なみだ
~ 1 ~
彼女は大声で泣いた。
みんなが周りにいたのに、みんなが聞いていたのに、すごく大きな声で泣いた。
廊下にいた私達にも突然の雷のように響いて、弾んでいた会話も、その『崩れる』と言う言葉がそのまま当てはまるような……そんな彼女の泣き声にかき消された。
彼女は2つの分岐点に立たされ、そのウチの一つ『ここに残ること』を強く望んでいた。だから、遊びの時間もふざける時間もそこには彼女の姿はなかった。
……私は、彼女が『ここに残る』ものだとばかり思っていた。
ずっと、そう思っていた。
彼女は時々私に嘘をついた。隠し事もした。けれど姉のようにいつも行動を共にしてくれた。私には心強い味方だった。
……そんな彼女が泣いている。大声で。ただ大声で。
なぜそんなに泣かなくちゃいけないのか。その理由を知ったのは『結果』が出た後だった。
彼女の姿を見たのはそれから数時間後。
赤い目をして、自分でもどんな態度をとったらいいのか分からないという……そんな雰囲気が痛いほど伝わってきて。
笑ってごまかそうとしたけど笑えなかった。
「アイスクリームでも食べに行こう! あたしがおごってあげるから!」と、今までずっと誰かにオゴってもらっていたはずの誰かが笑って言った。賛成の声が挙がる中、それでも彼女は微妙な笑みを口元に浮かべているだけだった。
彼女は時々私に嘘をついた。隠し事もした。けれど姉のようにいつも私の前を歩いてくれていた。
そんな彼女が無口な私に言う。
「大丈夫だから」
大人の勝手な都合で子供が振り回されることは『よくある話』だ。けれど、そのよくある話の主人公になってしまった子供は、よくある話としてその物語を突き進んでいくしかないのかな。
どんなにもがき苦しんでも、小さな手じゃ、知識のない頭じゃ、『そこ』から抜け出すことはできないのかな。
その細い手を掴んで、引っ張り上げれるだけの力。
そういう力が私には欲しかった。
二人きりの帰り道。私と彼女は同じマンションに住んでいたから、学校への行き帰りはいつも一緒だった。
みんなとの別れ際、彼女の視線が外れた隙にこっそり傍にいた子に言われた。「明るくしなくちゃダメだよ」と。
充分に分かっている。『その事』には一切触れずに、他愛もない会話を続け明るく振る舞う私に、彼女は思い出したように笑顔で言う。
「あ。言うのが遅くなったね。合格おめでとう」と。
誰かにも言われた言葉。彼女からのその一言は、誰からの言葉よりも一番重くて、その時は涙を堪えるので必死だった。
学校から離れたところ、途中から乗る二人乗りの自転車。いつも前に乗って漕いでくれた彼女の背中はいつもと同じ。何も変わらない。無口なのはいつものこと。風に言葉が流されてしまうから、自転車に乗るときはお互いに口をきかない。そんな空気がその時はとても重くて、早く家に帰りたいと願っていた。
……この自転車。一度「私が漕いであげる」と言って、二人乗りした途端横に倒れて二人で足に怪我をした自転車。
私が彼女を後ろに乗せて走ることは……ない。
段々と近付いてくるのは未来。逃げたくても逃げられない。
イッソウのことダッシュで走って、やって来る未来よりも先に進んで、そうして『絶対にやってくる別れ』を遠くで振り返って、見ないフリをしたかった。
……歩道のない道を、車が横を通り過ぎる道を、重そうなカバンを肩から下げて、足下の石をケリながら駅までの道を歩き続ける。決めたわけでもないのに、石ころを交互に蹴る。草の中に入ってしまうとまた新しい石を捜す。
彼女がこの町を離れてしまう。
昨夜のテレビのこと。昨日の学校のこと。季節のこと。手紙のこと。どこにでもある会話を、毎日繰り返されるような会話を、肩を並べて話して。
そこにはもう涙はなかった。涙も、そしていつもの笑顔も。
「夏には帰ってこれるかな?」
「遊びに行ってもいい?」
「写真とかも送るね」
「……あ。電車だね……」
彼女は時々私に嘘をついた。隠し事もした。けれど姉のようにいつも私を引っ張ってくれていた。
