彼女登場
弥生姫子は美少女である。
さらさらの黒髪に強い意志を宿した瞳。
運動神経抜群、魔法も含めた全ての科目に関してトップといった、何処かの物語にでも出てきそうな端麗な容姿と明晰な頭脳を持つ美少女である。
ゆえに、あまたの男達を虜にし、しかも女性からも憧れのまなざしを向けられるそんな美少女であり、凡人ぽい慧などが相手にされるような存在ではない。
無いはずだった。
だが、入学式のあの日、如月慧は運命が変わってしまったのだ。
別になんてことはない。
転びそうになったのを少し支えた、その程度の出来事だ。
しかもその時の慧といえば、手を差し伸べた時に、服越しに胸の柔らかい感触が、よっしゃーとなっていたくらいである。
しかも目が合った瞬間ものすごい美人だと気づいて、慧は顔を赤くした。
そして、またお会いしましょう、と上品に笑いかけられて、これからの学校生活が楽しみだなとちょっとした期待を胸に、慧はささやかな幸せを味わっていたのだ。
なのに……こんな事になるなんて。
立ち上がった姫子は、真っ直ぐに慧を見据えて、ふっと獰猛に微笑む。
「……そろそろ、諦めて私のものにならない? 慧」
「いえ、あの、遠慮します!」
「……入学式のあの時、私、貴方に一目惚れしてしまったの」
「はい、もう十回以上聞いていますので……もう言わなくてもいいんじゃないかなって」
慧はそう答えながら、どう逃げようか思案する。
逃げるならば、姫子のいる場所と反対方向なので、黒板の方の扉から外に出るのが妥当だろう。
そんな後ずさる慧に姫子は、
「どうして慧は、すぐにそんな事を言うの? あの日からずっと、私は貴方の事が好きなのに」
「嬉しいのですが、別の方を探すという案はいかがでしょうか?」
「私、慧以外は要らないの」
砂糖菓子のような甘い声で答えて、姫子は一歩一歩、慧に近づいていく。
そんな姫子に、慧はがたがた震えながら、
「く、来るな、来るな、くるな……」
「……酷い。私、こんなに勇気を振り絞って慧に言っているのに。今日はいつもよりも少し控えめにしているのに……」
うるっと姫子にされて、慧はそれ以上いえなくなってしまう。
こんな可愛い子にこんな悲しそうな顔をされるなんて、それで何とも思わない男は、普通はいない。
どうしようと慧が悩む。
そしてその瞬間を姫子は待っていた。
ふわりと風が凪いで、慧の眼前に姫子が現れる。
「捕まえた!」
「ひいいいいいいいい」
慧の胸に飛び込むように姫子が抱きついてきて、慧は悲鳴を上げる。
風の魔法を使って、慧が逃げる前に姫子が慧に抱きついたのだ。
凪いだ風と共に、ふわりとシャンプーの香りがして、一瞬慧はどきまぎしてしまう。
腕の中に飛び込んできたその体は柔らかくて、女の子で、なんか良い匂いがして……。
慧は顔が沸騰してしまいそうだった。
そんな初心で純情そうな慧の様子に、姫子は悪女のようににやりと悪い笑みを浮かべて、
「ふふふ、可愛いわね。何度も抱きついているのに、いつまで経っても慣れないのね」
「だ、だって……そんなの……というか、女の子がはしたないです!」
「あら、この前は、あそこの和臣と一緒に、水着のグラビアアイドルを見て、おっぱいおっぱい言っていたくせに」
「……どうして知っている」
「どうしてだと思う。当てたら教えてあげるわ?」
そうくすくす笑う姫子。
というか知っているってそれって……慧の行動が姫子に筒抜けという極めて恐ろしい事態が起っていることに他ならない。
プルプルと振るえ出す慧に、さらにくすくすと姫子は笑ってから、
「たまたま、廊下を通ったらそう貴方が言っているのを聞いたの。驚いた?」
という理由だったらしい。非合法な手段が一切使われていない事に、慧がほっとしていると、慧の頬に姫子が手を当てて撫ぜる。
その手があまりにも白く滑らかで、そしてその細い指が慧の頬をつうっとなぞる。
その感触に、なんだか酷くいけないことをしているような気がして慧は更に顔を赤くする。
そんな慧の様子を一瞬すらも見逃すまいというかのように、姫子はうっとりしたように慧を見ながら、
「私は肌をそこまで露出していないのに、どうしてそんなに慧は恥ずかしがるのかしら?」
「だ、だって……」
「だって?」
「そ、その……姫子は美人だし、俺、だって男、だ、し……」
「男だったら、私みたいな綺麗な彼女……欲しいでしょう?」
「か、彼女は欲しいけれど、でも、姫子は、ない、です」
慧は気力を振り絞って拒絶する。
確かに、初めは慧は嬉しかった。
女の子に好意を寄せてもらって、俺のもてるそんな最高の時期が! と思った。
でも、こうやって追い掛け回された挙句……。
「俺、もっと普通な子がいいです! もっと大人しくて優しい子がいい……」
「慧……やっぱり今のうちに慧のご両親を説得しておこうかしら」
「やめて! 外堀から埋めようとするのはやめて! 大体なんで俺なんだ! 他に幾らでもいい男はいるだろう!」
「あら、慧みたいな可愛い子が私は好みなの」
「おかしいよ、絶対にこれはない。明らかに無い。は! 何かの陰謀が……」
「……こんな風に私の事を認めない、そんな慧は私、嫌いだわ」
嫌いという言葉に、慧はぴくんと反応した。
つまり、姫このことを絶対に認めなければ、嫌われて最終的に諦めてくれるのではないかという淡い期待を慧は持った。
だが、現実はそんなに甘くは無い。
姫子は、そんな何処か希望を見出したような慧に微笑んで、
「そんな所はゆっくりと私好みに修正していけば良いわね?」
「ひぃいい、な、何を言って……」
「あら、容姿も性格もほぼ私好みなのだから、後は……私の気に入らない所を一つ一つ、直していけばいいでしょう?」
「け、けれど好きな相手は良い所と悪いところ全部受け入れるのもいいかなって」
「でも、今のうちから一つづつ努力を積み上げていくのはいいことだとは思わなくて? だって、愛は育む物でしょう?」
「多分こんな方法では愛は生まれないし、育ちもしないかと」
そう必死で言い返す慧に、姫子は、
「困ったわ、素直じゃない兎はどうしてくれようかしら」
「あの、何時から俺は兎になったのでしょうか?」
「私が貴方を獲物と定めたときからずっとそう。こうやって逃げ回る貴方もまた、私にとっては可愛い子兎にしか過ぎないの……」
囁くように甘く、獲物を誘惑するように姫子が慧を見つめる。
その熱に慧もくらくらするが最後の気力を振り絞って、
「も、もうすぐ昼休みが終わるかなって」
「あら、そんな時間か。残念だわ……またお会いしましょう? ……次もまた逃さないから」
そう、小さく慧に告げて、姫子はその場を去っていく。
その姿を見送りながら、慧は、へなへなとその場に座り込んでしまったのだった。