3.
◆◆◆
橘はそれから10分ほどでマンションのエントランスに到着した。オートロック設備になっていたので、インターホンに鍵を差し込み解錠を済ませる。空腹に耐えかねていたので、そのまま真っ直ぐエレベーターへ向かう。エントランスを真っ直ぐ突き抜けると、エレベーターがちょうど1階で待機していたので、乗り込むなり橘はすぐさま扉を閉めた。迷わず4階のボタンを押すと、エレベーターはわずかに低くうなってから緩やかに上昇しはじめた。
ちょうどその時、エレベーターのほうに一人の少女が歩いて向かってきていたことに橘は気がついた。
少女は少し俯きながら歩いていたので、こちらの視線に感づいたような様子はなかった。途端、小さな罪悪感が橘の心に芽生えた。このマンションにはエレベーターは1台しか備わってないうえに、少女は杖をついて立っていたのだ。きっと下半身のどこかの具合を悪くしているのだろう。食欲は人間にとってごくありふれた、抗いようのない欲望であるとはいえ、自分のそれによって、他人が不都合を被ってしまったということを再認識すると同時に、己の中で罪悪感の芽がむくむくと育っていくのを橘は確かに実感した。しかしだからといって、4階に着いたのちに階段で急いで下に戻り、その少女のためになにか有意義な補助をしてやれるかというと、それには少しタイミングが悪すぎることもよく分かっていた。それに、そんな埋め合わせみたいな行動は中途半端な偽善だと、彼女を不快にさせるかもしれない。
これは人が生きる上で避けることのできない、埃のように降りかかってくる小さな罪のうちのひとつだったのだろう。橘は、そう思い込むより他になかった。
◆◆◆
「ヨンマルニ、ヨンマルニ」
四○二号室。
ここまでくる間、心の中でそうしていたのと同じように、自作の簡単なメロディに乗せて合言葉を反芻してみるが、自分の眼前に確認できるものは、やはり四○二号室の室名札に相違ない。そして何度見返しても、ドアの脇に張りつけられた表札用プラスチック板には、『橘 大介』と兄の独特な筆跡で記された紙が差し挟まれている。
「……ここだよね?」
もう勘弁してくれ、寒くて腹ペコで見知らぬ土地で、もう俺のメンタルは十分こてんぱんにされてんだよ。そりゃ、大元を辿れば俺が望んだことだけど。――この時の橘の心情にあてはまる、ある日突然世界で一人絶望に突き落とされた感覚とは、案外簡単に味わうことができるものである。
表札を確認してはそのたびに鍵を差し込み、力具合や角度を微妙に変えながら、がちゃがちゃと回してみる。何度も何度も、同じ動作を繰り返して、鍵を握り続けることで手が鉄臭くなっても、繰り返し。
……はあ。
ため息が思わず自分の口から漏れたので、橘はいったん手を休めることにした。ドアに背をあずけ、ずるずるとその場に座り込む。解放廊下の手すり壁と上裏の間からは、今まで見たことがないほどの明るい星空の世界が広がっていたけれど、今の橘には、それにすべてを手放して感動できるほどの余裕は残されていなかった。とにかく、ほかのどんなことよりも空腹が橘の頭を占めていたのだ。ひとまず大介にヘルプを求めるメールを送ろうと、橘は携帯を取り出した。鍵が開かない、どうしよう! なんて、十七歳男子にしては情けない字面だと思ったが。
ふと橘の頭に純粋な疑問がよぎる。
――そもそも、エントランスのオートロックにはちゃんと使えた鍵が部屋に入る時に突然使えなくなるなんて、本当にありえる話なんだろうか。
しかし、その思考は近くで発せられた声にいとも簡単に遮られた。
「あの……大丈夫ですか?」
少し怯えた色を含んではいるが、よく透る澄んだ声。
その声の持ち主は、橘の右隣のドアの前に立ち、彼の様子を窺っていた。
杖をつきながら自分を見つめる小柄で華奢な少女が、先ほどエレベーターに乗り損ねてしまった少女だと気づくまでに、橘はほとんど時間がかからなかった。