私は、彼女がたばこを吸っていたことも、悪い人達と付き合っていたことも、お酒を飲んでいたことも、ケンカをしていたことも、私が私の好きな人となんとかくっつくようにと走ってくれてたことも……何も知らなかった。
入ってきた電車に何のためらいもなく乗り込んだ彼女。
私は笑顔で手を振った。「さよなら」の言葉はないまま。
『また会える』という保証はどこにもない。このまま会えないかも知れない。
彼女はただ一言。「ありがとう」と残して、遠い街に消えた。
彼女は時々私に嘘をついた。隠し事もした。
けれど、それらの全ては「あなただけは前を向いていて欲しい」という……彼女の『想い』が強くあったことを、彼女の消息が途絶えた数ヶ月後……知った話し。
~ 2 ~
家出娘が居座っている。
「家出をしてきました」という言葉はないが、ここ1週間ほど生活を共にしているし、私の洋服を貸してあげているから、これは家出だろう。
理由は聞いていない。聞こうとも思わない。居座りたいのなら、居座っててもいい。同棲みたいでおもしろい。
家に帰れば一緒にご飯を食べてくれる。楽しく話もできる。
『誰かと一緒に住む』ということの楽しさは、この子から教わったのかも知れない。ただし、この家出娘はタダメシ食いだから食費がかかる。
彼女の話はいつもおもしろかった。冗談なのか真実なのか、分からない話も多かった。いつの間にか『冗談』を本気にして『本当』を信じなかった。
人間が一人で生きられる生き物なら、きっとこの世界は殺し合いで真っ赤に染まっているだろう。
彼女だって一人じゃ生きられない。だから私の所に飛び込んできたんだろう。
家が近所でうるさく言う人もいない。気楽に過ごせると思ったのかも知れない。だから私の所を選んだんだろう。
……そう思いたい。
彼女の話はいつもおもしろかった。小さいことでも大きくして話をしてくれた。それがいいことか悪いことかは別にどうでも良かった。
彼女は話すとき、笑顔を絶やさなかった。
一本の電話がかかってきた。知らない男の人。彼女の父親らしい。「帰ってくるようにと伝えておいてください」とのこと。彼女に伝えると、「放って置いていいよ」と言う。
それよりも気になったのが、彼女が突然私にくれた小物。「泊めてくれてるお礼」だそうだが、……そんなものを買う余裕が彼女にあるのだろうか。
疑問だったが何も聞かなかった。
『何も聞かない』ことが優しさなのか。
『聞く』ことが優しさなのか。
……聞いたところで私にはどうすることもできないことが多すぎる。
私は逃げることが上手くなっていく。
彼女の口から家出の原因を聞かされたのは、彼女が「家に帰る」と言ったその前日のことだった。
彼女は、どうもいろんな男の人と付き合っているらしい。鼻と口の間に大きなほくろがあったのだが、それがとてもイヤで、男の人にお金を出してもらってホクロを取った。たまにリッチだと思うと、男の人に会っていたりする。それを非難する人も多かった。死語で言うサセコだと彼女を嫌う仲間も増えた。
……確かにそういう風になってからの彼女はどこか違って見えたのだが、しかし他人のことをとやかく言う必要はない。
「ただの男好き」なんだと言っていた人もいた。
『男好き』なんて、男と女がいるんだから男好きがいたっておかしくはない。
けど彼女の場合、男好きなのではなく『そこ』に逃げていただけだった。
大人の勝手な都合で子供が振り回されることは『よくある話』だ。けれど、そのよくある話の主人公になってしまった子供は、よくある話としてその物語を突き進んでいくしかないのかな。
どんなにもがき苦しんでも、小さな手じゃ、知識のない頭じゃ、『そこ』から抜け出すことはできないのかな。
その細い手を掴んで、引っ張り上げれるだけの力。
そういう力が私には欲しかった。
彼女が話してくれたのは、その頃の私からしてみれば『テレビの中の世界』の話だった。それを彼女は笑いながら話をする。彼女の『おかしくて楽しい』会話ではない。顔では笑っているけど……その奥は?
