい、その竹一でございます!」
こざっぱりとした小袖に屋号の入った上っ張りの青年は、坂井殿に続いて入ってきたお殿様の方を見て、あっと驚いた様子で一礼した。お殿様も相好を崩して肩などを叩いているから、旧知の仲なのだろう。
「しかし、久しい。大きゅうなったな」
「皆様のおかげを持ちまして。去年、大旦那様より新たな名を頂戴いたしまして、竹安の名乗りを許されました」
「おお、お主は働き者であったからのう。その年でもう手代になったか?」
「いえ、小番頭|として、店表の出入りを任されております」
俺と同い年ぐらいなのに番頭さんなのかと、改めて竹安さんを見る。
後から教えて貰ったが、店勤めもそれはそれで大変そうだった。戦争に行かないから楽、なんて筈はないのだ。
丁稚として下働きをしながら仕事を覚え、経験を積めば手代に取り立てられて丁稚に仕事を教えつつ切磋琢磨し、やがて番頭へと昇格すればそのうち借り物ながら主人として店を任されたり、時には暖簾分けを許されることもあるというが、番頭まで成り上がるのに十年二十年掛かるのが普通らしい。
平たく言えば丁稚がアルバイト、手代が社員、それより上が管理職……のようなものだろうと、俺は受け取っていた。
もちろん、番頭さんなら雑兵小物格の俺よりは偉い。
「なんと、大出世ではないか! うむ、めでたい!」
「いえいえ……おっと、長話を失礼いたしました。さあさ、お連れ様も」
「うむ。無論、今宵と言わず世話になるが、まだ寄るところがあるのでな。一郎は竹安の案内に従い、先に荷を置いてこい」
「はいっ!」
「孝徳、鷹誉を頼む」
「はっ!」
「竹次、ご一行の荷番を任せる! 竹十朗! 橋本のお殿様と若様に敷物を! 竹八! こちらのお侍様を厩にご案内せよ!」
「荷番の名指しを受けました、竹次でございます、どうぞこちらへ」
入り口で足を拭き、さあさ、お二階へとお殿様より先に部屋まで案内されて、内心驚いた俺である。
口には出さなかったが、畳敷きな上に、掛け軸や刀掛けのある床の間まである部屋は、この旅で初めてだった。
戻ればお殿様は煙管で一服、亀千代様は物珍しげに帳場を見回しておられる。
「さて、一郎」
「はい、殿?」
「余は孝徳と御挨拶の手配りをしてくるのでな、亀千代の事を頼む。そう遅くはならぬが……おお、小遣い銭を渡しておくでな、向かいの茶屋で団子でも食うて待っておれ。何かあれば竹安を頼るのだぞ。亀千代も、よいか?」
「はい、父上。大人しゅう待っております」
「はっはっは、ようできた若様じゃ。……誰に似たのじゃろうな」
亀千代様には笑顔を、竹安さんと俺には口入れ屋に行って来ると一言残し、お殿様と坂井殿は通りに消えていった。
明日、関所を通る時や、三州公の城に赴く時は、家の格に応じた人数が大名行列を作っていなければ、家が傾いたと判断されてしまいかねないとか何とか……。
もちろん抜け道もあって、貧乏な大名家がその時だけ人を雇っても見て見ぬ振りをされるし、行列専門の口入れ屋――人手や道具の手配をする商売も成り立っているのだそうだ。
「一郎、茶屋へ行こう!」
「はい、亀千代様」
俺の手には、渡されたばかりの龍護通寶や瑞天通寶と、四方に字の彫られた数枚の古銭……いや、穴あき銭。
向かいの茶屋はすぐそこで、今の俺は亀千代様をお守りすることこそ仕事、それ以外は心の中で済ませるのが礼儀というものだった。