……泣いている?
誰にも助けてもらえないなら逃げるしかない。
それが血の繋がった親からの性的虐待を受けていた彼女が選んだ道。
いつも怯えていたこと。早くどこかに逃げたかったこと。早く誰かに抱かれてしまいたかったこと。
……冗談? 真実?
……彼女はただ笑っていた。
「帰らなくていいんだよ」
精一杯の気持ちで言えた、たった一言の言葉。それだけしか言えなかった。
彼女は笑った。
「大丈夫。何かあったら、また飛び出してくるから」
彼女は逃げるための道を探し続けていた。誰にも涙を見せることもなく。
初めて涙を見せたのは、別れの時だった。
「ねぇ、覚えてる? あの海のトコ。……そうそう。ヘンなモノがいっぱい落ちてた。……約束したじゃん? またここでみんなで会おうって。あれってさ……いつって決めてなかったね。そういえば……」
遠いところへ旅立つ決心をした彼女が「あいさつに」と来てくれたのは、電車が出るギリギリ前の時間だった。
『逃げる』ための旅だが、彼女の顔は明るかった。
数ヶ月前の『あの子』の時とは違って、また違う気持ちで胸が痛い。
「あたし美容師になるよ。そしたらさ、髪の毛切ってあげるからね」
笑顔で言う彼女に私はうなずいた。
そんな私に彼女は問いかけてくる。
「何か、夢はある?」
……夢。
そういえば、誰ともそんな話はしたことがない。けれど、眠っているモノはある。
彼女にうなずき答えてみせると、彼女は、とびっきりの笑顔で言った。
「絶対に叶うよ。あんただったら絶対に叶うから……諦めないでね。あたし達の分まで夢を叶えてね」
彼女はそう言うと私を抱きしめてくれた。
鼻をすする音が聞こえた。腕が震えていた。きつく抱きしめられ初めて分かった。
……もう二度とこの子とは会えないかも知れない。
私はただ何度も、何度もうなずいた。それは『夢を諦めない』という無言の約束だったのかも知れない。どうしてあんなにうなずいたのかは……思い出せない。けど……もう作った笑顔はいらない。
見送ろうと靴を履いた私に、彼女は「いいよ」とそこから止めた。
「……一人で行けるから」と。
彼女の話はいつもおもしろかった。冗談なのか真実なのか、分からない話も多かった。笑顔だったから信じないこともあった。けれど、『笑顔』は彼女の仮面で、『おもしろい話し』は彼女の束の間の安らぎだったこと……。その事に気が付いたのは……彼女が背を向けた後の話し。
~ 3 ~
気が付いたときから走っている列車がある。到着するのは『夢』という名の駅。ひたすら目指していたその場所。
……もし列車が事故に遭い、二度とそこに辿り着くことができないと分かったら?
その時、大切なことに気が付いた彼は、初めてある感情に大粒の涙を流した。
彼は家族を大切にした。一番好きなのは母親。その次に妹たち。その次に姉。その次に弟。最後に父親。
父親が俗に言うヤクザ。母親は看護婦。この両親の愛情が足りなかったせいだろう。彼は非行に走った。夜中になれば爆音を立ててバイクで街中を走り、気に食わない人間がいればケンカをした。警察でも有名な悪ガキだ。けれど妹たちの顔を見ると、その悪ガキも一変して『天使』の顔になる。
3歳になる一番下の妹は生まれたときから耳が悪くて、何かを耳にはめていた。けれど、それでもちゃんと言葉が聞こえないんだろう。彼女の言葉は赤ちゃん言葉だった。
彼は、そんな彼女を兄弟の中で一番に可愛がっていた。言葉が通じないのに、何にでも返事をしておしゃべりをする。時間があれば妹たちの相手をしていた。
「こいつらのためなら、オレ、なんでもするよ」
彼は人を笑わせるのが得意だった。そのためならものまねもする。芸もする。下ネタも言う。怒られもする。自分を傷付けることもする。
どんなことをしてでも人を笑わせようとした。
彼の部屋からはいつも異臭が漂っていた。それはシンナーと呼ばれるモノ。親は黙認……というより、『勝手に死ね』とでも言っているようだった。
もし、そう分かったとき、まず最初に親が彼を止めていれば、家族思いの彼はきっとそんなバカなマネはしなかっただろう。
そんな彼の部屋の中央には大きな『夢』があった。ドラムだ。
バンドでドラマーとしてもこなしている彼の夢は、もちろん将来ビックになること。毎日バイトをして、ドラム機材の支払いをして、彼は夢中になってその夢を追いかけていた。
しかし、そんな彼を見ながら多くの人間は「その前にシンナーで頭をやられる」と影で言い合っていた。それを直接彼に言う人間は少なかった。
彼と付き合っていた彼女もその一人だ。
おとなしく無口な彼女は、彼の言いなりのまま、毎晩のように彼の元に行き、そしていつものように朝帰りをする。
いつしか彼女に聞いたことがあった。「あんな奴のどこが良いのか」と。
彼女は笑いながら答えた。
「ホントだね」
彼は人を笑わせるのが得意だった。そのためなら走り回る。嘘泣きもする。落書きもする。殴られもする。自分を傷付けることもする。
どんなことをしてでも『笑顔』を必要としていた。
「やめないとホントに死んじゃうよ?」
彼に言った忠告の言葉。
そんなにシンナーが良いモノなのか。
お酒を飲むような感覚なら、まだお酒を飲んで欲しいモノなのだが、なにしろシンナーというものは簡単に手に入るモノらしく、その簡単さが彼らを刺激しているようだ。
彼女は……まだ彼の傍にいる。心配そうな視線をいつも彼に注いで。
彼は彼女を従えながらドラムを叩く。
「最近、手の調子が悪い」とぼやく彼に、みんなが影で言う。
「ほら、とうとう来たよ」
大人の勝手な都合で子供が振り回されることは『よくある話』だ。けれど、そのよくある話の主人公になってしまった子供は、よくある話としてその物語を突き進んでいくしかないのかな。
どんなにもがき苦しんでも、小さな手じゃ、知識のない頭じゃ、『そこ』から抜け出すことはできないのかな。
その細い手を掴んで、引っ張り上げれるだけの力。
そういう力が私には欲しかった。
彼は酒に酔った父親に暴力を受け、「一緒に住みたくないから」と親戚に頼んで家の敷地内にプレハブ小屋を建ててもらった。
母親は看護婦業が忙しく、ロクに家に帰ってこない。
小さい妹達は、祖母の所に預けられていたようだが……。
そんな中、彼の異変に気が付いたのは誰もいなく、彼女に連れられ病院に運ばれたときは手遅れの状態だった。
……やせ細った手。土色の顔。一人で起き上がることもままならない。そんな彼の病室には、いつも彼女の姿があった。しかし、私は一度も「彼の親が来た」という話を耳にしたことがない。
彼の病棟は精神科。
車椅子の彼は、そこでも精神病を患っているみんなを笑わせていた。
彼は『こうなること』を分かっていて、シンナーを続けていたのだろうか……。
数週間後の退院。お見舞いに行こうとみんなで彼の家に遊びに行ったとき、彼の姿はなかった。
……目に焼き付いたのは、粉々に割れたガラス窓。そして、ナイフか何かで皮を切り裂かれ、無造作に転がっているドラム達……。
「二度と走ることはできない。そして素早い動きもできない。体が腐っている。ドラム? そんなモノ、叩けるわけがない。一生無理だよ」
彼が医者から言われた最期の言葉。
彼は気が狂ったように部屋を荒らし、『二度と辿り着けない駅』を壊そうと暴れ、そして姿を消した。
……彼が私達の前に現れたのはそれから数日後。
バカみたいに笑い、シンナー臭い姿で。
誰もが「自業自得だ」と投げやりに言葉を捨てた。全てが終わった後、彼を大声で貶した。
「やめないから悪いんだ」
「バカだ」
「言った通りじゃん。絶対こうなるって」
……彼女が泣いていた。
その傍で、彼はうつろな瞳でシンナーを離さなかった。誰かか彼を殴った。なのに彼は笑っていた。
「ドラムはどうするの?」
問いかけてみると彼はボンヤリと答えた。
「いらない。もう叩けないから、こんなモノ燃やす。捨てる」
その一言で、彼女は彼から離れることを決心した。
彼は人を笑わせるのが得意だった。けれど、どんなにふざけてみても、彼女の笑顔を、もう見ることはなかった。
彼女がさよならを告げたとき、彼はショックを受けた。そしてその時初めて笑わせることをやめ、大粒の涙をこぼした。
……彼女は知っていたのかも知れない。彼に必要なのは彼自身を支える何か。
『人』。誰かを笑わせることで『自分』の存在をそこに焼き付けたかったこと。暴走して、誰かに『自分がここに生きている』ことを知らせたかったこと。けれど、そうする勇気が本当は彼にはなかった。その力を手に入れるために、現実から逃げるために、シンナーに手を出した。
もう一つが『夢』。親からの愛情が無くてもドラムを叩いていればそれだけでも幸せだったこと。
シンナーで現実から逃げ、無限の力を手に入れる妄想に包まれながら、彼は毎夜叫び続け、痛みを感じないその拳で誰かを傷付け、そして夢から覚めたとき、誰よりも妹たちを大切にする臆病なドラマーになる。
そんな彼を知っていた彼女は、ある約束を交わしていたのだ。
「自分が傍にいるときだけは、シンナーをしないで」と。だから彼女はいつも彼の傍にいた。無口でおとなしい彼女の、精一杯の愛情だった。
そして、そんな彼の夢を応援してきた彼女の役目は、彼が全てを投げ捨て、目の前で堂々とシンナーに手を出したと同時に終わった。
彼は気が付いた。
いつの時もわがままを聞いてくれたのは、毎日のように傍にいてくれたのは、夢を応援してくれたのは彼女だけだったこと。彼女との約束は、全て自分のためだったこと。
……背中を向け合い続けた恋人は、私達の前で崩れ落ちた。
彼女は涙を流しながら、「もう限界だ」と彼を捨て、彼は涙を流しながら、「もう一度オレにチャンスをくれ……!」と皮の破れたドラムにガムテープを貼り続けた……。
とあることで警察にお世話になったとき、そこに悪ガキ共が補導されていたことがあった。それを見ていた私に大人が言った。
「あいつらは人に迷惑かけることしかしない。クズだ」
いたずらな笑みを浮かべている悪ガキを見ていて彼を思い出した。
……クズ?
「じゃあ、あの子達をクズにした大人達は問題ないんですか?」
問い掛けると、大人は笑っているだけで答えなかった。
彼は人を笑わせるのが得意だった。そのためになら自分を犠牲にすることもできる。彼女の笑顔を取り戻そうとした彼は完全にシンナーをやめ、言うことを聞かない体で新聞配達を始め、彼女の誕生日にバイト代全てをつぎ込んでプレゼントを用意した。しかし彼女はそれを受け取らなかった。それでも彼は諦めなかった。
彼が見つけた新しい駅は、『愛する人』。
その駅に向かうために彼は新しい列車に乗り、走り始めたという噂を聞いたのは……彼女が誰かと結婚した後の話し。
まだまだ多くの『なみだ』と出逢い、そしてその度に自分の非力さに後悔した。結局は『逃げる』ことだけが上手くなり、今も「誰かのために」なんてかっこいいことはできない。……きっと一生できないだろう。
思い出せば「あの時、どうして……」なんて言葉ばかりが溢れてくる。
過去を振り返って自分を責めたところで、それでも過去に戻れやしないんだったら、このまま歩き続けるしかない。
……ただ、「できるだけ逃げないように」と心に言い聞かせて。
あの頃より、少しはこの手も大きくなった。
その『少し』の分だけでも顔を上げられることができたら、それだけでも充分だと、そう思っている私はやっぱり逃げているんだろうか。
『なみだ』の数は減ることはない。けど減る必要はない。それがあるから気が付くこともある。
素直に涙を流せずに、独りでいるときにしか泣けない。そんな悲劇を演じている人間になりつつある私に、『なみだ』をください。